確かに『十五の夜』を聴くと高校生の頃を思い出し共感できる。ただ、歌のサビの部分‘盗んだバイクで走り出す…’を聴くと…
私自身、普通レベルの学校で出来の良い優等生と言う訳でもなく、スポーツに秀でた好青年でもなかった。(かといって本職のアウトローを目指していた訳でもない^^)部活動にも所属せず、(俗に云う帰宅部^^)授業が終われば仲間と喫茶店にたむろして、禁止されていたアルバイトやバイクを乗り回し、公序良俗に反する行為もあったかもしれない、いや多分あったであろう。
高3の秋、2週連続でバイクを盗まれた。最初は後輩が盗んだヤツを目撃していたので捕まえた。14、5歳の中坊3人組だった。みっともなくエンエン泣いて謝るので許してやった。翌週もバイトから帰ろうとしたら有るべき所にない、盗まれていた。今度は目撃情報も無い^^私の怒りも沸点である。翌日、親父の車をコッソリ借出して仲間と地元の街を探索していたら、驚く事に私の車の横を私のバイクが猛スピードで抜いて行くではないか…。
追いかけると気が付いたようで、脇道に逃げようとして転んだ。急いで車を降りて蹴りとパンチの鉄拳制裁、仲間が止めなかったらヤバかったかも。バイクはキースイッチが壊されていて、転んだ時のキズがタンクに付いていた。鼻血を出して震えてる犯人は16歳のガキだった。(私も18のガキなんだが^^)その時は、警察に突き出す事より壊した物を弁償させなきゃ気がすまなかった(警察沙汰になると私もバイクや車の運転が学校にばれてしまう^^)犯人を自宅まで案内させた。
どう見ても裕福そうには見えない家には父親がいた。話を聞いた父親は、「申し訳ない。こんな野郎、煮るなり焼くなり好きなようにしてくれ」と土下座して謝っている。その姿を見た時「後は親父さんに任せます」と言って帰った思い出がある。30年前の話である。
『十五の夜』を聴いて、自由を求めたり、将来が見えなくて不安になる若者の気持ちは分かるが、人のバイクを盗む行為は許されない。考えてみて欲しい、もし自分の大事にしている物を理不尽に盗まれたり、壊されたりしたらどんな気持ちになるのか?盗む行為が自由の証なら、捕まった時に自分で責任が取れるのか。自由には責任が伴うものである。
サビの部分をリアルに体験したあの時の犯人達は、後にこの歌を聞いてどう感じたのだろう?尾崎豊が本当にバイクを盗んだのかどうかは知らない、もしかしたら盗んだのかもしれない。もしそのとき同じように捕まってたらどんな行動をしたのだろう、エンエン泣いて謝ったのだろうか?それとも親に謝ってもらったのだろうか?もし同じように捕まってたらこの歌はどんな歌になっていたのだろう?盗む行為がカッコよく賞賛される様な歌にはなっていなかったのでは…。
自由に生きる事を否定するつもりは毛頭ない、自由に生きれば良い。ただ人様に迷惑はかけない、責任の負える範囲でと言うルールは守らなければいけないと思う。こんな説教じみた考えを強く持つようになったのは年取ったせいかな?イヤイヤ大人になったんだろうな^^
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