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覚賢塔

 『覚賢塔』は、『浄光明寺』の裏山にある塔となり、その昔、『浄光明寺』の隣にあった『多宝寺』の長老となる『覚賢』の墓となります。
 『多宝寺』は、山号は「扇谷山」、開基は「北条業時」、開山は「忍性」と云われています。創建は、1262年頃と考えられており、いつ頃まで存続していたかは不明の、現在は廃寺となっています。

 北条業時(1241~1287)は、「極楽寺」の開基である「北条重時」の子となり、「浄光明寺」で紹介した「北条長時」の弟になります。普恩寺という寺院(鎌倉にあったが所在は不明)を建立したことから、北条業時の家系は「普恩寺流北条家」と云われ、最期の六波羅探題北方の長官である「北条仲時」は、業時の曾孫にあたります。


  「覚賢塔」


「覚賢塔」・・・「新編鎌倉誌」によると、「忍性」の墓とされていましたが、関東大震災時に塔が倒れたりして、昭和51年に修復した際、内部から「多宝寺覚賢長老遺骨也」と記された納骨壺が見つかり、覚賢の墓と判明しました。写真では判りにくいですが、高さは3m近くもある巨大なものです。

 「覚賢塔」は国の重要文化財になります。戦前は国宝でした。



 「覚賢塔」周辺には、「多宝寺址やぐら群」と呼ばれるやぐらが点在しております。



 「覚賢塔」の上にある平場・・・う~ん、ここも何かあったんでしょうね。



 『覚賢塔』に行くには、春に開催される鎌倉まつり(4月第2日曜~第3日曜日)の際、「冷泉為相の墓」裏の木戸が開放されるので、その際に行くことができます。

 「冷泉為相の墓」(浄光明寺内)・・・裏の木戸が鎌倉まつりの際に解放されます。ここからだと数分で「覚賢塔」で到着します。



 「冷泉為相の墓」の背後にあるやぐら群も見れます。




 春まで待てないとか、鎌倉まつりの時は都合が・・・という方のために、別の行き方も紹介しますが、道はかなりひどく、危ない上に迷いますので、正直お勧めはできませんので、行かれる際には、自己責任でお願いします^^:


「行き方」
青梅聖天』から行く方法もありますが、せっかくですので、『浄光明寺』から行ってみましょう。

*「浄光明寺」までの行き方は「浄光明寺(前編)」を参照。
①左に曲がり「浄光明寺」に入らずに、そのまま道を直進します。


②真っ直ぐに進むと、行き止まりの看板がありますが、構わずに突き進みます。


③途中、左右に分かれる分岐点があります。左手は木戸があるので遠慮して、右に進みます。すると尾根に到着します。
写真だとわかりにくいですが、行けばわかるさ~^^

 「尾根」・・・左の道が「覚賢塔」への道となります。右に行くと何処かの民家に着きますので、こちらには行かないでください。



④ちなみに尾根を真っ直ぐ降りていくと、すぐに「青梅聖天」に到着します。

真っ直ぐに降りていくとすぐに「青梅聖天」の階段にぶつかります。赤いのは階段の手すりになります。


⑤(③の続き)しばらく進むと右に曲がる分岐点に着きます。右に行くと「亀ヶ谷切通し」方面に向かいます。なので、右に行かずに真っ直ぐに進みます。
 「分岐点」・・・わかりにくいって!行けばわかるさ^^


 ちなみに、自分はこの分岐点に来た時に、彼方からガサッガサッと音がするではないですか!!
 「ひょっとして熊か!^^:」とおろおろと身構えたところ、熊の割には毛の薄い熊・・ではなく、初老のおじさんでした。
 冷静に考えれば熊なんて鎌倉に居るわけないんですよね^^:
 おじさん曰く「亀ヶ谷の切通しに抜けたいんだけど、この道で良いのかな?」と聞かれる自分。
 行った事ないからわからないながら、地図を広げておじさんと話し込むこと数分・・・「亀ヶ谷の切通しに行きます!」と結論付けた自分は、熊・・・改め、おじさんと別れを告げたのです。


