K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

報道と認識

2009-02-11 01:29:34 | 世界情勢
Kの親友の中国人たちは大抵ナショナリストだ。


何か自国に悪いことがあると、ほぼ必ず議論しにくる。
最近では、仏大統領がダライ・ラマに会ったことや
温家宝首相が英国で靴を投げつけられた事件など(笑)

その時には、「またか~専門じゃないんだけどな~」と思いつつも一応相手をしてみる。
Kは政治的には別に親中というわけではないので、
基本的には西欧の立場からものをいう。(でないと議論にならないというのも一因)

一つ気づいたのは、彼らはまず自国を批判したりしない。
ひねくれているKやシニカルな英国人は自国を嘲笑したり批判することは日常茶飯事だが、
彼らの議論はほぼ完全に自国擁護だ。
もちろん時にはそれが的を射ていることもあるが、
大概にして、かなりバイアスのかかった議論をする。
相当な程度に愛国心教育と、
そこから生み出されるナショナリズムの影響を受けているといってよい。

こう書くと、彼らは非常に偏屈で頑固な人たちなのかと思うかもしれない。
だが面白いことに、彼らはめちゃくちゃ素直で親切な人たちなのだ。


こうした私たちの認識との「ずれ」は他にもある。
例えば、敬虔なムスリムたち。
一般の日本の報道では、テロリズムや反米デモなどのイメージが強い彼らだが、
実際は非常に道義的な人たちで、とても親切な人たちだった。


何がいいたいかというと、
中国人のナショナリストにしろ、敬虔なムスリムにしろ、
非常に素直で親切な人たちほど、イデオロギーや信仰に感化されたりする。
決して彼らが、頑固で偏屈でクレイジーであるからではない。


報道だけをみて人を分析すると、こうした構造は分からない。
報道というのは「事件」に焦点を当てるからだ。
中国人ナショナリスト=反日・不親切、敬虔なムスリム=クレイジー、
というのは報道が生み出す所産といってよい。


イメージは人の認識を構築し、
人の認識は人の総意を構築する。


事件だけを追う報道とは時に非常に危険な代物だと思う。

コミュニケーション能力

2009-02-11 00:24:42 | 能力
「才能」ってやつの存在をできる限り認めたくはないKだが、
こればかりはもって生まれたものに大きく左右される気がする。


どうしても人見知りが治らない。


Kの人見知りというのはちょっと特殊で、
一回仲良くなれば、誰とでも相当な程度まで仲良くなれる。
だから、親友って呼べるほど中のよい人は結構いる。

問題は「ファーストコンタクト」なのだ。
何故かは知らないが、
全く知らない人に話しかけるということが非常にストレスなのだ。
(それは、何人かは知っての通り、Kの極度の合コン嫌いにも表れている。)

一方で、Kは黙っていると、かなり絡みづらい顔をするw
これは前の記事でも書いた通り。

だから結果として、双方向(Kからと相手から)のコミュニケーションが遮断され、
うまいファーストコンタクトが成立しにくい。

だったらそのままでもいいんじゃないかと開き直った時期もあったが、
その場合、やはり語学能力の向上に弊害が起きる。
これはKの哲学なのだが、
語学の向上はいかに机の上で本を読めて、映画のセリフが聴けて、
思うようなプレゼンテーションができるようになっても、
最後は人と十分なコミュニケーションをしなければ「生きた」ものにならない。

これは分析的にいうのは難しいのだが、
語学が得意な人だったら何となく理解してくれるものと思う。


対照的に、前の記事で書いた日本人のAさん。
覚えているでしょうか。
彼女はめちゃくちゃコミュニケーションがうまい。
正直いって、Kがどんなに努力してもあのようにはできないだろうなと思ってしまう。


じゃあどうするか。


コミュニケーション能力の向上をあきらめるか。
はたまたがむしゃらに努力するか。
もしくはKならではのコミュニケーション能力の「比較優位」を見つけ出すか。


最後のオプションが最もよいのは、
他人に対する優位は相対的に価値を意味するからだ。


しかし、容易ではない。


どうする?