五臓(と気血津液、陰陽虚実)の病証を絵に描こうとして描けないでいる。
五臓の病証を実際に使えるものとして行ける様に学びたい。との思いから、五臓の病証を絵に描くことに取り組んでいる。
が、なかなかに絵として描ききれず、ともかくも描くことの可能なものを!との思いから五臓の病証だけでなく、気血津液の病証、陰陽虚実の病証を描くことにも取り組んでいる。
当初は、自身のそれら病証が絵に描け無いのは、それらの像が知識、言葉でしか無く変な表現であるが、像としての像でないからと思っていた。
しかしながら、その絵に描くことの出来ないということの自身の理解=像の中身が薄いのではないかと思える。
どういうことかといえば、病証というものは、単なる対象の=患者の具体の像では無くて、その具体の像から一段あがった表象の像ではないのかと、別言すれば、病証の像というものは、あるものでは無くて、自努力で創るものなのではないのか。という思いへとなっていっている。
引き続き、五臓(と気血津液、陰陽虚実)の病証を絵に描くことに取り組み、考えて行きたい。
五臓の病証を実際に使えるものとして行ける様に学びたい。との思いから、五臓の病証を絵に描くことに取り組んでいる。
が、なかなかに絵として描ききれず、ともかくも描くことの可能なものを!との思いから五臓の病証だけでなく、気血津液の病証、陰陽虚実の病証を描くことにも取り組んでいる。
当初は、自身のそれら病証が絵に描け無いのは、それらの像が知識、言葉でしか無く変な表現であるが、像としての像でないからと思っていた。
しかしながら、その絵に描くことの出来ないということの自身の理解=像の中身が薄いのではないかと思える。
どういうことかといえば、病証というものは、単なる対象の=患者の具体の像では無くて、その具体の像から一段あがった表象の像ではないのかと、別言すれば、病証の像というものは、あるものでは無くて、自努力で創るものなのではないのか。という思いへとなっていっている。
引き続き、五臓(と気血津液、陰陽虚実)の病証を絵に描くことに取り組み、考えて行きたい。