⑥そのまま進んでいると、ちょこっと「覚賢塔」の先が見えてきます。ここで到着です。結構、ここまで時間が掛かりますね。


 ちなみに帰り道は、熊おじさんの事が気になり、自分も「亀ヶ谷の切通し」方面の道に行きましたが、その様子は、「覚賢塔(亀ヶ谷にて彷徨う)」で、また紹介します。


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佐竹やぐら

 『大寶寺(佐竹屋敷跡)』の説明で触れた『佐竹やぐら』について、紹介します。場所は『妙本寺』境内にある『竹御前の墓』に行く途中の岸壁沿いにあります。


 大寶寺開基の「佐竹義盛」には子供がいなかったため、関東管領・山ノ内上杉憲定の次男・龍保丸(佐竹義仁)を養子にします。義盛が亡くなり、龍保丸が跡を継ぐのですが、佐竹一族である佐竹(山入)常元は、他家の者が当主になることがおもしろくなく事あるごとに謀反を起こします。
 1422年、佐竹義仁に従わない佐竹常元を苦々しく思っていた鎌倉公方「足利持氏」は、佐竹常元が鎌倉の佐竹屋敷に居ることを知り、上杉憲直に強襲させます。佐竹常元は、防戦するが叶わず、佐竹屋敷裏の大寶山(佐竹山)を越え、妙本寺でも戦いますが、最後は佐竹常元親子及び家来13人は妙本寺の法華堂にて自害します。『佐竹やぐら』は、これら佐竹常元親子及び家人13人の墓と云われています。


 『佐竹やぐら』・・・「鎌倉大草子」によると、祟りをなしたので、一時祀られていたこともあるそうですので、見学時には気をつけましょう^^:

 

 『大寶寺(佐竹屋敷跡)』の背後にある山は、大寶山(佐竹山)といいますが、山の向こう側は妙本寺になります。
 ちなみに山の形が、佐竹家の家紋(五本骨扇に月丸)である扇の形に似ているといいますが、どうでしょうか?

 『五本骨扇に月丸』・・・佐竹家の家紋です。



 『大寶山(佐竹山)』・・・扇の形と云われれば、なんだかそんな様にも思えてきます^^


 

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黄金やぐら

 『釈迦堂口の切通し』を大町方面に抜けていくと、直に『黄金(こがね)やぐら』の案内が見えてきます。
 『黄金やぐら』は、やぐら内のヒカリゴケが黄金のように光り輝いていたことから、その名で呼ばれるようになったものですが、現在は、ヒカリゴケは存在しなく、従って光り輝やくやぐらではありませんが、『釈迦堂口の切通し』の近くにあるので、寄った際には、立ち寄ってみては如何でしょうか。
 ちなみに、行き方は全くといっていいほど案内がなく、わかりにくいので、下記の記載内容をよく確認してください。


 『釈迦堂口の切通し』を大町方面に抜けると、直に案内があります。案内に従いここを左折します。左折せずそのまま行くと、「大寶寺(佐竹屋敷跡)」を経由し、県道311号にでます。


