東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

桜開花の法則性〜量質転化の二重構造ついて〜

2016-03-31 22:20:23 | 運動・鍛錬・リハビリ
 先日、ラジオで桜の開花予想についてやっており、そこで、桜というものは平均気温が10度を超えた日の10度を超えた分の気温を積算して五百数十度になると開花する。また、平均気温10度以下の日は何日あっても関係ないし、平均気温10度を超えると、わずかに1度であっても、その温度は積算されていく、開花時期に影響するのだと解説されていた。

 それをラジオで聞いたときは、「そんなものなのか。」「暖かくなると咲くというわけでも無く、桜が咲くことにも、きちんと法則性があるのだなあ。」と、なんとなく聞き流していた。
 また、施術中の患者との会話で患者から、「川沿いの和倉はまだチラホラしか咲いていないのに、駅の近くの遊歩道の桜は、ほぼ満開に近い。同じ桜でも品種が違うのかなあ?」と問われて、上述のラジオでの桜開花の法則性の話をし、「だから、開花時期の違いは品種の違いではなく、その場所場所の温度の10度以上の積み重ねの違いだと思いますよ。」と答えた。が、ここでも桜の開花の法則性に関して、特に何の感情も湧かなかった。

 しかし本日、件の桜満開の遊歩道を歩いていて患者との会話を思い出すともなしに思い出して、「なるほど、遊歩道の桜はもう満開に近く咲き誇っているなあ。」と眺めていると、桜の開花の平均気温10度以上の日の積算による法則性について、そのことも量質転化なのだ!との気づきとともに、量質転化の二重構造の問題に思い至った。

 どういうことかといえば、桜の開花の量質転化は、平均気温という量の積み重ねが五百数十度になると質的な転化が起こる=桜が咲くということには違いないのだが、その量にも平均気温10度以上という量の質が求められる。別言すれば、量質転化の量もまた量質転化した量でなければならない。具体的には、平均気温10度以下の日は(量は)、いくら積み重ねても、開花という質へとは転化しない。ということに思い至った。

 これは、自身の運動や学習の問題で考えるならば、一回の運動や学習=量が、将来的に量質転化を起こしうるだけの、一定の質を持つところまで、量質転化を起こさせるのでなければ、その量は幾ら積み重ねても量質転化しない、自身のレベルアップへとは繋がっていかないということであり、そう捉え返すならば、せっかくの運動や学習であるならば、一回一回の運動や学習=量が将来の量質転化に繋がっていくような質を持った量となるように、そのような量質転化を起こすような量と質を、一回一回に持たねばならない。となる。

 要するに、植物や人間の、生命体の量質転化というものは、単なる量の積み重ねでは駄目であって、一定の量と質を持った量の積み重ねであってはじめて、将来的な量質転化が起こる。また逆に、一定基準以下の量と質の量の積み重ねでは、量質転化は起きない。

 これは例えば、手技の施術であれば、一回一回の施術が一定基準以上の量と質をもっていてはじめて、その量の積み重ねが量質転化を起こす=治るのであり、例えば、一回に10〜15分程度の施術ならば、最低、週に2〜3回の施術が必要とか、週に一回以下の施術では30〜60分くらいの時間をかけるのでなければ、なかなかに治っていかないという問題も、ここに関わる問題なのである。と思えた。


 明日から、新しい年度の始まりである。人生に悔いを残さぬよう、出来うる限りの努力をと思う。

 

 
 
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