『源頼朝公の墓』の東側にある何だか危なそうな階段を昇り進むと、直に石造りの立派な墓が3つ並んであります。これらのお墓は、『島津忠久』、『大江広元』、『毛利季光』のものとなります。
こんな危なそうな階段は昇れんという方には、法華堂跡前の道を右に進むと、お墓の参道がありますので、こちらから行く方がより安全に行けます。
『源頼朝公の墓』の東側にある階段・・・ここを登りますが、ちょっと危険ですので、気をつけてください。
「白旗神社」前の道を右に20Mほど進んでも行けます。こちらの方が安全です。
参道入口となります。こちらの参道は、『大江広元』及び『毛利季光』の墓につながっています。(『島津忠久』の墓にも行けますが、こちらの参道入口はもう20Mほど先に行った所となります。)
『島津忠光』の墓の参道入口となります。こちらの道の方が荒れているので、上記の参道から行きましょう。なぜってどちらの道も途中で合流しているので大丈夫です。
両参道の合流点です。左側の石段を登ると、『大江広元』及び『毛利季光』の墓になります。右側の石段を登ると『島津忠久』の墓になります。
ちなみにこの写真の撮影場所は、『北条義時公墓・新法華堂跡』となります。
『毛利季光』の墓
毛利季光は、大江広元の4男にあたり、相模国毛利庄(現在の神奈川県厚木市)を領有していたことより、「毛利」姓を名乗ることとなります。ちなみに戦国時代の中国地方の覇者である「毛利元就」は、この季光の子孫となります。
毛利季光は、承久の乱の際にも活躍を見せ、また32歳で評定衆にもなり、鎌倉幕府の幕政に深く関わるようになりますが、1247年6月「宝治合戦」の際には、三浦泰村の妹を妻としていたことから、三浦一族に味方をし、頼朝を祀る「法華堂」にて、三浦一族と共に自決します。
ちなみにこの宝治合戦の勝利者である北条時頼は、この毛利季光の娘と1239年に結婚しているので、時頼にとっては、義理の父となるわけです。義理の兄と義理の息子の争い、さぞ立場は辛いものがあったでしょうね。実際に、両家の仲を取り持とうとすることもしています。
「吾妻鏡」によると、この宝治合戦の際に、最初は執権側に味方をしようとしたところ、妻(三浦泰村の妹)に、「兄を捨てて、執権に味方をするのは、武士のすることか。年来の約束を違えるのか。」と責められ、それも尤もとし、三浦氏に加勢したとあり、また、隣宅に住む甲斐前司泰秀は、三浦方に向かう季光の軍とすれ違った際、季光の義理は武士として当然として、その場で討ち取ることをやめて、あえて行かせたとあり、これは武道の情に叶うものであるとの話があります。
なお、「毛利季光」の墓は、昔の地図を見ると、鶴岡八幡宮の西にある「志一稲荷」の近くにあり、どうも毛利家によって後年、現在の地に移されたようです。
『志一稲荷』・・・この裏辺りに「毛利季光」の墓は元々あったそうですが、今は住宅地のようですね。
『大江広元』の墓
「大江広元」は、源頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府の政所別当として大いに活躍をし、草創期の幕府を支えた人ですが、曽祖父の「大江匡房」も頼朝の高祖父の「源義家」に兵法を教えたとされるので、よくよく縁がある関係なんですね。また、十二所の明王院の裏山にも墓と伝えられるものがあります。
「島津忠久」の墓
「島津(惟宗)忠久」は、九州・薩摩の島津氏の祖となる人であり、惟宗忠康(異説あり)と丹後内侍の子となります。母の丹後内侍が源頼朝の乳母である比企局の娘であることからも、頼朝の信頼も厚く、薩摩、大隈、日向(現在の鹿児島・宮崎県)の守護職となります。
この島津忠久に対する厚遇ぶりには、実は源頼朝のご落胤だからという説もありますが、実際はどうなんでしょうかね。そういえば、九州の大友氏の祖である「大友能直」も同じく、頼朝のご落胤といわれていますね^^
さて、『源頼朝公の墓』の所で、何故に薩摩藩主「島津重豪」が「源頼朝」の墓を整備したのは、こういった事情があったからなんですね。
「大江広元」、「島津忠久」の墓は、江戸時代に出来たものですが、明治維新の原動力となった「薩摩」と「長州」の祖が、こうして並んでいるというのも、これも何かの縁なんでしょうか。