自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

このブログについて

2022年01月01日 16時28分13秒 | 思う事
 はじめまして。斉藤単己と申します。
 「単己」とは法華経の従地涌出品第十五の以下の言葉を元にしています。

 各六万恒河沙等の眷属を将いたり。
 況んや五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。
 (中略)
 況んや復単己にして遠離の行を楽えるをや。

 私は日蓮系の某巨大宗教団体で若い頃い活動をしていました。しかし四十代になってから、そこで教えられてきた事に疑問を持ち、自分なりに様々な事を調べ、学び、思考を続けてきたのです。
 結論から言えば、そこで学んだ事、教えられてきた事は、大きな「デタラメ」であり、組織のために「我田引用」した内容である事を理解しました。
 しかし残念な事ですが、そこの結論に達するまで十年以上の時間を要してしまったのです。

 この事は何もその某巨大教団に限った事ではありません。
 恐らく日蓮を語る教団の教えの多くには、同じ問題を持ち合わせています。

 仏教の開祖である釈尊は、弟子で「多聞第一」と言われたアーナンダに以下の言葉を語ったといます。

「アーナンダよ。このようにして、修行僧は自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
 アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自己を灯明とし。自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼らは私の修行僧として最高の境地にあるであろう、-誰でも学ぼうと望む人々はー。」(二十六)(大パリニッバーナ経』二)

 人は本来、心の自由を保障されるべきなのです。そして仏教では「自燈明・法燈明」という言葉で、その大事さについて語られています。

 しかし日蓮教団に属する人達の多くは、この現実に気付く事はありません。多くは「自分の意志」と錯覚させられ、それぞれの宗教団体に従えられているのが現実であると思うのです。
 またこの事は、何も日蓮教団に限った事ではなく、世の中にある多くの宗教団体にも内在する問題であり、その根本を辿れば人間のDNA(遺伝子)レベルにそういった弱みを組み込まれているのではないかとも思えるのです。

 このブログでは、私自身がその結論に至った事について、自分自身の思考の軌跡をまとめてみたいと思っています。
 お時間のある方は、お付き合いいただければ幸いです。

 私のメールアドレスは以下に記します。
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 このブログへのご意見などがあれば、メールを下さい。
 極力回答するように努力します。


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成仏に関する一考察だよ

2021年01月18日 13時34分43秒 | 思う事
 今日も冷え込む一日ですね。テレワークはコタツでやってますが、背中なんか冷えて寒いんですよね。でも富士山には雪が少ないとも聞いてます。やはり何かが狂っている様にも思えてしまうんですが、如何でしょうか。

 さて今日は、成仏という事について少し取り上げて見たいと思います。創価学会にしても日蓮正宗関係者にしても、未だに成仏という事には独特の拘りがある様に、私は感じています。創価学会では成仏というよりも「境涯革命」という言葉になっているんですかね。その事について書いてみます。


 仏教では仏という理想の姿を目指した宗教です。ただしこの仏という姿には、私は3種類あるのかなと考えています。

 一つは初期仏教(原始仏教)にある、インド応誕のゴーダマ・シッタールダー(釈尊)の姿です。三惑を断じて開悟し、悟りを得たという姿です。これは私見なのですが、この釈迦の姿とは灰身滅智して三惑已断という姿なので、阿羅漢果の先にある姿に見えます。ある意味でとても人間的な姿にも思えるのです。
 二つ目は大乗仏教に説かれる仏達です。三千大千世界(全宇宙)に遍満する仏世界に存在すると云われ、何やら人間離れしたような存在で、どちらかというと宇宙のあちらこちらに損座する「スーパーサイヤ人」という感じで、完璧な存在としての「仏様」です。いま多くの日本人が認識している救済者としての仏とは、この大乗仏教の仏様です。
 三つ目は法華経如来寿量品で説かれる久遠実成の釈尊の仏様です。こちらは全ての存在の根源的な存在としての仏であり、先の二つの仏を包含するものと思えます。

 この事から、成仏(仏に成る)と言っても、どの仏になるのか。それぞれの話がこの言葉にはあるので、それぞれがテンデンバラバラな話になったりしています。そしてこれが仏教をして目的とする成仏という事の具体性に欠けると言わしめていると思うのです。

