鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

「書くことは考えることである」〜という金言を絶対精神の運動性から視る〜

2020-04-12 15:28:00 | いのちの歴史・社会の歴史・精神の歴史
 「書くことは考えること」について「『ヘーゲル哲学・論理学[学の体系講義・新世紀編]』(全集第三巻)余録(Ⅱ)」(『学城 第19号』所収 現代社刊)で説いていただいている。それは個としての、絶対精神の発展のプロセスの繰り返しの一つのありかたなのでは、と思える。

 「書くことは考えること、である。」ということを、これまで何度も南郷先生は説いておられる。自身ではそれをアタマの訓練法、「思う」から「考える」へ、やがては「思弁」へとレベルアップしていけるための修業のあり方を説いていただいている、と捉えて自分なりにではあるが、あれこれ取り組んできた。(例えば、四百字詰原稿用紙五百枚で書く、あるいは毎日30分書くとか......)
 しかしながらそのことによって、自身の実力が劇的に向上することは無かった、と思える。それは何故か?そもそも自身に能力がないのか、努力が足りないのか、それとも......と、また、あれこれ思い、考えて......であった。そんな十年以上もの年月を経て、それでも可能性があることを少しでもやり続けるしか無い、との思いでいた現在であるだけに、今回の「(全集第三巻)余録」で説いていただいた「書くことは考えること」のより具体性を持たせての解説は、心から有り難く......であった。

 「(全集第三巻)余録」では、「書くことは考えること」について、以下のごとく説いていただいている。
  「とにもかくにも、です。とにかく、です。まずは一般論レベルでよいので、書くべき全体を書いて書いて書きまくって、これの起承転結的繰り返しの実践あるのみ、です。転、結とあるように必ず結論的な解答を出すことです。これは仮に「ウソ」になったにしても、です。」

 この一文で説かれる「書くことは考えること」と自身のイメージする、かつ実践してきた「書くことは考えること」とはどう同じでどう違うのか、と二重写しに重ねてみると、大きく違う点、異なる点が見えてきた。それは何かといえば、端的には、「必ず結論的な解答を出すこと」ということが自身はしっかりと行えていなかった。書き始めるものの、続かずに途中で止めてしまうことが、多々あったということである。それゆえ、その違いの中身は何なのか、と自身の書くということの具体で考えてみた。
 
 自身の書くということは、一般論、そこから具体の事実の提示、その提示した事実から最初に提示した一般論へ、あるいは最初に提示した一般論から具体の事実へ、ということを繰り返すことで対象の構造に分け入っていって、その具体の事実の意味することろは何なのかを書く、そこから再び一般論へと上がるというものである。そのように書くべく取り組んでいる。これを起承転結と考えるならば、転、結まで書かない、書き切らないということは、一番肝心な構造論と最後の一般論(=本質論?)の部分を書かないということであり、最初の自身の思いレベルの一般論とその思い=一般論が出て来たはずの事実の提示で終わってしまっている。結局、一般論が最初のスカスカな一般論のままに終わってしまう、しまっている。ということだと思えた。
 これは、別言すれば、一般論レベルの自己の認識はいってみれば、単なる自身の思いでしかなく、その中身も定かでは無いといえる。それゆえにそこから一度、事実へと下りて客観的事実をしっかりと視て、そこからその事実の持つ意味、構造をを捉え返してみて、そのことではじめて当初の自身の思い、一般論はしっかりと中身を持ったものとなっていくことになるのだと思える。

 そのように「書くことは考えること」を捉え返してみると、これはもしかしたら、ヘーゲル哲学の要諦であるとして南郷先生が説かれる、森羅万象の実体である絶対精神の自己運動そのままでは無いのか?と思えたことである。つまり、個としての我々の認識も、絶対精神の自己運動と同じ筋道を辿らなばならない、辿ることで個としての認識も発展していけるのでは無いのか、と思えた。
 


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