 案内には200mとありますが、それ以上あるような気が・・・



 ここで左折し、坂の上を登っていきます。目印は町内会の案内板と左折後の坂道に見える「名越自治会館」になります。


 「名越自治会館」を横目に見て、上りましょう。


 ごみの収集場所がありますので、フェンスから見下ろしてみると、「黄金やぐら」になります。



 『黄金やぐら』・・・水が溜まっています。この丸い白いものは何なのでしょうか?ちなみに肉眼では見えませんでした。






 この『黄金やぐら』もそうですが、鎌倉の名所旧跡等に対する行き方の案内が不十分だと思う事が正直、多いです。この『黄金やぐら』なんかは、先の案内の1箇所しかなく、それに従って行っても見つけることは、ほぼ不可能といっていいかと思います。実際、自分もわからず、現地近くに住むおばちゃんに道を聞いたら、快く教えてくれた上に、途中まで案内してくれました。どこぞのおばちゃん、ありがとうございました。人の親切に接して、何だか嬉しかったものでした。
 ちなみに、このおばちゃん、案内だけでなく、この「黄金やぐら」についての説明もしてくれました。なんと、この「黄金やぐら」は、御伽草子にある「唐糸草子」に出てくる唐糸が閉じ込められていたものだというではありませんか!確か唐糸が閉じ込められていたという「唐糸やぐら」は、この近くにありますが、この黄金やぐらにもそういった逸話があるとは知りませんでした。地元の人でしか知らない話も聞かせてもらって、本当に感謝です^^。
 ちなみに「新編鎌倉誌」によると、東御門の山上にも、唐糸の閉じ込められたとされる場所があるとかないとか記載されていますね^^:。
 *「唐糸やぐら」については、また後日紹介しますさ~^^






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段葛

 鎌倉には、桜の名所は数多くありますが、そのなかでも『段葛』は、日中ばかりでなく、夜間もライトアップされており、特筆すべきスポットといえます。
 「段葛」は、別名「置路」とも云われ、「吾妻鏡」によると、1182年3月に源頼朝の妻「北条政子」の安産を祈願して、鶴岡八幡宮の社頭から由比ガ浜まで、曲がっている道を直して参詣の道を造ったとあります。この参詣の道は、「若宮大路」となり、中央の一段高くなっているところが、「段葛」となります。当時は、北条時政等の有力御家人自ら、土石を運んで協力したそうです。

 「段葛」入口・・・「二の鳥居」のところから始まります。
 昔は、「一の鳥居」の所まであったそうですが、現在のようになったのは、明治時代の横須賀線の開通に伴ってのことだそうです。








 夜の段葛・・・提灯のあかりの元での夜桜も素敵です。



 段葛は、「鶴岡八幡宮」の「一の鳥居」までのおよそ500mになります。両脇の桜は大正時代に植えられたそうです。
 一番上の写真と比較してもらうとわかりやすいですが、鶴岡八幡宮に近づくにつれ、道幅が段々と狭くなっています。これは、遠近法により、実際よりも路を長く錯覚させる狙いがあったそうです。


 『段葛』の夜桜は、自分はとても好きで、毎年、夜中に見に行きます。今年は、職場の友人(横須賀在住)とお酒を飲んで、酔っ払った状態で、ふらふらしながら午前0時過ぎに見に行きましたよ^^。
 

 

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北条義時やぐら

 『北条義時公墓・新法華堂跡』では、平成17年の発掘調査で、「北条義時・新法華堂」の場所が特定できた旨を紹介しましたが、この近くには、以前から『北条義時やぐら』と呼ばれる「やぐら」が存在しています。
 確かに「吾妻鏡」に記載されている通り、右大将家法華堂の東の山上を墳墓とすとの記載には合致する場所にあり、『北条義時公墓・新法華堂跡』からも、ほんの数分の距離にあります。
 ただし、義時の墓は法華堂を建てておりますので、「やぐら」ではないので、ここではないかなとも思いますが、古くから云われているのには、何かしらの意味がありそうですね^^
 
 『北条義時やぐら』・・・前後2室構造のやぐらになります。かなり傷んだ卒塔婆には「北条義時公○○証菩提也」と書かれています。



 『北条政子やぐら』・・・義時やぐらの向かって左手のやぐらになります。



 『北条義時やぐら』の行き方は、島津忠久墓・大江広元墓のl項目で触れた島津・大江の墓の参道階段前をそのまま通り過ぎていきます。

 数分で左手に入口がありますが、この写真を見てもわかりませんよね。



 入口です。よく目をこらすと石段みたいのが見えます。



何となく石段のような跡をたどっていきます。



 『北条義時やぐら』までの道は、距離はたいした事はないのですが、わかりにくく、途中に急勾配の場所もあったりと、はっきりいって行くのに苦労します。
 ちなみに、「鎌倉虎の巻」も、ここで2回も滑落しました^^:
 行ってみようと考える奇特な方は、くれぐれも行く際には気をつけてくださいね。