 初期仏教(原始仏教)の成仏は灰身滅智なので、ひたすら煩悩や執着から離れる事を目指し、人々は出家して苦悩の本質を学び修行に励みます。東南アジア方面の国々に見える南伝仏教の姿ですね。
 大乗仏教の仏とは、完璧な姿の仏の説く教えを学び、人々は菩薩の行動を取る中で、それそれが完璧な姿の仏を目指し、修行に励みますが、歴行修行(輪廻転生を繰り返す中の修行)を伴う様に見えたりします。
 法華経如来寿量品の久遠実成の釈尊は、先の二つとは異なり、人の心の奥底(根源)は仏であり、その仏とは大乗仏教にある完璧な存在だと言います。この事から「本覚思想」という考え方も出て来て、修行をしなくてもありのまま私達は仏なんだと言う考え方や、創価学会では人間とは仏を内在する尊極な存在という事から、人間主義を展開しています。

 まあ本来、仏教徒の目指す姿は仏なのですが、人間とは「聖(ひじり)」を求め、そこに救済者を見てしまうので、いつの間にか仏教の仏も目指すべき姿ではなく救済者となり、人々は仏様におすがりして救ってもらうという考え方になっています。

 創価学会や日蓮正宗でも「御本尊様おすがり信仰」となっていて、そこからおすがりする日蓮の文字曼荼羅に対しても「本物」だとか「偽物」だという様な議論も出てきたのではないでしょうか。

 因みに日本社会に未だ広く根付いている「死んだ人=仏様」という、本来の仏教には無い考え方を根付かせたのは、やはり日本仏教界が根付かせた葬式仏教だと揶揄されてますが、そこに追う責任は大きいなと考えています。先で説明した仏教内にある「仏」の存在の多様性と相まって、この考え方も入り込んで、余計に解りづらい事になっていますよね。

 私は「成仏」と言うのは「個々人の自覚」による事かなと考えています。

 私も創価学会で教わったのは、日蓮の文字曼荼羅を「御本尊様」と呼び、そこに対するおすがり信仰でした。自分の抱える悩みや苦しみを解決する為に、長時間、お題目を唱えたり、「信力・行力で仏力・法力」なんて云う学会指導を真に受けて、学会活動に身を粉にして取り組んできました。まあ幾つかの願いは叶いもしましたが、この年齢になって思った事は、人生の艱難辛苦や悩み事には、それそれにしっかりとした意味があり、そこの経験で得られる事の方が、叶った願い事よりも私の人生の宝になっています。

 そういう事から考えると、しっかりと自分の存在の意味、そしてそれに裏付けされた自信(自分を信じる心)を持つ事の方が、遥かに意味があると感じています。

 仏教のジャータカ伝説に「キサーゴータミー」という、子供を亡くした母親の話があります。ある時、釈迦の元に子供を亡くして悲しみに暮れる母親が訪れました。母親は釈迦に「子供を生き返らせて欲しい!」と念願します。すると釈迦は「分りました。それでは今までに死者を出したことの無い家から芥子の実をもらってきてください。そうすれば願いを叶えてあげましょう」と約束します。母親は釈迦のその言葉に歓喜して、町中を一軒一軒歩いて回ります。するとどの家でも身内の死という悲劇があり、その母親もその話を聞く中で、死というのは何処にでもある。自分だけが悲しみ苦しんでいるわけではないと理解したのです。そして釈迦の元を再度訪れ、仏教に帰依して修行に励んだというのです。

 この逸話には、何ら超常現象的な奇跡もなければ、子を亡くした母親が我が子の死を受け入れるだけではなく、それをきっかけにより自身の心と対峙して理解しようとした姿に変容した事が書かれていました。私達が仏教を学び、成仏しようとする目的の一端が、よく現されている物語だと私は思うのです。

 何も今の自分の境涯が変わるとか、変革するとか、ましてや金色世界を垣間見たなんてのが成仏だとは、私は思わないのです。
 むしろそんな幻想を抱かせて、一部の宗教貴族の為に自分の人生を捧げてしまう事は、大きな問題だと思います。

 この「成仏」という言葉は、良くよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。


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ある未来像を考えたりする

2021年01月12日 18時10分19秒 | 思う事
 今日の仕事も間もなく終わります。まったくもってこの世界というのは、様々なものがある様です。最近の世界の状況、また新型コロナ禍に右往左往する日本社会を思うにつけ、一つの「妄想」が私の頭の中を駆け巡ったりします。今回はその事について少し書いてみます。

