鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

珈琲を淹れる〜そのことを弁証術的に、と捉え返す〜

2017-12-20 22:15:45 | 弁証術
今朝は、時間に少し余裕があったので朝から珈琲を淹れた。そのことを弁証術的に捉え返した。

お湯をポットに沸かして、お湯が沸く時間に豆をミルで碾き、お湯が沸いたらドリッパーを温め、ペーパーフィルターをセットし碾いた豆を入れ、沸騰したお湯を豆全体に行き渡るようにかつサーバーへと落ちないように注ぎ、豆にお湯を含ませ膨らませる。豆が軽く膨らんで、落ち着いたら(十数秒くらいか)ポットの注ぎ口から細く静かにお湯を注いで行く。ドリッパーの中のお湯が全部落ちる少し前に止める。

以上が、自身の珈琲を淹れる過程であるが、それを利き手で無い左手で淹れることで利き手である右手と競わせる、と当然のこととしてこれまで珈琲を淹れていた、かつ利き手である右手の方が上手く淹れられる。

それゆえに、当初は珈琲を淹れても淹れても左手での珈琲の淹れ方は、それゆえに左手で淹れた珈琲の味も、到底右手に及ばない。つまり左手は右手に見事なまでに叩き潰されて、ということを何度も何度も繰り返すこととなる。

その繰り返しの中で、左手は右手の淹れ方に学び、また珈琲を淹れることに慣れ、する中で上達して行くこととなる。

ということの繰り返しの上の繰り返しで、左手はやがて、右手よりも出来が悪い分、意図的に取り組むので、またそれまでにの使い方の繰り返しで個性的に育って来ている、ある意味出来上がっている右手と違って個性的な(変な?)癖の無い分、左手の方が見事に上達して行く、と空想的には考えられる。

しかしながら、例えば全くの他人同士の鈍才と秀才の上達比べであれば、そう言えるかもしれないが、自身を二つに分けての右手と左手の弁証術的競い合いの場合は、少し事情が違って来るのでは無いのか?と思える。

どういうことかと言えば、自身を二つに分けての右手と左手の競い合いの場合は、確かに右手と左手は秀才と鈍才であり、良く使い続けて来た右手とあまり使うことのなかった左手という別の存在であるが、その手を動かす大元の脳細胞は一つである、同じ脳細胞である、という違いがある。

どういうことかと言えば、鈍才である左手を頑張って動かした脳細胞は、そのことで実力を培うのであるから、左手の訓練は直接に右手の訓練、上達にもつながってしまう、ということである。

それゆえに、ゼノンの絶対矛盾のごとくの、英雄アキレスはどんなに頑張っても亀を追い抜けないということが右手と左手の競い合いにも起こるのでは無いのか......そのことによって、自身を二つに分けての、はより激しい競い合いとなって、より見事に上達して行けるのでは無いのか、と。

もしかしたら、「独りっきりでの二人問答」というものは、やりようによっては通常の討論よりも、より見事に、の可能性があるのでは無いのか......。

ここは、しっかりと書くことで改めて、と思う。




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