鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

中学校の全教科の論理的な学びかた〜その学びは弁証法のために〜

2016-04-01 22:07:09 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 桜開花の弁証法性についてブログに書くことで、中学校の全教科の学びをいかに行うべきかのイメージが、ともかくも描くことができた。と思う。

 弁証法の学びのためには、弁証法の実態となるべき世界全体の把握が必要であり、その第一歩としての、中学校の全教科の、事実的ではなく論理的な学びの必要性を南郷先生は説いてくださっている。

 その学びが欠けているからの自身の弁証法がいつまでたっても役に立たない現実があるのだ。と、これは手技療法術を自身の実力としていくには、手技の実態となるべき人間体が貧弱であってはどうしようもない。のと同じことである。と漸くに気づくことができるようになってきて、中学の全教科の学びに取り組み出した。

 しかし、である。現実にその学びに取り組んでみると事はそう簡単ではなかった。どう学ぶことが事実的ではなくて論理的な学びとなるのかが、例えば、理科の教科書を開いてみると1:光・音・力 2:身のまわりの物質 3:電流の性質とはたらき等々とあるが、それをいかに学ぶことが事実的ではなくて論理的なのかが、さっぱりわからないままに、かといってここで引き下がるわけにも行かずに、「論理は事実の論理であるのだから!」と、まずは理科、社会の教科書に目を通すことで、何かが見えてくるのでは!?との思いで教科書を読んでみるものの、そこからは論理は少しも見えては来ず、「一体どう学んでいけば良いのか?」と途方にくれるのみとなっていた。

 そんな、進むに進めず引くに引けないという日々の中での昨日のブログ記事、「桜開花の法則性〜良質転化の二重構造について〜」であった。書いているときは、そんな意識はなかったのであるが、ブログにアップしてから何度か読み替えずと、「もしかしたら、桜開花の事実、法則性を量質転化として捉え返したように、中学校の教科書に書かれてあるすべての事実(や法則性)を、弁証法として捉え返していくことが、より構造的に言えば、弁証法を一般論として、教科書の事実と弁証法との上り下りをくり返していくことが、教科書の論理的な学びということなのでは!?」と思えた。
 これは別言すれば、教科書の事実を学ぶに弁証法をもってし、弁証法を学ぶに教科書の事実をもってする。という相互浸透的な学びの結果としての、教科書のあらゆる事実が弁証法へと収斂していくという学びが、教科書の事実的ではなく論理的な学びなのではないか。と思えた。

 以上のことは、鍼灸の学び方を知ろうとして本ブログを訪問していただいた方には、全くの見当違いの内容と受け取られるかもしれないが、現段階では、真の実践方法論の構築は、その対象の科学的な学問体系なしにはあり得ないのだ。そのための一過程として必要と思うことを説き続けているのだ。ということで納得していただくしかない。
 いつの日にか、自身でその実践方法論を提示できれば。とは思うが・・・・・・。

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