 以前に故・五島勉氏が「ヒトラーの予言」という本を出したのは、以前にもこのブログで紹介しました。このヒトラーという人物は、人類史に残る残虐行為を行いましたが、その一方で摩訶不思議な人物であり、しかもかなりのオカルトマニア(マニアと呼んで良いかはありますが)であった様です。



 ヒトラーとはナチスドイツを率いて第二次世界大戦を枢軸国として戦い、多くのユダヤ人を虐殺した事は有名ですが、一方ではトゥーレ協会やヴリル協会とつながり、古代文明等の調査を積極的に行った事は、あまり知られていません。まあ映画「インディー・ジョーンズ」に出てくるナチスの姿は、実際に近しいものがあったという事ですね。

 五島勉氏によれば、かの三島由紀夫も「彼のほんとの恐ろしさは別のところにある」と言わしめたものがあったようです。

 その一つに「ヒトラーの予言」というのがあるんですね。代表的な言葉としては以下のものがあるんですね。

「デモクラシーの国も社会主義の国も、われわれナチスの兵器を競って使い、殺し合い、社会は私の望むとおり、強く支配する者と支配される多数者に分かれていよう。それは天変地異の期間でもある。人類は大自然から手ひどく復讐される。気候も2つに分かれ、激しい熱と激しい冷気、火と氷、大洪水と大旱魃(かんばつ)が代わる代わる地球を襲うだろう。」

「だからその中から『超人(ユーベルメンシュ)』が現われる。もはや普通の人間ではそういう危機を制御できない。それに対応するため人類は超人たちを生み、超人が世界や気候を、人間や戦争を治めることになる。
 つまり天変地異の下に生きる多数者。それを支配する少数者。その陰で実質的に世界を操る超人グループ。これが、私の予知する21世紀の世界である。」

 つまり二十世紀にはナチスの開発した兵器を使い、人類は殺し合いを続け、その中から超人が現れ、その危機を治めるというのです。そして人類はその少数の超人の下で、多数の人々が彼らに支配される世界になると言うのです。

 なんともはや、そら恐ろしい言葉です。

 さて少し観点を変えて、以前に「ジョージア・ガイド・ストーン」についてこのブログで紹介しましたが、覚えていますか?


 このガイドストーンは誰が何の目的で造ったのかは不明なモノですが、一節にはフリーメイソンが何かしらの意志で建てたのではないかと言われています。そしてそこには「大自然と永遠に共存し、人類は5億人以下を維持する」と書かれていますが、これは誰かしらの意志の言葉なのかもしれません。

 現在の人類の人口は70億人を超えています。これを5億人にするとした場合には65億人以上の人口削減となりますが、その事を考えている人達がこの世界には居て、それが今の世界を陰から動かしているという事はないでしょうか。

 一節には、今回の新型コロナウィルス禍は、この人類削減の為の選別の一環だという話もありますが、何かしら不気味な感じがします。

 ここには「5億人を維持する」とありますが、維持するためには適切な管理というのが重要になります。では人類を適切に管理する方法というのは、どの様な事で可能になるのでしょう。そのヒントが以下の動画にあると感じましたので紹介します。

暗躍する不都合な真実

 客観的に考えるのであれば、今の七十億人の人類が、今の考え方のままで、この先も地球上に生き続け、増加して行った場合、地球環境はどの様になってしまうでしょうか。化石燃料を利用して「持続的な開発」を続け、その地球環境を自分達種族の仕組みである「資本」の為に継続的に負担をかけていく。その結果、地球環境は悪化し荒廃してしまう事は、火を見るよりも明らかです。

 そうなった場合、果たして地球上で生存している動植物はどの様になるのか。実際に1964年から2012年までの間で17種の生物が絶滅し、毎日100種以上の生物が常に絶滅の危機に瀕しているのです。

 そんな中で人類(ホモサピエンス)という種族を、今後も存続させ、地球環境と折り合いをつけて共存する場合には、どうしても固体としての管理というのが必須になってくるのではないでしょうか。

