太宰治著 『人間失格』
「日陰者、という言葉があります。人間の世において、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生まれた時からの日陰者のような気がしていて、世間から、あれは日陰者だと指名されているほどのひとと会うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自分でうっとりするくらい優しい心でした」と。
太宰治は若い時に自殺未遂の経験があり、ついに、玉川上水で入水自殺をしてしまう。
また、太宰の『富獄百景』にこういう科白がある。
「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、とい言い切れる自覚ではないか」と。
これは負の体験こそ人間の正当な自負心を与えうるものではないか、と言っている。
負をプラスに転化している。
現代は、悩みがあると言えば、下手をすると、ネガティブでネクラと非難される。。常に、ポジティブでないといけない、と特にビジネス書を読んでいると、感じる。
また、ドストエフスキーの『地下室の手記』にも、似たような科白がある。
「ひょっとして、人間が愛するのは、泰平無事だけではないかもしれないではないか。人間が苦痛をも同程度に愛することだって、ありうるわけだ。いや、人間がとことして、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、間違いやすい事実である」と。
ドストエフスキーのこの言葉は人間について真実をついている、と思う。
人間は、明るい、温かい日々だけを欲するものではない、同時に、暗い、寒い日々を体験すればこそ、、前者の本当の味わいがわかる。生まれた時から、日当たりのよい明るい道を歩いて、挫折を知らないと、生きるという味わいがわからくなるだろう。
このことは、世の文豪と言われる、ドストエフスキーやトルストイ、スタンダール、太宰治などの本を読むとわかる。彼らの深い苦しみや悩みを通じて、反対の光り輝く美や愛を生き生きと感じることができたのだ、と思う。
僕には、とても、苦しすぎて、これほど悩む力はない。少しでも、近づきたいが。
僕は、道歩く人や電車の中の人の顔にとても、興味を持っている。
容貌に悩む人もいる。生まれた時に、容貌は自然と与えられる。生まれつき、美人、美青年が確かにいる。しかし、先天的に与えられた美貌は年齢とともに衰える。
一方で、自分の意志で作り上げた顔もある。明治時代の豪傑の顔を見れば一目瞭然だ。こちらは、鍛えれば鍛えるほど、悩めば悩むほど、威厳あるいい顔になる。
悩むことを考えさせられた本だった。
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