金沢のことは、すべて書いたと思っていましたが、忍者寺こと妙立寺(みょうりゅうじ)のことをすっかり忘れていました。寛永二十年(1643年)、三代藩主前田利常公の命により、城内にあった祈願所を移し、運上町に妙立寺が創建されました。当時、加賀藩は百万石の禄高を誇る外様大名の雄として徳川幕府から常に監視下に置かれ、相当の緊張状態にあったということです。このような背景から、利常は金沢の街をはじめとして、幕府の軍勢を迎え撃つ態勢を整えていきました。
金沢城を挟む犀川と浅野川を自然の濠に見立て、両河川の外側に寺院群を移築し、城の防備としました。特に、妙立寺に近い犀川は川幅があり、寺町台からは急な斜面となり、現在の犀川大橋以外には橋を架けることなく、天然の要塞にしたのです。これは、福井方面からの幕府軍勢の侵攻を想定したもので、金沢城が直接攻撃される以前に寺町台で迎え撃つために、寺町寺院群に出城の役目を持たせたものといわれています。
その中で、妙立寺は短期間に能登石動山、新竪町そして現在地へと移転が行われ、寺町寺院群の中では比較的遅い時期に(1650年代)に移築されました。以降、前田家の祈願所として歴代藩主自らが参詣し、武運長久と庶民の安穏を祈願したということです。また一方では、万一の場合の出城の役割を持たせました。そのため、建物全体が迷路状の極めて複雑な構造を有していることから、現在では「忍者寺」とも呼ばれています。
事前に電話予約をして、拝観料800円を納めると、少人数のグループに分かれて見学を始めます。藩主は年2回定期的に参詣をしましたが、そのときは一般の参詣は規制されます。しかし、不定期の参詣のときは、一般大衆の参詣を規制できないので、藩主は一般と動線を分けて寺に入り、本堂の中二階にある部屋からご本尊を密かに拝みます。
落とし穴になっている賽銭箱、秘密の通路、隠し部屋、隠し階段、明かり取り階段、隠し戸、井戸からの逃走経路など、様々な仕掛けが施してあります。建物は7層になっているのですが、外部からは3層にしか見えないようになっています。写真撮影禁止なので、内部の写真はありませんが、見学するだけでもわくわくするようなトリックが一杯です。
金沢にお越しの際は、妙立寺の拝観をぜひお勧めします。
金沢城を挟む犀川と浅野川を自然の濠に見立て、両河川の外側に寺院群を移築し、城の防備としました。特に、妙立寺に近い犀川は川幅があり、寺町台からは急な斜面となり、現在の犀川大橋以外には橋を架けることなく、天然の要塞にしたのです。これは、福井方面からの幕府軍勢の侵攻を想定したもので、金沢城が直接攻撃される以前に寺町台で迎え撃つために、寺町寺院群に出城の役目を持たせたものといわれています。
その中で、妙立寺は短期間に能登石動山、新竪町そして現在地へと移転が行われ、寺町寺院群の中では比較的遅い時期に(1650年代)に移築されました。以降、前田家の祈願所として歴代藩主自らが参詣し、武運長久と庶民の安穏を祈願したということです。また一方では、万一の場合の出城の役割を持たせました。そのため、建物全体が迷路状の極めて複雑な構造を有していることから、現在では「忍者寺」とも呼ばれています。
事前に電話予約をして、拝観料800円を納めると、少人数のグループに分かれて見学を始めます。藩主は年2回定期的に参詣をしましたが、そのときは一般の参詣は規制されます。しかし、不定期の参詣のときは、一般大衆の参詣を規制できないので、藩主は一般と動線を分けて寺に入り、本堂の中二階にある部屋からご本尊を密かに拝みます。
落とし穴になっている賽銭箱、秘密の通路、隠し部屋、隠し階段、明かり取り階段、隠し戸、井戸からの逃走経路など、様々な仕掛けが施してあります。建物は7層になっているのですが、外部からは3層にしか見えないようになっています。写真撮影禁止なので、内部の写真はありませんが、見学するだけでもわくわくするようなトリックが一杯です。
金沢にお越しの際は、妙立寺の拝観をぜひお勧めします。