東洋医学の理論~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

庭の片付けに思うこと〜理論と実践の統一について〜

2020-05-15 11:55:00 | リハビリ室閉鎖中の日記
 庭の片付けを行った。実践的であることの大事性、実践なくしては理論的な深まりはないのだと実感された。

 本日、漸くにして一年半近くも片付けねばならない、と思うばかりでほぼ手付かずで放置していた庭の片付けが、もう少しで終われる目処が立つところまで進んだ。

 庭のある生活をされている方には常識であると思うが、庭というものは、手入れ(草抜き等)をしてやらないと、あっという間に草ボウボウの荒地?になっていってしまうものであり、半年も放置すると大変なことになるものである。
 我が家の庭は、そんな状態になってそこからさらに一年近くも、あれこれ忙しいと言訳して放置していた(もう気軽には手がつけられない状態になっていた)のだが、今回、コロナウイルス感染症により職場の約一ヶ月間の閉鎖によって、漸くに片付けに手をつけて、である。

 その庭の片付けをする中で実感されたことが、物事に実践的に関わることの大事性である。端的には、単なる庭の片付けであっても、実践抜きで思う像と実践を通して、つまり庭を実際に片付けることで描く像、結果として思う像とは、大きく違う、そこには大きなギャップがある、ということである。

 具体的には、荒れ放題の庭を眺めて片付けねば、と思っている自身のアタマの中の像は、邪魔な木を伐って、草を抜いて、ゴミ袋に詰めて燃えるゴミで出せばそれで終わり、まあ丸一日、かかっても二日もあれば、というものであった。

 しかしながら、実際に庭の片付けを始めてみると、一般的にはその通りであるのだけれでも、例えば、木を一本伐るということはそんなに簡単なことではなく、伐ることそのものも大変なら、伐った木が倒れることも考えねばならない、切った木をさらにゴミ袋に入るサイズまで小さく切らねばならない、またゴミ袋に入れたら入れたでゴミ袋が破れて......と、実際には木を切ること以上にそれを捨てることの方が手間だった、とか。また例えば、草を抜くのに、何本かの茨等の鋭い棘のあるものがあって、それを抜くのに棘で手が傷だらけになるとか、棘がゴミ袋を破るとか......。
 そんな、ただ眺めて想像しているのと現実の庭の片付けとのギャップがある(以前に庭の片付けという経験があってすらこうなのである)のだから、実際にその物事を実践せずに、あるいはわずかの実践で、そのことを理論的に云々するということは、云々できると思い込んでしまうということは大きな誤謬を含むものとなるであろうことは、想像に難くない。
 
 これは例えば、竹山晋一郎が『漢方医学復興の理論』出版の翌年に鍼灸師資格を取得した、というのもそういうこと、つまり、竹山晋一郎は、『漢方医学復興の理論』を執筆する過程で、漢方=東洋医学=鍼灸の実践の必要性を痛感したからこその、と思う。(これは当時の唯物弁証法の学びのスローガンであった理論と実践の統一ということでもあった、とは思うが......)

 また、今回これまでどうしても出来なかった庭の片付けが実際に出来たのも、そのことの意義を改めて考えてみることが可能となったのも、コロナ感染症による職場の約一ヶ月の閉鎖という「余暇(スコレー)」があったればこそ、と古代ギリシャでの哲学の誕生につながる「余暇(スコレー)」ということの意義の一端をなんとなくではあるが、実感できたと思える。

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