東洋医学の理論~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

目に見えないものを見ること、そしてそれを書くこと〜その大事性困難性〜

2019-08-23 23:52:34 | 日記(2)
目に見えないものを見ること、そしてそれを文章として書くこと、の大事性困難性を日々痛感している。

こう書くと、本ブログを読んでいただいている大多数の皆さんは、「?」となるのではないだろうか、それとも、「そうだよなあ、たしかに大事だよなあ、でも難しいよなあ」と共感していただけるだろうか?

例えば鍼灸等の施術において、喉が痛いといった場合に、喉の痛みのある部位(=喉)に鍼を打って効果があった場合には、目に見えるそのままとも言えるので、目に見えないもの云々ということはそれほどには問題にならない。

しかしながら、喉の痛みに魚際や合谷に鍼を打って効果があった場合、これは復溜や陽輔でもいいのだが、目に見えるものだけ見ていたのではそのことの理解が難しい、ということになるし、そもそもそのような鍼の打ち方も出来ない、ということになる。

結果として、肺経のツボだからとか腎経のツボだから、と知識的に解釈するしか無くなるということにも......。

それだけに、目に見えないものを視ることが、単純なレベルであれば、内部の神経や筋肉、骨の構造、繋がりを、少しレベルを上げて、患者の24時間の生活過程のあり方を踏まえての病の過程的構造を、もっと上のレベルであれば、患者の認識を視ることが、その実力を培うことが、施術の実力を培うには必須のことである、と痛感する。

また、それだけでは無しに、我々は人間なのであるから、視ることの出来た目に見えないものを、文章として書き残すことが......とも思える。










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