『陸王』を観て、常識の壁というものの超え難さ、痛感された。
自身には才能も無ければ実力も無いので、テレビドラマ『陸王』のごとくの、三流以下の人々が一心に頑張って、一流と言われる相手と闘って、勝つ(?のだと思うが、原作を読んでいないので……)といった作品は興味深く、観ることが多い。
それはさておき、『陸王』のお話の中で「ミッドフット着地」「ミッドフットランニング」というものが取り上げられ、それは「人類本来の走りかた」「怪我をしない走りかた」であり、その習得のためには「底の薄い靴」「裸足感覚の靴」=「ランニングたび陸王」が最適である、ということが述べられていた。
お話としてはそれで結構で特に依存は無いのであるが、自身の素直な感想として、「そんなに裸足感覚が良いのならば、いっそ裸足で走ればいいのでは?特に、練習の時には」と、また、「裸足に慣れていないのならば、当初は砂浜や芝生の上での裸足のランニングから始めて、次第に土の上、アスファルトの上、と慣らしていくならば……そして、その方が骨、神経までも鍛えられて、本当に怪我をしない身体、特に下体を創ることが可能なのでは……」とも思えた。
『陸王』のお話の中では、「人類本来の走りかた」や「裸足感覚」を良いものとするのに、「裸足で走る」ということは考えても見ないようである。
しかしながら、原始の時代の人類は、果たして靴を履いていたのだろうか?とか、お話の中で「ミッドフットランニング」が出来ているとされたアフリカの選手は靴を履いて育っての「ミッドフットランニング」なのだろうか?と素直に考えてみるならば……。
にもかかわらず、現代日本の常識としては走るのは靴を履いてであるから、誰もが裸足で走ればいいのでは?と裸足で走るの大いなる可能性を考えても見ないのだと、常識というものの超え難さ、それに囚われることの恐さを感じさせられたお話であった。
自身には才能も無ければ実力も無いので、テレビドラマ『陸王』のごとくの、三流以下の人々が一心に頑張って、一流と言われる相手と闘って、勝つ(?のだと思うが、原作を読んでいないので……)といった作品は興味深く、観ることが多い。
それはさておき、『陸王』のお話の中で「ミッドフット着地」「ミッドフットランニング」というものが取り上げられ、それは「人類本来の走りかた」「怪我をしない走りかた」であり、その習得のためには「底の薄い靴」「裸足感覚の靴」=「ランニングたび陸王」が最適である、ということが述べられていた。
お話としてはそれで結構で特に依存は無いのであるが、自身の素直な感想として、「そんなに裸足感覚が良いのならば、いっそ裸足で走ればいいのでは?特に、練習の時には」と、また、「裸足に慣れていないのならば、当初は砂浜や芝生の上での裸足のランニングから始めて、次第に土の上、アスファルトの上、と慣らしていくならば……そして、その方が骨、神経までも鍛えられて、本当に怪我をしない身体、特に下体を創ることが可能なのでは……」とも思えた。
『陸王』のお話の中では、「人類本来の走りかた」や「裸足感覚」を良いものとするのに、「裸足で走る」ということは考えても見ないようである。
しかしながら、原始の時代の人類は、果たして靴を履いていたのだろうか?とか、お話の中で「ミッドフットランニング」が出来ているとされたアフリカの選手は靴を履いて育っての「ミッドフットランニング」なのだろうか?と素直に考えてみるならば……。
にもかかわらず、現代日本の常識としては走るのは靴を履いてであるから、誰もが裸足で走ればいいのでは?と裸足で走るの大いなる可能性を考えても見ないのだと、常識というものの超え難さ、それに囚われることの恐さを感じさせられたお話であった。
「陸王」は、私も楽しんんで視ています。
これって、以前の「下町ロケット」と原作者が同じで、似たようなドラマ展開ですね、
でも…それを、とても楽しいモノに感じいいます♪
>自身の素直な感想として、「そんなに裸足感覚が良いのならば、いっそ裸足で走ればいいのでは?
↑~同感です。
>、「裸足に慣れていないのならば、当初は砂浜や芝生の上での裸足のランニングから始めて、次第に土の上、アスファルトの上、と慣らしていくならば……そして、その方が骨、神経までも鍛えられて、本当に怪我をしない身体、特に下体を創ることが可能なのでは……」とも思えた。
↑~段階を踏んで一つ一つですね。
>現代日本の常識としては走るのは靴を履いてであるから、誰もが裸足で走ればいいのでは?と裸足で走るの大いなる可能性を考えても見ないのだと、常識というものの超え難さ、それに囚われることの恐さを感じさせられたお話であった。
↑~
常識を鵜呑みにして信じて従うのは、観念論的な行為ですね!
私も、私の中の常識的な先入観に、日々振り回されている自分を感じての生活です。
そんな観念論的な自分の壁を打ち壊すには、ヤッパリ唯物論的な思惟の実践ですかね…
別言すれば、全てを原点からの歴史性あっての現在であると捉え返すことである、と自身では思います。
また、自由びとさんのいわれる唯物論的、ということも大事なことである、何故なら、観念論的では真理と誤謬の基準が持てないから、とも思います。
>観念論的では真理と誤謬の基準が持てないから、とも思います。
↑~
この言葉!
深く考えさせられます!
南郷先生が説かれる、「イギリス経験論と大陸合理論の問題」が、そこを説いていただいているのでは、とは思うのですが......。