鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

ランニングの効用〜弁証法、あるいは<生命の鎖>の論理〜

2020-05-16 12:54:00 | リハビリ室閉鎖中の日記
 久しぶりにランニングを行なった。全身レベルの運動の大事性、実感する。

 昨日、久しぶりに約1時間のランニングを行なった。軽く息が切れ汗ばむというレベルの、であったが、ランニング後、今朝に至るまで足がポカポカと温かく、である。この二週間というもの、空手の準備運動として、ほぼ毎日、雪駄や下駄で約2時間歩いて、夜には足がつるという状態であったのに、その運動による足の温かさは、せいぜい運動中と運動後、数時間であるのに、何が違うのだろうか?雪駄で歩くでは何が足りないのだろうか?逆ならわかるのだが......。(自身では、この数年、夏の時期以外は、しっかりと運動してやらないと足の冷えを感じるようになって来ていて、年齢ゆえと半ば諦めてもいた。)

 これは、自身の運動の捉えかたが、部分のみに着目して、全体を見ないから、ではないのか?と思える。確かに足の冷えは足の問題には違いないのだが、足という部分は、身体全体の中の足であり、決して足のみが独立に存在するわけでもなければ、存在できるわけでもない。
 具体的に見てみれば、足というものが運動するには、血流による栄養と神経の働きが必要である、しかしながら、その血流は大元を辿ってみれば、心臓であり、肺であり、肝臓であり、するし、神経も、大元は脳の働きである。つまりは全身との繋がりで、足というものは存在できるし、運動できるものである。

 そのような見方で、ランニングと雪駄で歩くを比べてみるならば、ランニングの場合は心肺や肝臓がしっかりと働いての全身運動としての足の運動であるし、雪駄で歩くといった場合は、足はしっかりと運動させられているけれども全身運動としてみれば、心肺や肝臓等はそこそこにしか、ということが見えてくる。(なぜそうなるのか、は改めて説きたいが、端的には、サルまでの動物の運動は基本的に全身運動であり、人間に至って全体から相対的独立に部分のみの偏頗な運動ということが可能となってきたが、運動を支える内蔵の働きは、全身の運動に見合った働かせ方がされるのであり、いくら部分をしっかり運動させても全身の運動レベルに見合った働きしかしないという矛盾が存在する。)

 そのように、ランニングと雪駄で歩くを、全身運動と部分運動の二重性で見ることが出来れば、また同時に、運動器官の運動と内蔵の運動の二重性で見ることが出来れば、ラン二ングの方が足の運動としては少ないにも関わらず、しっかりと足が温かくなったということの理由は、ランニングが、内蔵をもしっかりと働かせる全身運動とともにの、部分=足の運動であったから、ということである、と思える。

 これは例えば、食でいう<生命の鎖>(ウイリアムズ)の論理と同じことである。つまり、つまり食は全体としての必須栄養素のバランスが取れていてこそ、人間の身体は正常に=健康に働けるのと同じくに、運動もまた、全身運動として全体としてバランスしてこそであり、部分のみをいくらしっかりと運動してみても、その運動を裏で支える肝心の内蔵がそれに見合った働きをしてくれないから、その効果は薄く、逆に、場合によっては、腱鞘炎等の運動による損傷へとも繋がっていきかねない、のだと、久々のランニングに思えた。


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