「北条義時公」は、鎌倉幕府の初代執権である「北条時政」の次男で、第2代執権になります。比企氏や和田氏等の有力御家人を排斥し、また承久の乱では、幕府軍を導き、朝廷を圧倒し、北条家による独裁的政治を築き、鎌倉幕府を安定且つ発展させた人物となります。
このような冷静沈着なイメージが強い北条義時ですが、御家人「比企朝宗」の娘の「姫前」に恋をし、何度も恋文を送ったが、無視されていたところ、頼朝が仲を取り持って、絶対に義時から離婚をしないという起請文を取った上で、結婚させたというエピソードがあります。結構、情熱家だったのかもしれませんね。(なお、比企氏は、1203年「比企能員の乱」で、北条義時によって滅ぼされてしまいます。)
ちなみに、息子の北条(名越)朝時が北条政子の女官に恋文を送った時には、朝時を一時、勘当しています。厳しいですね^^:
北条義時は、1224年に脚気衝心が原因(妻の伊賀氏による毒殺説や近習に刺殺された説もあり。)で亡くなりますが、「吾妻鏡」によると、右大将家法華堂(源頼朝公の墓(法華堂跡))の東の山上を墳墓とすと記載されております。平成17年に発掘調査が行われ、その墳墓(新法華堂)の場所が特定されました。
その場所こそが、島津忠久墓・大江広元墓の石段下にある平地となります。
「新法華堂跡」
この「新法華堂跡」地の傍らにあるやぐらが「三浦一族の墓」となります。
三浦一族は、神奈川県三浦半島を所領とする豪族であり、三浦大介義明は、源頼朝の旗揚げに参加し、「衣笠城」にて戦死し、それ以降も三浦一族は頼朝に尽くしたため、幕府内に大きな地位を占めるようになります。北条氏に唯一対抗できる勢力を図った三浦一族ですが、1247年の宝治合戦の際、北条氏によって滅ぼされてしまいます。右大将家法華堂(源頼朝公の墓(法華堂跡)の頼朝の絵像の前にて三浦泰村以下三浦一族郎党500人余りが壮絶な最期を遂げました。)
「三浦一族の墓」
北条家による独裁体制を築いた義時の新法華堂。そして、その傍らにあるのは「北条氏」により滅亡させられた「三浦一族の墓」。これらが同じ空間に存在しているのは、なんだか不思議な感じですね。