今週の火曜日。
ひさしぶりに、チャーハンをつくりました
かなり前に触れたかとおもいますが、わたしの母の実家は元中華料理屋で、母も祖父から中華料理の手ほどきを受けていました。
祖父から娘へ。娘から孫(わたし)へ。
チャーハンも、母から手ほどきを受けていましたが、いわゆる祖父の味でもあります。
母方の祖父は、中学を卒業してすぐに就職しましたが、三年目でそこを退職し、東京の中華料理店で修行を積み、腕を認められると、名古屋でお店をもちはじめました。
性格はいまでいうひとり親方タイプでガンコだったようで、お店を遅くまで営業し、自宅に戻ってきたのが日付が変わろうとしていた時間帯が多かった、と聞いています。
ただ祖父には祖父なりに家族想いがあったらしく、お店がお休みのときはできるかぎり、祖母を休ませて自分から家事や育児をしていたようでした。母が高校時代に遠くに遊びにいって、終電に間に合わなくなったときがありましたが、迎えにくるように家に電話しても、祖母がかなりの剣幕で「もう戻ってくるな」と怒っても、祖父はなにも言わずに遠くまで車で母を迎えにいってあげていた、というエピソードを母本人から聞かされました。
お店は週に1回がお休み。唯一その1回きりのお休みのときも家庭の仕事もこなして、よくそれで身体がこわれなかったね~と、孫娘として歓心しましたが、母によれば「そんな超人的な人じゃない。過去に2回、お店を休んで入院していた」ようでした。最初の1回目が40代のときの過労で、2回目は60近かったとき、内臓のどっかがわるくなって入院していたようでした。
過労であった時は2,3日の入院ですんだようで、すぐに厨房に立つことができたらしいですが、2回目に入院したときは1か月ほどの入院で、退院後の自宅療養で合計1か月半お店を休ませていた、とのことでした。しかし常連客からは「無理すんなよ」とやさしい言葉をいただいて、厨房に復帰してからも食べに来てくれたようでした。それだけ祖父のお店は、心から愛してくださったお客様が多かったようでした。
そんな祖父でしたが、30のときから80までお店を持ち続け、10年くらい前に引退してお店もたたみましたが、それでも自分の店から巣立っていったお弟子さんたちの店にときどき顔を出して、ときには厨房に立って指導していたこともありました。そんな行動的な祖父を、わたしは心底好きでした。
わたしが覚えている限りの祖父は、(おそらく孫に対してだとおもいますが)とてもやさしく、よく自分で食事をつくってくれて食べさせてくれました。
またむかしの写真を持ち出しては、祖母や母との思い出について穏やかな口調で話してくれました。
話が得意そうではなかったのですが、話自体は好きだったようで、そういうところがたくさんの常連客から愛されていたのかな、と思います。
その祖父でしたが、つい先日亡くなりました。前のブログを書いた後の土曜日でした。
97歳、といった大往生でした。
引退してからはあちこち病気を抱え込んでいましたが、それでも90くらいまでは明るく元気にお散歩をしたり、自宅の庭いじりをして余生を過ごしていました。それが昨年のはじめに体調を崩し、数か月後には特別養護介護施設に入所。今年にはいってからは「もうあかん、もうそう長くないわ」と母から聞かされました。
わたしもある程度、覚悟をしていましたが。。。いなくなるとさみしいものです。
祖父が亡くなった時、母は75。わたしは51。娘は26で息子は22。
思えば四代とも20代で結婚し、20代で子をもうけたから、曽孫の顔まで見られたと思います。
あと3年がんばれば100歳になれたところでしたが。。。
どちらかといえば激動にみちた人生だったと思いましたが、自分をしっかり大事にして、家族からも愛され、おおくの方からも慕われていた、充実した97年だったと思います。
祖父にはこだわりがあったようで、生涯お弟子さんは1人しかもたなかったようです。
そのお弟子さんが葬儀にきてくださって、母にこう言っておられました。
「(お弟子さんが祖父のお店に修行をしていたときは)仕事には妥協せずに厳しかった人で、腕を認められるまでは、毎日のように叱られていました。泣かされたことも1度や2度ではなかったです。
しかしいつも仕事が終わってからは、お店もちで食事やお酒をおごってくださったり、ときには人生の相談にも乗ってくださった。結婚の報告にいったときは、まるで自分の息子のように泣いて喜んでくださいました。子どもがうまれたときも喜んで、『金に余裕がなくてたいへんだろう』と出産や育児にかかる費用も、わざわざ出してくださいました。まるで父親のような存在の方でした。
腕も認められるようになり、お店をやりたいと思います、と言ったら、怒られるどころか、『がんばれよ。こまったことがあったら、いつでも相談にこい』と背中を押してくださいました。それだけ義理人情が堅く、やさしい人でした」
最後に自分はまだ腕が未熟で、これからもおやっさん(祖父にはしたしみをこめてそう呼んでいたらしい)から指導を受けたかったのに、と惜しんでおられました。
わたしは祖父ほど長生きはできる自信はありませんし、祖父みたいに懐のおおきいひとにはなれませんが、祖父には負けないくらい家族を愛し、あかるく楽しい人生を今後も送れたら、と思っています。
※カテゴリは「家族」でもよかったですが、祖父は生涯料理に愛した方でしたので、敬意をこめる意味で、あえて「料理」カテゴリにさせていただきます。
ひさしぶりに、チャーハンをつくりました
かなり前に触れたかとおもいますが、わたしの母の実家は元中華料理屋で、母も祖父から中華料理の手ほどきを受けていました。
祖父から娘へ。娘から孫(わたし)へ。
チャーハンも、母から手ほどきを受けていましたが、いわゆる祖父の味でもあります。
