鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

コロナウイルスパニックに思うこと〜日本固有の精神・文化について〜

2020-05-03 10:03:00 | リハビリ室閉鎖中の日記
  「若い衆や、死ぬが嫌なら今死にやれ。一度死ねばもう死なぬぞや。生きた中は憂きも辛きも楽しみよ。侍じゃとて死んでよかろか。」(白隠禅師)

 現在の日本は、コロナウイルスに関わっての不安が不安心へとまでなっていって、である。それだけに、日本固有の精神・文化である「悟り」や刀術の「極意」というものが、求められる、求められて然るべきである、と思う。

 昨日、一昨日とゴールデンウィーク連休前ということもあってか、クリニックのリハビリ室へ多くの患者さんが来られた。中には、「コロナが怖い!」として何ヶ月もリハビリ(正確には指圧整体の施術)を受けることなく、腰痛を悪化させてしまってまともに歩くことすらままならない状態になってしまっている患者さんもおられた。また、「コロナが怖くてずっと家に篭りっきり」と言われる方も一人や二人では無かった。「そこまで!?」とマスコミの威力に絶句させられる。(これは、スーパーのレジで並ぶのに近寄り過ぎたから激怒されたとか、電車内で咳をしたら周囲の視線が痛いくらいであるとかその実例の枚挙にいとまがない)

 しかしながら、それらの不安、不安心の(自身や患者さんの)中身を視ると、その中身は何も無いということに気づかされる。どういうことかと言えば、自身も含めてコロナの脅威は、身の回りの生の事実では無しに、マスコミ報道によるもの、どこそこの病院でコロナ感染症が集団発生したとか有名人の〇〇さんがコロナ感染症で亡くなられたとかである、でしか無い。言ってみれば、単なる知識や噂話の類でしか無いのであるから......。

 それだけに、我々は、事実としてのコロナウイルスの脅威(確かにそれは人間の身体にとっての未知のウイルスであるから、既知のウイルスと違ってそれへの対処には、それなりの体力、免疫力が求められるのは間違いないことではある。それだけに、不要不急の外出を避け、人との接触を避けということに異議は無いのであるが)と自身の不安、それ以上に社会が作り上げていっている不安との相互浸透で膨らんでいってしまっている不安心とをしっかりと区別して、感情では無しに理性的に対処することが求められる。それとともに、コロナウイルスによる不安、不安心という感情を宥め、整えることの必要性を痛感する。

 そのように考えると、コロナウイルスによって大きく膨らんでいる不安、不安心を宥め、整える発言が、宗教者や武道家から発信されて然るべきである、と思える。なぜかならば、とあらためて言うまでもなく、それらの人々は生死の問題を、それを超えたところの「悟り」「極意」を語る、語れるところが、他の分野に対する優位性である(として来たはずである)からである。
 例えば、冒頭にあげた白隠禅師の歌?は、江戸時代という現代よりもっと生死ということが身近で、切実であった時代の、生死に関わる教えであるし、「斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、一歩進めそこは極楽」「剣とはついには相討ちである」等の刀術の極意に関わる教えを見ても、である。それだけに、現代に生きる宗教者、武道家のみなさんにあっても、である。

 コロナウイルスに関わって、生死の問題、それに関わる不安心の問題をあらためて考えさせられることで、日本固有の精神・文化である「悟り」や刀術の「極意」の偉大性にあらためて気づかされた、との思いである。


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