鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

『奇経八脈考』を読む(増補)〜古典を読む意義〜

2017-06-26 13:28:55 | 鍼灸理論・東洋医学
『現代語訳 奇経八脈考』(李時珍著 王羅珍・李鼎校注 勝田正泰訳 東洋学術出版社刊)に目を通した。古典を読む、学ぶことの意義がようやくにしてイメージ出来た、実感出来たと思える。

五要穴、五行穴、下合穴を覚えることが出来、リハビリテーション医学の鍼灸学校の課題も昨日の朝の内に終えることが出来たので、春休みに読みかけて「卒業研究」に追われて(それはそれで統計学や生理学の学びを深めることが出来たので良かったのではあるが……)中断していた『奇経八脈考」(李時珍)『傷寒論』(張仲景)の解説書(原文、日本語訳、解説のあるもの)を読むことにした。まずは『現代語訳 奇経八脈考』から。

読み出して思ったことは、「また、同じ筋道での考え方、説き方か……東洋医学って、何を読んでもこれだものなあ」ということである。より具体的には、「『素問』では……『霊枢』では……『難経』では……『脾胃論』では……」と古典(先行研究?)で説かれることを挙げて、の説くことであり、自身の対象の構造に分入っての、がほとんど皆無と思えた。(これは『奇経八脈考』に限って言えば、そもそもがそういう意図で、なのかもしれないとは思うが……)

これまでは、その様な記述には非常なる違和感を覚えていたのであるが、昨日は、「みんな同じ筋道であるならば、その筋道が分かる、その筋道で考えることが出来るということが、東洋医学が分かるということなのでは?」と思えた。

そう考えるならば、それらの考えかたの原点である『素問』『霊枢』『難経』等は、和訳ででもしっかりと読んで分かっておかねばならない、と思えた。

鍼灸学校入学当初に、『素問』『霊枢』を読んだ時には、そこに説かれることを例えば、「衛気が昼間は体表(陽)を巡り、夜は身体の奥深く(裏、陰?)を巡り、その速さが1日に何百回であるとか無いとか……」というのを、違和感とともに読んだのであるが、肝心なことは、迷信、作文と思えることや、あちらこちらで違うことを問題とするのでは無くて、アバウトに「結局、何が言いたいのか?」を分かっていくことであり、その筋道で考えることが出来る様になっていくということだ、古典に学ぶとはそういうことなのだ、と。(そういう意味で、以前に本ブログで紹介した左合昌美先生の『よくわかる黄帝内経の基本としくみ』『霊枢概要』の二冊は、古典=東洋医学の学びに大いに役立つものと思う)

これは例えば、実用上は不必要、無意味と思える算数、数学の学びの目的が、算数的、数学的なアタマの働きを創るということにある(とどこかで南郷先生が書いておられたと思うが……)のと論理的には同じことである、と思える。

そういう意味で、古典を学べば大いに役に立つ、おそらく鍼灸国試にもと思う。再度の『素問』『霊枢』『難経』等の学びを、と。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。