母方の祖父は、中学を卒業してすぐに就職しましたが、三年目でそこを退職し、東京の中華料理店で修行を積み、腕を認められると、名古屋でお店をもちはじめました。
性格はいまでいうひとり親方タイプでガンコだったようで、お店を遅くまで営業し、自宅に戻ってきたのが日付が変わろうとしていた時間帯が多かった、と聞いています。
ただ祖父には祖父なりに家族想いがあったらしく、お店がお休みのときはできるかぎり、祖母を休ませて自分から家事や育児をしていたようでした。母が高校時代に遠くに遊びにいって、終電に間に合わなくなったときがありましたが、迎えにくるように家に電話しても、祖母がかなりの剣幕で「もう戻ってくるな」と怒っても、祖父はなにも言わずに遠くまで車で母を迎えにいってあげていた、というエピソードを母本人から聞かされました。
お店は週に1回がお休み。唯一その1回きりのお休みのときも家庭の仕事もこなして、よくそれで身体がこわれなかったね~と、孫娘として歓心しましたが、母によれば「そんな超人的な人じゃない。過去に2回、お店を休んで入院していた」ようでした。最初の1回目が40代のときの過労で、2回目は60近かったとき、内臓のどっかがわるくなって入院していたようでした。
過労であった時は2,3日の入院ですんだようで、すぐに厨房に立つことができたらしいですが、2回目に入院したときは1か月ほどの入院で、退院後の自宅療養で合計1か月半お店を休ませていた、とのことでした。しかし常連客からは「無理すんなよ」とやさしい言葉をいただいて、厨房に復帰してからも食べに来てくれたようでした。それだけ祖父のお店は、心から愛してくださったお客様が多かったようでした。
そんな祖父でしたが、30のときから80までお店を持ち続け、10年くらい前に引退してお店もたたみましたが、それでも自分の店から巣立っていったお弟子さんたちの店にときどき顔を出して、ときには厨房に立って指導していたこともありました。そんな行動的な祖父を、わたしは心底好きでした。
わたしが覚えている限りの祖父は、(おそらく孫に対してだとおもいますが)とてもやさしく、よく自分で食事をつくってくれて食べさせてくれました。
またむかしの写真を持ち出しては、祖母や母との思い出について穏やかな口調で話してくれました。
話が得意そうではなかったのですが、話自体は好きだったようで、そういうところがたくさんの常連客から愛されていたのかな、と思います。
その祖父でしたが、つい先日亡くなりました。前のブログを書いた後の土曜日でした。
97歳、といった大往生でした。
引退してからはあちこち病気を抱え込んでいましたが、それでも90くらいまでは明るく元気にお散歩をしたり、自宅の庭いじりをして余生を過ごしていました。それが昨年のはじめに体調を崩し、数か月後には特別養護介護施設に入所。今年にはいってからは「もうあかん、もうそう長くないわ」と母から聞かされました。
わたしもある程度、覚悟をしていましたが。。。いなくなるとさみしいものです。
祖父が亡くなった時、母は75。わたしは51。娘は26で息子は22。
思えば四代とも20代で結婚し、20代で子をもうけたから、曽孫の顔まで見られたと思います。
あと3年がんばれば100歳になれたところでしたが。。。
どちらかといえば激動にみちた人生だったと思いましたが、自分をしっかり大事にして、家族からも愛され、おおくの方からも慕われていた、充実した97年だったと思います。
祖父にはこだわりがあったようで、生涯お弟子さんは1人しかもたなかったようです。
そのお弟子さんが葬儀にきてくださって、母にこう言っておられました。
「(お弟子さんが祖父のお店に修行をしていたときは)仕事には妥協せずに厳しかった人で、腕を認められるまでは、毎日のように叱られていました。泣かされたことも1度や2度ではなかったです。
しかしいつも仕事が終わってからは、お店もちで食事やお酒をおごってくださったり、ときには人生の相談にも乗ってくださった。結婚の報告にいったときは、まるで自分の息子のように泣いて喜んでくださいました。子どもがうまれたときも喜んで、『金に余裕がなくてたいへんだろう』と出産や育児にかかる費用も、わざわざ出してくださいました。まるで父親のような存在の方でした。
腕も認められるようになり、お店をやりたいと思います、と言ったら、怒られるどころか、『がんばれよ。こまったことがあったら、いつでも相談にこい』と背中を押してくださいました。それだけ義理人情が堅く、やさしい人でした」
最後に自分はまだ腕が未熟で、これからもおやっさん(祖父にはしたしみをこめてそう呼んでいたらしい)から指導を受けたかったのに、と惜しんでおられました。
わたしは祖父ほど長生きはできる自信はありませんし、祖父みたいに懐のおおきいひとにはなれませんが、祖父には負けないくらい家族を愛し、あかるく楽しい人生を今後も送れたら、と思っています。
※カテゴリは「家族」でもよかったですが、祖父は生涯料理に愛した方でしたので、敬意をこめる意味で、あえて「料理」カテゴリにさせていただきます。
千恵さんのチャーハンは 中華職人のおじいさまのお味
おいしいでしょう、いえ おいしいに決まってますね
97歳長生きです
でも 亡くなると さみしいですね
いつもでも元気でって思いますよね
あたたかいコメント
ありがとうございます😊
まあ、あと3年で100でしたが、
じゅうぶん長生きできたと
思います。
人は亡くなってから
評価される、
とは聞いていましたが、
いろんな方から
祖父の心温まるお話を
聞かされました。
チャーハンひ中華の基本と
言われますが、
祖父が母に教えたチャーハンは
ほんものの美味しさ、
ではないか思います。