 「鎌倉虎の巻受難の地①」・・・ここで滑落しました。



「鎌倉虎の巻受難の地②」・・・ここでも滑落しました。







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北条義時公墓・新法華堂跡

 

 「北条義時公」は、鎌倉幕府の初代執権である「北条時政」の次男で、第2代執権になります。比企氏や和田氏等の有力御家人を排斥し、また承久の乱では、幕府軍を導き、朝廷を圧倒し、北条家による独裁的政治を築き、鎌倉幕府を安定且つ発展させた人物となります。
 このような冷静沈着なイメージが強い北条義時ですが、御家人「比企朝宗」の娘の「姫前」に恋をし、何度も恋文を送ったが、無視されていたところ、頼朝が仲を取り持って、絶対に義時から離婚をしないという起請文を取った上で、結婚させたというエピソードがあります。結構、情熱家だったのかもしれませんね。(なお、比企氏は、1203年「比企能員の乱」で、北条義時によって滅ぼされてしまいます。)
 ちなみに、息子の北条(名越)朝時が北条政子の女官に恋文を送った時には、朝時を一時、勘当しています。厳しいですね^^:
 北条義時は、1224年に脚気衝心が原因(妻の伊賀氏による毒殺説や近習に刺殺された説もあり。)で亡くなりますが、「吾妻鏡」によると、右大将家法華堂(源頼朝公の墓(法華堂跡))の東の山上を墳墓とすと記載されております。平成17年に発掘調査が行われ、その墳墓(新法華堂)の場所が特定されました。
 その場所こそが、島津忠久墓・大江広元墓の石段下にある平地となります。


「新法華堂跡」



 この「新法華堂跡」地の傍らにあるやぐらが「三浦一族の墓」となります。
 三浦一族は、神奈川県三浦半島を所領とする豪族であり、三浦大介義明は、源頼朝の旗揚げに参加し、「衣笠城」にて戦死し、それ以降も三浦一族は頼朝に尽くしたため、幕府内に大きな地位を占めるようになります。北条氏に唯一対抗できる勢力を図った三浦一族ですが、1247年の宝治合戦の際、北条氏によって滅ぼされてしまいます。右大将家法華堂(源頼朝公の墓(法華堂跡)の頼朝の絵像の前にて三浦泰村以下三浦一族郎党500人余りが壮絶な最期を遂げました。)


「三浦一族の墓」



 北条家による独裁体制を築いた義時の新法華堂。そして、その傍らにあるのは「北条氏」により滅亡させられた「三浦一族の墓」。これらが同じ空間に存在しているのは、なんだか不思議な感じですね。

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島津忠久墓・大江広元墓

 『源頼朝公の墓』の東側にある何だか危なそうな階段を昇り進むと、直に石造りの立派な墓が3つ並んであります。これらのお墓は、『島津忠久』、『大江広元』、『毛利季光』のものとなります。
 こんな危なそうな階段は昇れんという方には、法華堂跡前の道を右に進むと、お墓の参道がありますので、こちらから行く方がより安全に行けます。



 『源頼朝公の墓』の東側にある階段・・・ここを登りますが、ちょっと危険ですので、気をつけてください。




 「白旗神社」前の道を右に20Mほど進んでも行けます。こちらの方が安全です。




参道入口となります。こちらの参道は、『大江広元』及び『毛利季光』の墓につながっています。(『島津忠久』の墓にも行けますが、こちらの参道入口はもう20Mほど先に行った所となります。)




