東洋医学の理論~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

テレビドラマ『陸王』に学ぶ〜作家の弁証術的アタマの働き〜

2017-12-18 14:41:34 | 弁証術
『陸王』を観た。弁証術ということのイメージがより具体性を持ったものとしてイメージ出来た、と思えるとともに自身の、は全く不足である、と痛感された。

昨夜の『陸王』、役所広司の演じる「こはぜ屋」の社長が、「陸王」を作るためにはFelixという大企業に買収されるしか無い、との周囲からの説得に抗って、あくまでも「こはぜ屋」の存続を主張していたのが、合理的に考えるならば「陸王」を作るには買収に応じるしか無い、と自身の感情を抑え込んで、また松岡修造の演じるFelixの社長の人間性にも触れ、Felixによる「こはぜ屋」買収に応じる決断をした。

ところが、最後になって寺尾聰演じる飯山の「もう少し悪足掻きをしたらどうだい」との説得で、また叩き潰されて......のであった。

自身の闘論のイメージからは、こはぜ屋の社長が周囲の説得で断腸の思いで買収に応じる=論が叩き潰される、と思えていたのだが、自身の論が叩き潰されて断腸の思いでの決断が再度叩き潰されて、のドラマの展開に、闘論というものは、自身の思うレベルではなく、自身の思うレベルでは良くて単層構造の闘論であり、本当の闘論というものは、叩き潰されて、それを踏まえての論ががまた叩き潰されて......の何度もの叩き潰されるの重層構造を持つものであろうと、思えた。

それだけに、闘論の場を持つ必要性を痛感されるのであるが、同時に『陸王』の作者である池井戸潤という作家は自身一人での、であるだけに、闘論の場を持たない自身にも努力次第で、弁証術を身につける可能性もあるのでは?とも思えた。

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