 先の動画でもありましたが、現在の科学。特に軍事関係の分野に於いて、恐らく私達が想像もしていないテクノロジーが実現されているのかもしれません。またそのテクノロジーとは、表面的には軍事用となっていますが、もし人類社会の幕間にいる一握りの人達『超人(ユーベルメンシュ)』が実際に居て、ジョージア・ガイドストーンにある事を真剣に考えて、この先も人類の種族としての存続を考えていたとしたら。。。

 これからどの様な世界が待ち受けているんでしょうかね。。。

 ふとした妄想ですが、考えてしまいましたよ。
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これからの世の中への姿勢

2021年01月12日 11時48分14秒 | 思う事
 今日は午前中に会議があって、何故か私か進行役になってしまいました。私は本来、補助役が業務であるはずが、いつの間にやら旗振りの中心になり、しかも他部署の尻拭いまでやってます。

 本来の業務契約とは違うのですが、やらないとシステムリリースの時期が大幅に遅延するのは確実で、その目線に立ってしまうと、引き受けざるを得ない状況になるから、結果としてやってしまいました。

 こんな事だからイカンと、よく仲間内でも言われてますが、それもあって記録的な長期業務ともなっているんですよね。

 極めて日本的てすわ。

 さて、今日は少し今の世情について思う事があり、書かせてもらいます。

 アメリカで起きている事、これは何気に大きな変化の兆候を表していると思います。アメリカといえば、二十世紀の民主主義というイデオロギーの旗頭的な国家ですが、そこで暴徒が連邦議会に押し入り、銃撃まで起きて死者まで出る事態となりました。これだけ見ても大きな事件ですよね。しかしそれだけでは無く、それを扇動しているのが大統領選で敗北している現職大統領だと言うのですから、これも今までに無かった事件です。

 これだけを書くと、日本国内にいる特定の人達からパッシングされそうです。あれはアンティファにトランプ大統領が嵌められたんだとか、民主党陣営の陰謀だとか言われて。

 でも表向きの政治動向なんて、所謂「舞台の上の演劇」の様なものなんですから、その舞台でそんな役回りを演じざるを得ないトランプ大統領という事は、理解しなければならないでしょう。

 一つ確実な事は、そんな舞台を演出して見せたという事は、世界の潮目の変わり時に来ていると言う事で、それが民主主義の大国であるアメリカで起きた、という事に重要なメッセージを私は感じています。

 要は人類社会の中で、民主主義というイデオロギーも変化の段階に来た。そういう事ではありませんか?

 あと中国でも噂では習近平氏が雲隠れし、首都の北京では高速道路が封鎖されているといいますが、これも重要な意味があると思います。まあこれらの動きを見て、ネットの中では右往左往していたり、やたら緊張感を煽るような発言が目立ちますが、それはそれて問題がありますよね。

 確か昨年の11月下旬にも「もう世界が終わる!」という様な、危機感を顕にした発言者がいましたが、一ヶ月半経過した今、その発言をした人の姿は見えなくなりました。

 これらを見ていて、私は2つの事を思いました。
 一つは、やはり情報リテラシーを、もっと自分が身につける努力をしなければいけないと言う事です。やもすると、皆が知らない情報を入手して、それを持って不安を扇動する事は、ある意味で愚の骨頂ですし、またそんな事を得意げに垂れ流す情報発信者を鵜呑みにしてはいけないと言う事です。情報リテラシーとは、誰も知らないし語りもしない情報を手に入れる能力ではなく、情報を理解し、自分の頭で取捨選択して、自分の立ち位置や行動を決められる能力だと思います。

 恐らくこれからの時代には、この能力が、とても大事な能力になると思いますよ。

 あともう一つ。それは今更ながらですが、日本のマスコミの劣化が著しいという事を思いました。世界がこれだけ変動期に来ているのに、いまだ新型コロナ禍の事のみ垂れ流し、しかもその核となるべき事柄には触れもせず、ひたすら朝晩同じ事だけ垂れ流しています。そして他は、バラエティー番組のカラ騒ぎだけ。何ら有用な情報なんてありません。これでは愚民政策の片方担ぎも良いところでしょう。アメリカや中国、世界の動きを報道している番組なんて皆無ではありませんか。

 これから来る大きな変化の時代。人々に取って情報は重要な事になりますが、こんな状況のまま、間抜けな政府や政治家に付き合っていたら、日本人はヤバいのではありませんか?

