わたしは六百山

サイゴンでの365日を書き直す 

加奈

2005年10月31日 | ことばあそび
こちら k-603.

加奈はこのままで行ったら何もない人生になってしまいそうなのが怖かった。
かといって、一人で全く知らない道に踏み込む勇気もなかった。
留学の経験を活かして家でフランチャイズの英会話教室を開いてみたが、小学生相手ににぎやかに過ごすのが自分の性に合っているとは思えなかった。
五週目の教室は休みだったので、その日の夕方、加奈は一人で南口の地下街に出かけてみた。
人混みの中にいると孤独が足元からおそって来る。
そのうちどうしても息苦しくなった加奈は、コーヒーショップに入るとガラス越しに通りに向かった席に着き、ケーキセットを頼んだ。
30分ほどガラス越しの人通りをながめていた時、左手から西洋の鎧をまとった人間がゆっくり移動してきた。移動しながら右手でパンフレットを配っている。上映中の映画の宣伝だろうか。鎧の中の人の顔は全く見えなかった。どこかから外が見えるのだろう。
加奈の前までその鎧が来た時、目が合った、ような、気がした。
鎧が加奈に向かって手招きをした。
行かなければいけない、と、加奈は立ち上がり、代金を払って外に出た。
出口には鎧が来て待っていた。
鎧が歩き出し、加奈はその後に続いた。
地下街のはずれには、人通りの少ないコンクリートをむき出した乾いた空間がある。
地上に抜ける工事用の出口がある。
そのためのドアがある。
鎧はそのドアを開けて、加奈を促した。
二人だけになった時、鎧が言った。「驚いたでしょう」
加奈が目を大きく開けて何も言えずにいると、鎧が一方的に言った。
「さあ、これを着て、このパンフレットを配ってよ。いいから、何でもいいから、これ?このパンフレットはね、今上演中の、宇宙からの使者っていうお芝居の案内。これかぶってね、全部身につけて、宇宙の使者になった気分で、配るの。酔っぱらいだって平気、好きになれそうな男がいたら、好きよって言いながら配るの、相手からは見えないのよね、よくできてるんだから、おおげさに配ってね、さあ、それで、誰でもいい、だれかこの鎧を着させたいと思う女の人がいたら、その人と交代するの、その時が来るまで、これを着て、配るの」そう言いながら、鎧は鎧を脱いだ。
「あっ・・・」加奈は小さく叫んだ。
「わたし、わたしじゃない? あなた、わたしよね」
「そう、でも、鎧、楽しかった。でも、脱いだら、ちから、ぬけちゃった」

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