鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

東洋医学の原点を創出した人々の立場とは〜新・旧二つの観念論〜

2016-03-14 22:15:09 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 医古文の学びを行なっていくほどに、東洋医学の原点を創った人々の立場というものが、現代の東洋医学(や鍼灸論)を説く人々の立場とは違っていると思えてくる。両者ともに、同じくに観念論の立場なのではあるが・・・・・・観念論にも新・旧二つあるのではと思う。
 
 東洋医学の原点である、「黄帝内経」をモノした人々の立場=旧・観念論の立場は、古代中国という時代の時代性の制約から、例えば個別科学の未発達等から、分かり様のない部分についてはアタマの中で創像するしかなかったからの、いってみればそうとしか考えられなかったからの、観念論であったのだと思う。
 これは、例えば「よくわかる黄帝内経の基本としくみ」(左合昌美著 秀和システム)や「霊枢概要」(神麹斎著 ヒューマンワールド)を一読いただければと思うが、東洋医学の原点を創出した人々が、迷信や呪術を否定していた等々、当時にあっては科学的?立場にあった。ということが説かれてある。

 ここは、哲学と東洋医学という違いはあっても、「医学の復権」(瀬江千史著 現代社)で、「アリストテレスにしても、カントにしても、ヘーゲルにしても、たしかに観念論哲学者ではあったけれども、それはその時代が王制であったことに加えるに、その時代の個別科学の発展がまだ不充分であったという、ただただその時代性の結果として観念論哲学にならざるをえなかったというだけのことであって、その研鑽の過程は充分に唯物論的・科学的であったのである。
 すなわち、現代哲学者が、先人の遺産をただ解釈するだけに終始するのに対して、アリストテレス、カント、ヘーゲルは、宇宙=森羅万象の事実という事実を対象として、それらを論理化し、かつ体系化しながら、つまり自ら科学的に研鑽するなかから、世界の体系化を果たしたのである。それゆえ、彼らの学が観念論を把持していたにもかかわらず、その同じ学がその構造に科学性を把持していることを、我々はしっかりと把握しなければならないのである。」
と説いていただいていることが、一般的にはそのままに当てはまる。と思う。
 また、そういう構造を内に含むからこそ、観念論的であるにもかかわらず、東洋医学の古典は役に立つのであると思う。

 それに対しての、現代の東洋医学(や鍼灸論)を説く人々の立場=新・観念論の立場は、何故に・・・・・・。
 いずれは詳細にと思うが、ともかくも同じ観念論の立場といえども、本質的には新・旧で全く違う立場なのであり、現象に惑わされて両者の本質を混同すべきではないと思う。しっかりと弁証法的統一において捉えてやる必要がある。と思える。

 (<弁証法的統一>とは簡単には、形の上で同じでもその本質が異なるものと本質が同じでも形の上で異なるものとを、統一において捉えてやる考えかた。例えば、形の上では同じく白衣を着ていても医師と鍼灸師は違う。また、同じ医師(や鍼灸師)が、形としては私服であったり白衣であったりする場合がある。というような対象の現象と本質のありかたを統一的に捉えてやる考えかた。詳しくは、「弁証法はどういう科学か」(三浦つとむ著 講談社現代新書)のP.81に図入りで説かれているので、興味のある方は是非。)
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。