カレーの味に重層構造がある、重層構造を持つ過程性がある、ということを知った。これは指圧の押しかたにも共通するものである、と思えた。
テレビ番組(『ザ!鉄腕!DASH!!』)でカレー研究所?が紹介されており、そこではカレーの味を過程性のある重層構造を持つものとして捉え返して、口に入れた瞬間から喉を通るまでの?数秒の間の味覚の変化を分析して、それを視覚化して分析して試行錯誤を重ねている、ということを知った。(HPにはぞの図が掲載されているので興味のある方は)
それを見て思ったことは、「指圧の技、押しかた(と離しかた)の構造性、過程性そのものと同じだなあ」ということであった。
具体的には、指圧の押すということは、素人レベルの単純に手の力で押すではなしに、患者の身体に触れることから始まり徐々に圧を加えていって、必要な圧(かつ必要な深さ)での持続圧、そこからの徐々に離すという過程性を1〜2秒から数秒の間に持つものであり、かつそれは単純に手の力だけで行われる、行うものでは無しに、手(指、手首、肘、肩等)の力、体幹の力、足(趾、足首、膝、股間等)の力、それ以上に自身の体重を、同時並行的に重層構造的にプラスマイナスさせての総合力での押す(と離す)であり、図で示せば、カレーの味の分析図そっくりの、過程性のある重層構造、あるいは重層構造性のある過程を持つものである。
また、これは指圧の押すことだけでは無しに、例えば、患者の頭痛の訴えに対しての、それは単に頭痛を訴える部分の問題なのか、首肩からなのか、肩甲間部からなのか、上肢からなのか、腰背部からなのか、腰からなのか、臀部からなのか、下肢からなのか、それらの幾つかの複合的な要因なのかを頭痛が起こっている側の問題として、また反対側の問題として、当然にその両者の問題として考えていくことの図でもある、自身のアタマの働かせかたでもある(形式は違うが)と思えた。
そのような思いになって、何の世界でもプロというものは同じものなのだなあと感心させられ、ブログ記事として原稿用紙に書き始めたのであるが、その書くなかで、「これは南郷先生が説かれる「過程的構造」「構造的過程」ということなのではないのか」ということに気付かされた。
自身のその理解を図示するとこういうこと(カレーの味の分析図)になるのだと思えた。
以上の事柄について、当初は朝の電車でのスマホでの更新をと思っていたのであるが、原稿用紙に向かって書いてみると、スマホでの自身の思うを単に打っていくのと違って、原稿用紙に書いていくと、その思うを考えることになっていくのだなあ、と書くことの大事性を痛感させられたことであった。
テレビ番組(『ザ!鉄腕!DASH!!』)でカレー研究所?が紹介されており、そこではカレーの味を過程性のある重層構造を持つものとして捉え返して、口に入れた瞬間から喉を通るまでの?数秒の間の味覚の変化を分析して、それを視覚化して分析して試行錯誤を重ねている、ということを知った。(HPにはぞの図が掲載されているので興味のある方は)
それを見て思ったことは、「指圧の技、押しかた(と離しかた)の構造性、過程性そのものと同じだなあ」ということであった。
具体的には、指圧の押すということは、素人レベルの単純に手の力で押すではなしに、患者の身体に触れることから始まり徐々に圧を加えていって、必要な圧(かつ必要な深さ)での持続圧、そこからの徐々に離すという過程性を1〜2秒から数秒の間に持つものであり、かつそれは単純に手の力だけで行われる、行うものでは無しに、手(指、手首、肘、肩等)の力、体幹の力、足(趾、足首、膝、股間等)の力、それ以上に自身の体重を、同時並行的に重層構造的にプラスマイナスさせての総合力での押す(と離す)であり、図で示せば、カレーの味の分析図そっくりの、過程性のある重層構造、あるいは重層構造性のある過程を持つものである。
また、これは指圧の押すことだけでは無しに、例えば、患者の頭痛の訴えに対しての、それは単に頭痛を訴える部分の問題なのか、首肩からなのか、肩甲間部からなのか、上肢からなのか、腰背部からなのか、腰からなのか、臀部からなのか、下肢からなのか、それらの幾つかの複合的な要因なのかを頭痛が起こっている側の問題として、また反対側の問題として、当然にその両者の問題として考えていくことの図でもある、自身のアタマの働かせかたでもある(形式は違うが)と思えた。
そのような思いになって、何の世界でもプロというものは同じものなのだなあと感心させられ、ブログ記事として原稿用紙に書き始めたのであるが、その書くなかで、「これは南郷先生が説かれる「過程的構造」「構造的過程」ということなのではないのか」ということに気付かされた。
自身のその理解を図示するとこういうこと(カレーの味の分析図)になるのだと思えた。
以上の事柄について、当初は朝の電車でのスマホでの更新をと思っていたのであるが、原稿用紙に向かって書いてみると、スマホでの自身の思うを単に打っていくのと違って、原稿用紙に書いていくと、その思うを考えることになっていくのだなあ、と書くことの大事性を痛感させられたことであった。