東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

車に優しい運転に思うこと〜日々の生活の歪みが病へと繋がるということ、あるいは、物事の弁証法性を無視することの恐さについて〜

2018-04-01 22:00:58 | 生活の整え
 車に優しい運転を心がけて走らせた。世界は弁証法性を持っているのだということを分かっての日々の生活の積み重ね(量質転化・相互浸透)ということを忘れてはならないのだ、それを忘れては、等閑視してしまっては、必ずしっぺ返しを食らうことになるのだ、との思いになった。

 本日、車を傷めない、車に優しい、ということを心がけて運転した。これは、車の乗り換えを検討していたもののこれといった欲しい車が現在無いので、できれば現在の車を末永く乗りたいものとの思いから、といっても車というものは10年も乗ればあちこちと故障が当たり前という現実があることから、の車の運転の仕方を見直しての運転でもあった。

 一般的には、どのような操作が車に負担をかけるのだろうか、と考えながらのステアリングの切り方、アクセルの踏み方、ブレーキの踏み方等々がいかにあるべきかと考えながら車を走らせた。結論的には、アクセルを一定にして、ステアリングをあまり切ら無いで、カーブの時はしっかりと減速してというのが車への負担が少ないであろう、とのイメージが描けて、そこから再度、一つ一つの運転操作を見直していった。
 これは要するに、昔々に自動車教習所で教わった、「車の運転に「急」のつく操作(急発進、急ハンドル、急ブレーキ等)は禁物で、なるべくスムーズな運転を心がける」ということである。(この教えは、昔々の車は現在の車と違って、性能も耐久性も低かったからの、であったのだとも思えるが……)

 以上のことは、現在だけのことを、せいぜい半年一年のことを考えるならば、つまり形而上学的に(『弁証法はどういう科学か』的な意味での)考えるならば、「それがどうした!?たかがそのくらいのことで!」ということでしか無いのだが、5年、10年、15年というレベルでの変化=弁証法的に考えるならば、その積み重ねが結果としては、車の痛み方の違いや故障の原因へとなっていくと考えられるし、考えるべきである、と思える。

 そのように、自身の車の操作の仕方を捉え返して運転するなかで思い浮かんだのは、人間の体も同じことなのでは無いのか、ということである。(もしかしたら逆に、患者の日常の事実とそこに関わる認識を日々見聞きし、だから病気になっていくのだ、との思いが強くあったが故に、日々の車の運転のありかたが車を傷め、故障させるのだ、と繋げたのかもしれないのだが……)

 つまり、常識的には、人間の病というものは、車の故障というものは、仕方の無いものあるいは降って湧いたように起こってくる不運であると捉えられている、よく言われる「病気だから仕方ない」との捉え方である。

 しかしながら、その構造に立ち入ってみるならば、その構造の現在だけでは無しに、その過程に立ち入ってみるならば、身体に、車に負担のかかるような生活(主に、運動、食、睡眠)、車であれば急のつくような操作の繰り返しを行い続ける(加えて、定期的なオイル交換等のメンテナンスをし無い)ことの結果としての、異常から病、不調から故障である、ということが見えてくるはずである。
 
 ただ、生命体である人間は物である車と違って、自身で自身を整える実力がある、生命力というものがあるから、日々の少々の歪みはなんとか自身で整えられる、カバー出来るものである。
 とはいえ、そのことにも限界があるし、特に40代以降ともなれば通常は生命力も衰えていくのみなのが通常であるから、そして、生命力の衰えにつれて出てくる様々の病は、その段階で対処していくことは全くの不可能ではないにしても、通常はそう簡単なことではないのだから、少しでも早くに、若さのある内に、生命力を衰えさせ無いような生活のありかたをしっかりと学んで、実践していくべきであろう、ということが、「車に優しい運転」を実践していく中で思い浮かび、弁証法的に考えることの必要性、大事性が痛感された。

 
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