 よくよく思索・吟味が必要になりますよね。

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いまこそ法華経の思想が必要な時

2021年01月10日 11時20分27秒 | 思う事
 また緊急事態宣言が出ました。前回の安倍総理の頃は、世の中も緊張感が高く、街中から人の動きは激減しました。しかし今回はというと、街中の人の動きは若干減少しても、社会の中に以前ほど緊張感は無い様に思います。

 新型コロナウィルスの感染者について、前回の緊急事態宣言の時には、身近にはあまり耳にしたことがなかったのですが、今回は、仕事場の知人、娘のアルバイト先の社員、また嫁の勤務先の同僚など、前回の緊急事態宣言の時よりも、周囲には発生している様に私自身は思います。

 これだけ感染事例が目立ってきていますが、ネットの世界では「新型コロナウィルスはインフルエンザウィルスよりも弱毒性だ」「大した事ではない」という話を耳にします。確かに私の周囲を見てみると死者は出ていません。しかし臭覚障害や味覚障害などの後遺症は幾つか耳にしていますし、やはりあまり舐めた対応は控えるべきであり、「正しく怖がる」という姿勢がとても重要な事ではないかと思います。

 街中を散歩して思うのが、やたらマスクをしている人を多く見ます。例えば森の中や、人込みでも無い閑静な街中でもマスクをして歩くのは、さすがにやりすぎでは無いかと思うのですが、いかがでしょうか。インフルエンザや風邪の感染対策に準じた意識で、無用に人込みには行かない、同じ場所での会食や会合は極力抑止するという事でも十分だと思います。あともし感染した場合の対応については、やはり政治の世界ではしっかり検討して欲しいものですが、今の日本の政治の向かっている方向は、実に変な方向だと思うのです。



 世界各国の、この新型コロナウィルスの対応を見ていると、社会自体が「サイトカイン・ストーム」を起こしていて、本来は正常に機能できる仕組みをも「感染症の恐怖」から、人間が自ら破壊しているやにも見えたりします。もしかしたらこの新型コロナウィルスというのは、個人に対する感染症による問題もそうですが、社会の仕組みに対して打撃を与えるウィルスなのかもしれません。

 こういう時に、人間にとって必要な事は、やはり法華経の思想なのではないかなと、最近の私は個人的に思ったりしています。これは創価学会や日蓮正宗といった宗教団体が主張している「広宣流布」とは別物なんですけどね。

 前置きは長くなりましたが、その法華経の思想という事について、私なりの解釈をちょっと書いてみたいと思います。

◆法華経の思想
 天台大師は法華経の思想について「法華玄義」の中では以下の言葉で示しています。

 「法華折伏・破権門理(法華は折伏にして権門の理を破す)」

 こういった言葉は日蓮も御書の随所で取り上げ、その事から日蓮の述べた法門とは「折伏」が中心なんだと日蓮を信じる人達は語っています。創価学会や法華講などでは、この「折伏」を相手の意見を完全否定して、罵詈雑言の議論でマウントする事だと理解してしまっている様で、直ぐに不毛な議論へと進んでしまいます。

 しかし「法華折伏」という事は何を指すかと言えば、法華経以外の大乗仏教から論理だてて組み上げ理解する教義(帰納法的な思考により考えられるもの)では無いという事を指しているのではないでしょうか。そしてそこで示された教えとは「破権門理」とある様に、法華経以外の大乗仏教の教えとも異なる事を指しているのかもしれません。

 日蓮はこの事について、開目抄で述べています。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」

 ここでは如来寿量品で久遠実成を顕して始成正覚(菩提樹の下で瞑想して成仏した)という事を否定した事により、法華経以外で述べられた成仏という考え方(四教の果)も崩されたと言い、この成仏と言う考え方を崩されたという事は、その成仏の為の修行(四教の因)をも崩したという事だと日蓮は述べています。そしてその先に「本門の十界の因果(本来の心の形、成仏やその為の修行)」を顕していると言うのです。

 では日蓮の言う「本門の十界の因果」とは何なのでしょうか、またそれが久遠実成と、いったいどの様に関係しているのでしょうか。そこにこそ、法華経の思想の核心があると思うのです。