『島津忠光』の墓の参道入口となります。こちらの道の方が荒れているので、上記の参道から行きましょう。なぜってどちらの道も途中で合流しているので大丈夫です。



両参道の合流点です。左側の石段を登ると、『大江広元』及び『毛利季光』の墓になります。右側の石段を登ると『島津忠久』の墓になります。
 ちなみにこの写真の撮影場所は、『北条義時公墓・新法華堂跡』となります。




 『毛利季光』の墓 


 毛利季光は、大江広元の4男にあたり、相模国毛利庄(現在の神奈川県厚木市)を領有していたことより、「毛利」姓を名乗ることとなります。ちなみに戦国時代の中国地方の覇者である「毛利元就」は、この季光の子孫となります。
 毛利季光は、承久の乱の際にも活躍を見せ、また32歳で評定衆にもなり、鎌倉幕府の幕政に深く関わるようになりますが、1247年6月「宝治合戦」の際には、三浦泰村の妹を妻としていたことから、三浦一族に味方をし、頼朝を祀る「法華堂」にて、三浦一族と共に自決します。
 ちなみにこの宝治合戦の勝利者である北条時頼は、この毛利季光の娘と1239年に結婚しているので、時頼にとっては、義理の父となるわけです。義理の兄と義理の息子の争い、さぞ立場は辛いものがあったでしょうね。実際に、両家の仲を取り持とうとすることもしています。
 「吾妻鏡」によると、この宝治合戦の際に、最初は執権側に味方をしようとしたところ、妻(三浦泰村の妹)に、「兄を捨てて、執権に味方をするのは、武士のすることか。年来の約束を違えるのか。」と責められ、それも尤もとし、三浦氏に加勢したとあり、また、隣宅に住む甲斐前司泰秀は、三浦方に向かう季光の軍とすれ違った際、季光の義理は武士として当然として、その場で討ち取ることをやめて、あえて行かせたとあり、これは武道の情に叶うものであるとの話があります。
 なお、「毛利季光」の墓は、昔の地図を見ると、鶴岡八幡宮の西にある「志一稲荷」の近くにあり、どうも毛利家によって後年、現在の地に移されたようです。

『志一稲荷』・・・この裏辺りに「毛利季光」の墓は元々あったそうですが、今は住宅地のようですね。



『大江広元』の墓


 「大江広元」は、源頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府の政所別当として大いに活躍をし、草創期の幕府を支えた人ですが、曽祖父の「大江匡房」も頼朝の高祖父の「源義家」に兵法を教えたとされるので、よくよく縁がある関係なんですね。また、十二所の明王院の裏山にも墓と伝えられるものがあります。


「島津忠久」の墓


 「島津(惟宗)忠久」は、九州・薩摩の島津氏の祖となる人であり、惟宗忠康(異説あり)と丹後内侍の子となります。母の丹後内侍が源頼朝の乳母である比企局の娘であることからも、頼朝の信頼も厚く、薩摩、大隈、日向(現在の鹿児島・宮崎県)の守護職となります。
 この島津忠久に対する厚遇ぶりには、実は源頼朝のご落胤だからという説もありますが、実際はどうなんでしょうかね。そういえば、九州の大友氏の祖である「大友能直」も同じく、頼朝のご落胤といわれていますね^^
 さて、『源頼朝公の墓』の所で、何故に薩摩藩主「島津重豪」が「源頼朝」の墓を整備したのは、こういった事情があったからなんですね。


 「大江広元」、「島津忠久」の墓は、江戸時代に出来たものですが、明治維新の原動力となった「薩摩」と「長州」の祖が、こうして並んでいるというのも、これも何かの縁なんでしょうか。

