鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

二百十日とアイヌ民話に学ぶ東洋医学〜先人の知恵としての東洋医学の構造〜

2018-09-09 15:51:45 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
 このところ地震、台風、大雨と大規模な自然災害が続いているが、自身の住む地域でも先日の台風21号の猛烈な風に大自然の猛威を実感させられ、かつ自然災害にかかわる先人の知恵に関心させられている。それとともに、それら自然災害にかかわっての先人の知恵の有効性と限界を考えて見ると東洋医学という先人の知恵の有効性と限界も見えてくると思えた。

 自身の「鍼灸・東洋医学の総括」を書いていくなかで、東洋医学からどのように学ぶべきかということを、すなわち東洋医学をどのように評価するのかということを具体性をもって明確に文章化する必要性がでてきた。
 これまでは、一般的に、東洋医学には実践から学んできた結果としての本当の部分と、それらを説明したり理論的に考えたりするときにその時代性・社会性ゆえのウソの部分が混在しているがゆえに、そこをしっかりと区別して、との思いはあったものの、そのウソの構造、本当の構造の具体性をもった明確な把握がなされていなかった、そこをしっかりと区別していかねばならない、との思いはあったものの、現実にその両者をしっかりと分けて考えていくということは、なかなかに出来るようになっていかなかった。
 それに加えて、時代性・社会性ゆえのウソであるものにも、ウソだけれども本当であるものもある(論理の問題として?)という問題も浮上してきて、それら諸々のことを思いとしてはわかっていると思えるものの、なかなかにしっかりと文章化できないままにきていたものを、どうしても文章化しなければこれ以上書き進められないとの思いへとなってきていた。

 そのような状況で様々な自然災害があいつぎ、たとえば台風21号や北海道大地震(北海道胆振東部地震)が起こり、その猛威に大自然の力の大いさをそれに比べての人間の無力さを痛感させられるとともに、台風や地震にかかわる先人の知恵である「二百十日」や「アイヌ民話」を改めて知ることとなった。
 それらは、昔々の人類にとっては、現代人にとってもではあるが、生死にかかわる大問題である自然災害(台風や地震等)というものを、それらについて知ることでなんとかしたいとの思いからの、究明しようと取り組み続けた結果としての、現象論としての「二百十日」であり、究明しようとして究明し得ないものを、空想的に考えての「アイヌ民話」であると思えた。

 二百十日については日本人にとっては常識レベルのことであるだろうから、「アイヌ民話」のほうを紹介しておきたい。
  「アイヌ民族による言い伝えである。国造神が天から降りてきて島をつくった。いい場所を選んだつもりが、アメマスという大きな魚の背中の上だった。島を背負わされた魚は怒って暴れ出し、地震を引き起こすようになった。更科源蔵著『アイヌ民話集』にある」(「天声人語」朝日新聞朝刊による)

 それら先人の知恵について知ると、現代と違って気象について地球について知るすべのほとんどなかった時代によくぞここまで、と関心させられると共に、東洋医学というものも同じこと!との思いへとなっていった。

 どういうことかといえば、人類が未だ対象の構造にしっかりと分け入っていくだけの実力、認識の実力としても実体の実力としても、を持ち得なかった時代・社会にあって、それでも必要に迫られて、なんとかして対象を究明しようとしていったときに、大きく二つの方法があったのだ、と思える。
 一つは、形として現れている物事から対象とするものを、これはこういうことなのではないだろうか?と考えていく、探っていくあり方であり、いわゆる現象論レベルの対象の究明ということである。

 もう一つは、そのように現象論レベルで考えていくなかで、その時代・社会の実力の限界から、知り得ないこと、分かり得ないことは観念論的な空想となっていくしかなかったのであり、例えば地震の例でいえば、現代の人類の実力からすれば、太平洋のプレートが日本列島の下へと沈み込んでいくことによって‥‥‥とその原因、構造の究明をしていくことが可能なのであるが、昔々には、神様がアメマスの上に島を造られたからアメマスが怒って地震を起こすのだ、だから北海道ではくり返し地震が起きるのだ、との空想的な原因究明をするしかなかった、そうとしか考えようがなかった、ということである。

 それゆえに、現代に生きる我々は先人の何千年という経験の積み重ねによって、現象論レベルで究明されている成果=知恵はそれを受け継ぎ、かつその構造に現代の実力、認識と実体の実力でもって分け入っていくということが求められるのである。(ということは、現代においては常識レベルの認識であるはずであるが‥‥‥)
 一方で、問題となるのは、問題としなければならないのは、昔々の時代性・社会性ゆえに、対象の構造の究明が敵わず、現代から見ればウソ、迷信の類として創り上げられていってしまったもう一つの部分である。
 現代の常識レベルでは、それらはウソや迷信の類として一顧だにせず捨て去ってしまうのが当たり前なのだが、これは例えばヘーゲルの絶対精神について「天を棄てよ!—唯物論」(レーニン)と説いているがごとくにであるが‥‥‥。
 端的には、例えば東洋医学における「気」の問題を、簡単に捨て去ってしまっていいのだろうか?そこにはしっかりと存在意義があるのでは無いのだろうか?ということである。

 以上、要するに、東洋医学には、自然災害にかかわる先人の知恵と同じくに二重性の構造があるから、しっかりとその二重性に見合った形で評価してやらねばならない。そして、その評価をしっかりと踏まえての東洋医学の実践であり、その研究でなければならない、ということが一連の自然災害とそこにかかわる先人の知恵を知ることで思えたということである。

 次回は、東洋医学にかかわっての観念論的ウソ、迷信の類、例えば、「世界の、それゆえ人間の根源は「気」であり‥‥‥」ということは、唯物論的にはウソであり、問題外であるが、そのことをどのように評価するべきなのか、ということについて説きたいと思う。

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