◆久遠実成が顕した事
 このブログでは過去の記事でも幾度か書いていますが、再度その事について書いてみます。

 法華経の久遠実成では、釈迦は今世で出家して、菩提樹の下で悟りを得たとう事ではなく、五百塵点劫という数学的には表現できない大昔に、既に成仏していたと明かします。まずこれによって、大乗仏教で語られていた「長い時間修行をして得た境涯が成仏」という概念を破壊しています。何故なら、久遠実成とは時間の概念を離れた処で既に成仏をしていたという事だからです。ただし久遠実成はこれを破壊しただけでは収まりません。

 五百塵点劫の昔に成仏した釈迦は、それ以降、様々な仏の姿としてこの世界に常に出現し、そこで常に法を説いてきたと明かします。例えて言うなら「燃燈仏」という仏も、そういった久遠実成の釈迦の姿であったと明かしています。これにより大乗仏教で説かれているすべての仏とは「久遠実成の釈迦」がこの世界に現れてきた姿であり、つまるところすべての大乗仏教の教えとは、法華経から派生したものであるという事になりました。

 また久遠実成の釈迦とは、単に様々な仏の「根源仏」に留まる事ではなく、仏に教えを乞う人達もその姿であった事と説きます。これは先の「燃燈仏」に教えを請い願い、「あなたは来世に釈迦という仏になる」と言われた人が、この娑婆世界に応誕した釈迦であるという事がジャータカ伝説で言われていて、始成正覚の釈迦も久遠実成の釈迦である事が、この逸話からも読み取れます。

 つまりこの世界の全ての存在が、「久遠実成の釈迦」を根源とした姿であるという事を説き明かしたのが「法華経の思想」という事だと、私は理解しています。そうなると「成仏」とか「その成仏の為の修行」という事も、自ずと変わらざるを得ない事であり、その事を日蓮は開目抄で述べたのではないでしょうか。

◆分断の思想ではなく、相互理解の思想
 この法華経の観点から考えるなら、私達は「自分」とか「他者」という様に分断して考えるべき存在ではない事になります。例えばこの文書を書いている私も、読んでいる貴方も、共に「久遠実成の釈迦」がこの世界の応誕した存在であるという事だとすれば、そこに「対決」だとか「自他」という分断の考え方ではなく、必要な事は共に共通の存在であり、そこに違いがあったとしても、それを「理解」し「受容」するという観点なのです。

 以前の記事にも書きましたが、2018年にAI(人工知能)の専門家であるベルナルド・カストラップ博士が、人間の「意識」の問題を解決する上で提唱した「宇宙は解離性同一性障害(多重人格)で、我々はその人格の1つ」という説がありました。ここでは本来、宇宙とは一つの意識であったものが、解離性同一性障害(多重人格)の様に分裂して個々の意識が派生したという理論です。ここでいう「一つ宇宙の人格」を法華経の説く「久遠実成の釈尊」として、そこから分裂した意識が、個々の人格の意識であるという観点で考えると、もう少し解り易くなるかもしれません。

 解離性同一性障害(多重人格)では、一つの自我からいくつの人格が分裂して一人の人の上に現れます。これは「24人のビリー・ミリガン」ですね。そして分裂した人格にはそれぞれの思考と記憶が個別に備わります。この分裂して出来た自我が、もし肉体を傷つければ、結果としてその人(主人格や他の人格)も傷つき死んでしまうかもしれません。主人格とは別人格であったとしても、依って生きる肉体は共通なのですから、そういう事になります。

 これと同様に、今の人類社会に必要なのは、「自分」「貴方」「あいつ」と分断した思考なのではなく、ともに共通の心の基盤の上に依って成り立っている共通な存在だという事の認識であり、その為に私達はどの様に考えて生きて行くべきなのか。そこに重点を置く必要があるのではないでしょうか。

 つまり「相互理解の思想」であり「自分と他者、そして生きて行く環境」という事について、より本質的な理解を深める事こそが、今の時代では必要なのではないかと思うのです。

 昨年は新型コロナウィルスにかき回された一年間でした。本年は果たしてどの様な一年になるのか、全く予測が出来ません。しかし世界をいま席捲しているのは、エゴと分断の思想の様に思えますし、そこに対して一大転換を求められている様に思えてならないのです。

 そしてその事について、大事な示唆を含んでいるのが法華経という経典なのかもしれませんね。
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