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和賀江嶋

 『和賀江嶋』は、材木座海岸沖の現存する日本最古の人工港です。 
 昔から材木座海岸付近は「和賀江」と呼ばれており、鎌倉時代になると、鎌倉が政治・経済の中心地として繁栄する中で、和賀江も港として大いに賑わいますが、遠浅のため、船舶の着岸時に風波の影響を受けることがあり、難破する船も後を絶たなかったそうです。 
 そのようななか、1232年に勧進聖人「往阿弥陀仏」が、船の着岸の際に煩いをなくすため、時の執権「北条泰時」に『和賀江嶋』の築港申請をおこない、これが許可され出来たのが『和賀江嶋』となります。 
 ちなみに「往阿弥陀仏」は、1231年に現在の福岡県鐘崎に人工港を築いたとの記載が宗像神社文書にあり、その道のエキスパートだったのでしょうね。
  「吾妻鏡」によると、築港の申請をし、泰時が喜んで許可と援助を与えたのが7月12日とあり、工事の着工が始まったのが、7月15日とあります。そして、完成したのが、8月9日とありますので、わずか26日間で完成したこととなります。今では考えられない位の迅速さですね^^
 『和賀江嶋』は、その後も何度か修復されながら、江戸時代頃までは利用されていたようですね。
 


 「和賀江島」 ・・・石碑の向こうに見えるのがそうです。




干潮時はこうなります。(ちなみに潮位39センチです。)




干潮時には「やどかり」さんにも会えますよ^^



 『和賀江嶋』の行き方は、「光明寺前の道を数分逗子方面に進むとあります。
 『和賀江嶋』は、潮位によっては全くもって海中に埋もれてしまいますので、干潮時に行く事をお薦めします。当時、座礁の危険から救いたいという「往阿弥陀仏」聖人の心根を偲ぶと、感慨深いものです^^


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源頼朝公の墓(法華堂跡)

 鎌倉の発展は、源頼朝が父・源義朝が住んでいた地であり、また要害の地であった鎌倉を根拠として幕府を開いた事から始まり、鎌倉時代には実質上の首都となりました。 そのように鎌倉と切っても切り離せない存在である『源頼朝公』の眠る墓所を訪ねてみました。


 源頼朝公の墓は、頼朝の時代に幕府のあった大蔵の地(現、雪ノ下)のすぐ北の地に位置しております。亡くなった後も、幕府を見守ったのでしょうね^^
 鶴岡八幡宮の東に位置しており、案内もありますので、行くのには苦労はしないと思います。


「法華堂跡地」



正面の階段を上がると「頼朝公のお墓」になります。右手の道を進むと「大江広元の墓」や北条義時公墓・新法華堂跡になります。
  


「白旗神社」・・・源頼朝を祀った神社となります。元々、この地には1189年「髻観音」を安置した観音堂が建てられ、後に開基を「源頼朝」開山を「専光房良暹」とする「右大将家法華堂」がありました。



 「源頼朝公の墓」・・・現在のお墓は、18世紀に薩摩藩主「島津重豪」が整備したものとなります。



「頼朝公の墓より当時幕府のあった大蔵の地を見守る」


 何故に島津さんが、頼朝の墓を整備したのか・・・それについては、次回の「島津忠久墓・大江広元墓」の項目でお話しますさ~^^



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金龍水

 鎌倉は、良い水に恵まれない土地ですが、そのなかで良質な水は、とても貴重であり、『鎌倉5名水』(「金龍水」、「不老水」、「銭洗水」、「日蓮乞い水」、「梶原太刀洗水」)と呼び、とても重宝されました。
 その中の『金龍水』は、鎌倉五山第一位に列せられる『建長寺』の西の外門前辺りにありましたが、昭和28年から始まった道路拡張工事に伴い埋められ、現在はありません^^:
 建長寺に行かれる際には、ちょっと思い出してやってください^^

 「西の外門」



金龍水(跡地)は、建長寺バス停前のポストの傍らにあります。



色違いの舗装路が、「金龍水」の跡を指しています。
皆さん、偲びましょう^^  「南無~ 」


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