K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

研究における思想の問題

2009-02-02 11:09:16 | 論理/思想/理論
最近、ようやく研究が楽しくなってきました。
何人か知っている人もいるかと思いますが、英国でのKの研究は政策研究なんですね。
政策研究って何かっていうと、一言でいってしまえば国家や国際組織の構造と、
その特質から生まれる政策を研究する学問です。
でもこの学問、今まで「人」のにおいのしない無機質な学問だな~って思ってて、
あまり好きになれませんでした。
でも今は社会科学において、人から完全に離れているものはないって実感しつつ、
この学問も案外重要だし楽しいんじゃないかって思うようになってきています。

そんなこんなのKの研究ですが、どうしても解決しがたい問題があります。
ここから少し難しくなりますよw
それは、結構前の記事でちょこっと書いた覚えがあるのだけども、
研究をするにあたっての根底に流れる思想の問題です。


「社会を科学する」


このことはどういうことだか分かりますか?
大体のイメージはもっているでしょうか?
また、このことが全社会科学者の間でコンセンサスがあると思いますか?


この問題は意外と見過ごされているし、一流の学者でなければ触れたくもない問題です。
なぜなら、社会科学の定義が変わってしまえば、
己の研究の方向性を180度転換しなきゃいけないからです。



まず、最も主流な思想はポジティヴィズム(実証主義と訳されることが多い)
といわれるものです。

歴史的には、ヨーロッパで人民が支配権を確立する過程において、
人間中心主義(ヒューマニズム)が広まりました。
それは、人間が自然を理解し、支配できるという世界観です。
その中で、様々な自然法則が「発見」され、認められるようになりました。
(例えば、万有引力の法則、物体の自由落下、地動説などなど)
言いかえれば、人間は神から独立して、
この世の中の仕組みを理解できるという認識に立ったわけです。

そして大まかにいえば、この自然科学の法則を社会科学に持ち込んだのが、
ポジティヴィスムってやつです。
だから、ポジティヴィズムってのは極めてモダニズムと結びついた思想といえます。
ポジティヴィズムは自然科学の発想を(無批判に)社会科学に持ち込んだために、
以下の二点を所与の前提として考えなければなりませんでした。
一つは、社会が人間の認識から「独立」して存在するということ。
(自然が人間から独立して存在するように)
二つは、われわれがその社会を「客観的」に見る力があるということです。
(人間が自然法則を発見できるように)

しかし、一つ注意しておくべきことは、
なぜ自然科学の法則が社会科学において成り立ちうるのか、
という問いには明確な答えがなされていないということです。
残念ながら、多くの学者やビジネスマンはこのことを認識していないか、
していてもそれを深く考えずにポジティヴィズムの思想を採っているというのが現状です。


と、ここまででお分かりの通り、Kはポジティヴィズムに対して批判的な立場をとっています。
それはおそらく、ポジティヴィズムに批判的な
ポストモダニズムとして括られる思想に影響を受けているからです。
これは非常に広い分野を包括した思想なのだけれども、
ここでは上記との関連のみを述べたいと思います。
(というか、その全貌はKも勉強不足で分からないのです。)

まず上記のポジティヴィズムの二つの前提に対して次のように批判します。
一つ目は、社会は人間の認識から独立して存在する根拠はない。
なぜなら、自然法則と違って、
社会はそれぞれの意思(主観性)を持つ人間たちが織りなす空間だからです。
一人の人間の意思すらも十分に解明されていないのに、
なぜ社会が独自の意思や構造をもつように扱えるのでしょうか。
二つ目は、全ての人間にはバイアスがあります。
それは人間が特殊な環境で育ち、特殊な考えをもっていることから明らかです。
だから、人間が社会を「客観的」に見れるはずがない、という立場をとります。


ポジティヴィスムとポストモダニズムの勢力範囲は社会科学の間でも学問領域によって異なります。
例えば、社会学や人類学では今では後者が主流となっています。
政治学では前者が主流でありつつも、後者の思想が訴えられつつあります。
経営学はほとんど前者といってよく、
少なくともKは後者のアプローチからの経営学ってのは知りません。


ただ上記のどちらを採るかによって、研究の方向性は180度変わります。


例えばKの専門であるテロの問題でいくと、
前者の場合、テロの脅威を客観的にどう査定し、いかに防ぐかということに焦点が当たります。
しかし後者の場合だと、テロの脅威は客観的に存在しえないものだと考えます。
そうではなくて、テロの脅威は私たちの認識と、私たちのコミュニケーションが
「作り出す」ものだと考えるのです。
言いかえれば、社会は「実在」するのではなくて、「構築」されるものだと考えるわけです。
したがって、分析上の問題としては、前者では社会を「説明」するのに対し、
後者では社会を「解釈」することに焦点が当たるわけです。


まぁKがなぜ後者の立場を支持しているかというと、
(とはいえ、一定の条件下でポジティヴィズムの可能性も認めているので
完全にというわけではありませんが、ここでは脱線するので触れないでおきます。)
ポジティヴィズムの思想では社会を十分にとらえきれないと考えているからです。
特に国際問題のようにいくつもの変数が複雑に絡み合う状況下においては、
一定の変数を恣意的にとりだし、それを自然科学のように測定するという手法では、
社会を見誤る可能性が非常に高い。
そしてそうした憶測において行動したことが、悲劇的な結果を生むことが多々ある。
だから、全体的にいってポジティヴィズムを支持できないわけです。

とはいえ、ポストモダニズムにも欠点があります。
(正確にはsocial constructivismというものなんですが、これも脱線するので触れません)
一番のそれは、何せソリューションが出しにくい。
「問題解決」に焦点が当たる場合、主に問題を解釈するのがこの思想であって、
So what?に答えるのが中々難しいのです。
(しかし、不可能ではない)

しかし、やはりポジティヴィズムのやり方では問題の表層しか見えないと信じているKは、
問題を十分に認識しないままにソリューションを提示しようとする
ポジティヴィズムの思想に危険性を感じているわけです。


が、

Kの専門の政策研究はほとんどポジティヴィズムで占められています。

ここにジレンマが発生します。

果たして、ポジティヴィズムに合わせて研究を行うべきか、
それともKの思想を貫くべきか。

ポジティヴィズムに合わせるってのは、やっぱり自分の主義思想を裏切ることになるので、
いまいち身が入らない。
かといって、こういう思想上の問題というのは、異なった思想の人からは非常に認められにくい。
したがって、Kの思想を貫いた場合、どれほどそれが評価されるのか極めて不透明なわけです。



そろそろ修士論文構想を出さねばならない時期。


・・・・はぁ


どうしよ?