お店の前で飲みに来ているゴンドリエーレにあったせいか、ゴンドラに乗ってみたくなりました。
ご機嫌で魚市場の辺りまで歩いていきました。
ゴンドラは何世紀にも渡って、ヴェネツィアでの主な交通手段でした。
現在でも、カナル・グランデの岸と岸をつなぐ渡し船 ( トラゲット ) として公共交通機関の役割を果たしているものもあります。
現在のゴンドラの数は200~300隻、そのほとんどは観光用として使われています。
ゴンドラは長くて幅が狭く、船体が左右非対称になっています。
舳先に向かって立つゴンドリエーレが、片方だけのオールで引くというより押す力によって推進しています。
ちょうど一隻のゴンドラが岸に停まっていました。
「 ゴンドラどうだい。 100ユーロ、ここでは一律の料金だよ。 」
金額を知っていたので、交渉するでもなく。
『 できれば、狭い運河のほうに行って欲しい。 』
とリクエストしました。
なかなか凝ったゴンドラはまずカナルグランデへ漕ぎ出しました。
リアルト橋をくぐって、リクエスト通り狭い運河のほうに入っていってくれました。
日の陰ったこの時間が涼しくて気持ちがいいです。
来たときに感じたのですが、この運河は特有のいやなにおいがまったくしません。
このような狭い運河のほうが、ヴェネツィアらしさを感じます。
小さな橋が無数に架かっています。
こんな狭いところで、すれ違います。
一方通行などのルールは存在するのでしょうか?
交差点に差し掛かる度に、独特の掛け声でこちらの存在をゴンドリエーレが示しています。
ゴンドラ毎に、自分の気に入った装飾を施しているようです。
以前、” ディスカバリー・チャンネル ” でゴンドリエーレになるまでの話を見たことがあります。
全体の人数が、決められているようですからかなり狭き門のようです。
しばらく狭い運河を行くと、
「 ここがマルコポーロの家だよ。 」
とゴンドリエーレが教えてくれました。
マルコ・ポーロ
ご存知、『 東方見聞録 』
1271年にイラン・中央アジアを経て上都に入り、皇帝フビライに謁見しました。
その後、17年間元に仕えたそうです。
モンゴルの言葉は話せたそうですが、中国語は話せなかったそうです。
中国周辺の各地を巡り、揚州では3年間行政官を務めました。
1292年、泉州からイランのイルハン朝を経て帰国したといわれています。
日本のことを ジパング ”黄金の国 ” と伝えた人ですが、日本に来たことは無かったそうです。
マルコ・ポーロは現在、ヴェネツィアの空港の名前として残っています。
こんな感じで操舵しながら、気さくな彼は色々とガイドしてくれました。
この国には、イケメンのゴンドリエーレを集めたカレンダーが存在するそうです。
いろいろな話を聞きながら、ゴンドラはさらに進みます。
ご機嫌で魚市場の辺りまで歩いていきました。
ゴンドラは何世紀にも渡って、ヴェネツィアでの主な交通手段でした。
現在でも、カナル・グランデの岸と岸をつなぐ渡し船 ( トラゲット ) として公共交通機関の役割を果たしているものもあります。
現在のゴンドラの数は200~300隻、そのほとんどは観光用として使われています。
ゴンドラは長くて幅が狭く、船体が左右非対称になっています。
舳先に向かって立つゴンドリエーレが、片方だけのオールで引くというより押す力によって推進しています。
ちょうど一隻のゴンドラが岸に停まっていました。
「 ゴンドラどうだい。 100ユーロ、ここでは一律の料金だよ。 」
金額を知っていたので、交渉するでもなく。
『 できれば、狭い運河のほうに行って欲しい。 』
とリクエストしました。
なかなか凝ったゴンドラはまずカナルグランデへ漕ぎ出しました。
リアルト橋をくぐって、リクエスト通り狭い運河のほうに入っていってくれました。
日の陰ったこの時間が涼しくて気持ちがいいです。
来たときに感じたのですが、この運河は特有のいやなにおいがまったくしません。
このような狭い運河のほうが、ヴェネツィアらしさを感じます。
小さな橋が無数に架かっています。
こんな狭いところで、すれ違います。
一方通行などのルールは存在するのでしょうか?
交差点に差し掛かる度に、独特の掛け声でこちらの存在をゴンドリエーレが示しています。
ゴンドラ毎に、自分の気に入った装飾を施しているようです。
以前、” ディスカバリー・チャンネル ” でゴンドリエーレになるまでの話を見たことがあります。
全体の人数が、決められているようですからかなり狭き門のようです。
しばらく狭い運河を行くと、
「 ここがマルコポーロの家だよ。 」
とゴンドリエーレが教えてくれました。
マルコ・ポーロ
ご存知、『 東方見聞録 』
1271年にイラン・中央アジアを経て上都に入り、皇帝フビライに謁見しました。
その後、17年間元に仕えたそうです。
モンゴルの言葉は話せたそうですが、中国語は話せなかったそうです。
中国周辺の各地を巡り、揚州では3年間行政官を務めました。
1292年、泉州からイランのイルハン朝を経て帰国したといわれています。
日本のことを ジパング ”黄金の国 ” と伝えた人ですが、日本に来たことは無かったそうです。
マルコ・ポーロは現在、ヴェネツィアの空港の名前として残っています。
こんな感じで操舵しながら、気さくな彼は色々とガイドしてくれました。
この国には、イケメンのゴンドリエーレを集めたカレンダーが存在するそうです。
いろいろな話を聞きながら、ゴンドラはさらに進みます。
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