
「南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二巻」(現代社)読み返している。弁証術とはなにか。弁証術とは弁証法にとって如何なる意義を持つのか、持たせるべきなのか。が、朧げながらではあるが、漸くにイメージ出来た。と思える。
また、そのことで、弁証法の過程的構造である。と思う、新旧二つの弁証法。ということも、イメージ出来て行けそうに思う。
昨日は、「南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二巻」の第二部を読んだ。これまで、弁証法をなんとしてでも自身の実力としたい。そのためには、弁証法の姿形を、先ずは知識としてでも分かりたい、イメージしたい。との思いから、この「第二部」は何度か読み返し続けているのだが、説いて(解いて)いただいていることが、言葉としては、分かっていけるものの、説かれ(解かれ)ていること。への思いは、なかなかに深まって行かなかった。
ところが、である。昨日、「第二部」を読了して、「あれ?」「もしかしたらこういうこと?」との思いになっていった。
その思いとは、端的には、「弁証法と弁証術との関係性とは、武技と武道体、人間体との関係性と同じなのでは?」ということである。
本ブログは、鍼灸、手技療法術に関わってのことが主であるので、その例でいえば、「指圧技と指圧体、人間体との関係性と同じ」なのでは?との思いになっていった。ということである。
詳細は、しっかりと実践を積み重ねて、改めて。と思う。
また、そのことで、弁証法の過程的構造である。と思う、新旧二つの弁証法。ということも、イメージ出来て行けそうに思う。
昨日は、「南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二巻」の第二部を読んだ。これまで、弁証法をなんとしてでも自身の実力としたい。そのためには、弁証法の姿形を、先ずは知識としてでも分かりたい、イメージしたい。との思いから、この「第二部」は何度か読み返し続けているのだが、説いて(解いて)いただいていることが、言葉としては、分かっていけるものの、説かれ(解かれ)ていること。への思いは、なかなかに深まって行かなかった。
ところが、である。昨日、「第二部」を読了して、「あれ?」「もしかしたらこういうこと?」との思いになっていった。
その思いとは、端的には、「弁証法と弁証術との関係性とは、武技と武道体、人間体との関係性と同じなのでは?」ということである。
本ブログは、鍼灸、手技療法術に関わってのことが主であるので、その例でいえば、「指圧技と指圧体、人間体との関係性と同じ」なのでは?との思いになっていった。ということである。
詳細は、しっかりと実践を積み重ねて、改めて。と思う。
【これは、今読み返すと非常に惜しいというか、ここまで分かっていながら、書いていながら、どうして、もう一歩理解を深めなかったのか!?と本当に残念に思う。
弁証術・旧弁証法=武動体・武動体力、(新)弁証法=武技と捉え返すことが出来たなら、あるいは、弁証術・旧弁証法を、(新)弁証法の実体として、その実体が(新)弁証法という形をとっていると、それゆえに、(新)弁証法の実力は、弁証術・(旧)弁証法の実力に規定される、と捉え返していれば、旧弁証法・弁証術の学びの大事性は、これはいくら強調してもし過ぎることの無い、それ無しには(新)弁証法も、ただの形式に過ぎないものへと堕してしまう、との気づきを持てた筈であり......と、何年間かの遠回りをしてしまった、と痛恨の思いである。
そういう意味では、南郷先生の著作にインスタント的に実力を上げてもらっての気づき、あるいは単なる知識に過ぎなかったのだと思える。
これは別言すれば、南郷先生の実力を当時の自身はあまりに低く、というか自身のレベルに引き下ろして理解していたのだ、とも思える。より具体的には、武道・武術は武道・武術、哲学・弁証法は哲学・弁証法と、別のものとして、である。
しかしながら、学問とは全てに一つの筋を通していくこと、いけることであり、その実力が学問力なのである、ということに思いをいたすならば、初段レベルまでの空手の学びに、弁証法の全てがある、との言葉の重みをもっとしっかりと受け取るべきであると......。】