こちらk-603.(写真はアイスクリーム・キャンディー屋:これもほとんど男の仕事)
あるクラスでのことです。
~てあります。(レポートは作ってあります/ました)
~ておきます。(レポートは作っておきます/ました)
の文型を勉強していたとき、私がひそかにマダムと呼んでいるPheさんが、
『どうしましょうか』はなんですか?と聞いてきました。
Q:この辞書はどうしましょうか。
A:あとで使いますから、そのままにしておいてください。
という、会話でのQの部分です。
『どう』とはなにか、というのが彼女の疑問・質問です。
これは、「この辞書は」
「片付けましょうか?」
「持っていきましょうか?」
「だれかに送りましょうか?」
「どうしますか?どうしましょうか?」という流れで、解ってくれたようです。
さて、つぎにPheさん、こんな質問をしてきました。
「どうして、『この辞書を』じゃないんですか?」
これは、『を』と『は』の違い、つまり『とりたて助詞』の問題です。
これを、ベトナム語を使わずベトナム人にわかってもらうには、どうしたらいいでしょう。
しかも、今は、とりたて助詞を学習する時間ではありません。とりたて助詞をとっさに教える自信も準備もありません。しかし、答えないわけにもいきません。(ベトナム語で「これは、もうすこしあとで勉強します。その時まで待ってください」と言えればいいのですが、言えないところが直接法の悲しさです)
そこで、わたしは、一番簡単で手っ取り早い説明を選びました。
つまり、話し手の意思の強調という説明です。
『は』によって、この辞書に対する私の気持ちが強く相手に伝わる、という簡便説明です。
いくつかの表現例を示して、彼女にはどうにか理解してもらいました。(強調による説明はあまりいい説明ではないというようなことを、後で、ある本で読みました。もしそうならPheさんごめんなさい)
そして、さいごの極めつけはPheさんの、次の質問です。
授業の終わり近くでこんな質問をしてきました。
教科書のあるページの中にこんな表現があったのです。(勉強する予定でもなんでもない箇所です)
ある晩夢を見ました。
これに対するPheさんの質問は「先生、ある晩って、何ですか」
私「晩ですか。晩は 夜のことです」
Pheさん「はい、ある晩って、何ですか」
私「・・・・・?」
Pheさん「あるって なんですか」
Pheさんは、ある晩の『ある』について聞いていたのです。
みなさんなら、どうやって解ってもらいますか。もちろんベトナム語は一切使いません。
この授業の初め、学生とのフリートークで、私はベトナム人が自然に対してどんな感覚を持っているのか知りたくて、ベトナム語で自然ということばを黒板に書き、
「ベトナムで、自然はどこにありますか」と聞いてみました。
彼らの答えは、ハノイ、フエ、ダラット、ニャチャン 等、静かな都市でした。
そこには山や川や緑があり、家やビルが建っていてもホーチミン市に比べればずっと自然なのです。
「でも、家があって、ビルもあるし、人が住んでいて、本当に自然ですか」と私が聞くと、そうか、そいいえばハノイやフエなどの町は自然じゃない、との反応が返って来ました。
「日本では、ほとんど人がいなくて、緑があって、山があって川があって、・・・」とここまで言って、はっと気がつきました。
「あっ、ベトナムで山の中へ入ったら・・・」
そうです、それは時代に逆行することをすら意味するのです。
山岳民族が、貧しい暮らしをしていて、危険な動物や昆虫も棲息しています。そんなところへわざわざ好んで入っていく物好きがどこにいるでしょうか。
自然を愛するなんて、簡単に口にできるもんじゃありません。
「自然の中は危ないよね」といったら、みんな、ソノトオリ とうなずいていました。
さて、ホーチミン市での生活が半年ぐらい経つと、日本人(とくに中高年の単身者)は共通の病にかかるそうです。
鬱病だそうです。
おやおや、そして、ごもっとも、と思います。
あるクラスでのことです。
~てあります。(レポートは作ってあります/ました)
~ておきます。(レポートは作っておきます/ました)
の文型を勉強していたとき、私がひそかにマダムと呼んでいるPheさんが、
『どうしましょうか』はなんですか?と聞いてきました。
Q:この辞書はどうしましょうか。
A:あとで使いますから、そのままにしておいてください。
という、会話でのQの部分です。
『どう』とはなにか、というのが彼女の疑問・質問です。
これは、「この辞書は」
「片付けましょうか?」
「持っていきましょうか?」
「だれかに送りましょうか?」
「どうしますか?どうしましょうか?」という流れで、解ってくれたようです。
さて、つぎにPheさん、こんな質問をしてきました。
「どうして、『この辞書を』じゃないんですか?」
これは、『を』と『は』の違い、つまり『とりたて助詞』の問題です。
これを、ベトナム語を使わずベトナム人にわかってもらうには、どうしたらいいでしょう。
しかも、今は、とりたて助詞を学習する時間ではありません。とりたて助詞をとっさに教える自信も準備もありません。しかし、答えないわけにもいきません。(ベトナム語で「これは、もうすこしあとで勉強します。その時まで待ってください」と言えればいいのですが、言えないところが直接法の悲しさです)
そこで、わたしは、一番簡単で手っ取り早い説明を選びました。
つまり、話し手の意思の強調という説明です。
『は』によって、この辞書に対する私の気持ちが強く相手に伝わる、という簡便説明です。
いくつかの表現例を示して、彼女にはどうにか理解してもらいました。(強調による説明はあまりいい説明ではないというようなことを、後で、ある本で読みました。もしそうならPheさんごめんなさい)
そして、さいごの極めつけはPheさんの、次の質問です。
授業の終わり近くでこんな質問をしてきました。
教科書のあるページの中にこんな表現があったのです。(勉強する予定でもなんでもない箇所です)
ある晩夢を見ました。
これに対するPheさんの質問は「先生、ある晩って、何ですか」
私「晩ですか。晩は 夜のことです」
Pheさん「はい、ある晩って、何ですか」
私「・・・・・?」
Pheさん「あるって なんですか」
Pheさんは、ある晩の『ある』について聞いていたのです。
みなさんなら、どうやって解ってもらいますか。もちろんベトナム語は一切使いません。
この授業の初め、学生とのフリートークで、私はベトナム人が自然に対してどんな感覚を持っているのか知りたくて、ベトナム語で自然ということばを黒板に書き、
「ベトナムで、自然はどこにありますか」と聞いてみました。
彼らの答えは、ハノイ、フエ、ダラット、ニャチャン 等、静かな都市でした。
そこには山や川や緑があり、家やビルが建っていてもホーチミン市に比べればずっと自然なのです。
「でも、家があって、ビルもあるし、人が住んでいて、本当に自然ですか」と私が聞くと、そうか、そいいえばハノイやフエなどの町は自然じゃない、との反応が返って来ました。
「日本では、ほとんど人がいなくて、緑があって、山があって川があって、・・・」とここまで言って、はっと気がつきました。
「あっ、ベトナムで山の中へ入ったら・・・」
そうです、それは時代に逆行することをすら意味するのです。
山岳民族が、貧しい暮らしをしていて、危険な動物や昆虫も棲息しています。そんなところへわざわざ好んで入っていく物好きがどこにいるでしょうか。
自然を愛するなんて、簡単に口にできるもんじゃありません。
「自然の中は危ないよね」といったら、みんな、ソノトオリ とうなずいていました。
さて、ホーチミン市での生活が半年ぐらい経つと、日本人(とくに中高年の単身者)は共通の病にかかるそうです。
鬱病だそうです。
おやおや、そして、ごもっとも、と思います。