拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『次元』・・・ということ

2025年04月05日 | 東洋自分なり研究所

  日本から帰ってきて、私の頭に『次元』・・・という言葉が点滅している時に、著書『サピエンス全史(2011年出版)』で一躍有名になった

  ユヴァル・ノア・ハラリ氏が新刊『Nexus』を出版した・・・というニュースを聞いて 『Nexus=次元』と私の愚脳が解読した?!

 

  さっそく、『Nexus』の英単語を辞書でみると〜きずな・つながり・関係・中心(中枢)・融合膜・・・とあった。

  私の愚脳の解読には、『次=Next』との関係から発想した『Nexus=次元』である事は明白で、幼稚で単純な我が愚脳に失笑しながらも

  そのタイミングには『微笑』はしても笑うことはできない『次元』について、彼も探求しているのだなぁ…という思いというか妄想に埋没。

 

  日本に帰って二人の『弥勒菩薩』に対面すると、『次元』・・・というのが、本当に『在る』というのをまさに実感『実観』したとき

  『彼岸』というときの『此岸』との明らかな『次元』の違いに思い至ったということで、それは禅修行で学んだ『四弘誓願』の四番目の誓願

  『仏道無上誓願成』を表し、そこには『Nexus』が意味する『次のステップに繋がる関係を成立させる中心』・・・を意味していると解読。

 

          

               スイスの首都ベルンで: アインシュタイン博士とツーショットする馬骨

               

  この季節になると、私は一句詠まなければ気がすまない短歌がある。

       『 息吹くほど 引き籠もるオレ 花粉症 摂理に合わぬ らんまんの春 』 馬骨

 

  短歌に反して昨日は、友人を訪ねてベルンにまで出かけた。

  首都ベルンの旧市街が一望できるビュースポット。ローズガーデンにて

  日本がベルンに寄贈したという桜が咲き乱れ、昔ガイドで何度も訪れたときにはなかったアインシュタイン博士の

  旧市街を背景にゆったりと腰掛けるベンチが設置されていた。

 

  

  


  『太子』 から『 HIMARI』 へ

2025年04月01日 | 東洋自分なり研究所

  日本旅行からスイスに帰国し、土産話のこともあって先日、友人夫婦(日本人旦那+スイス人奥さん)を家に招いた。

 

  その時に旦那の方が、3月下旬にドイツはベルリンに出かけてベルリン・フィルと共演した13歳の天才バイオリニスト『HIMARI』を聞いてきた…と、

  興奮気味に話すのを聞いて、その『天才』・・・という言葉にインスパイアされ、奈良滞在中に受けた印象の中で、ざやざや・もやもやしていた

  『聖徳太子』という存在について、自分なりに『天才の存在』ということで腑に落ち、一件落着したことがあった。

 

  『HIMARI』さんについては、数年前に動画で観た覚えがあり、今回の友人の話で最近の彼女の動画を観、ウィキペディアで経歴を観ると

  まさに天才ならではの…まだ13歳ながら、巨匠も一目を置く、という名実ともにその『天才』ぶりが紹介されていた。

 

  私にとって『聖徳太子』というのは、かってのお札の人・・・それも千札であったか一万円札であったかよく覚えていない程度の認識であったが

  その後私の中で仏教が、かけがいのないモノとなってからは、徐々に『聖徳太子』の存在の重要さに思いが行くようになっていた…が、

  それにしても、今回訪れた寺の先々で、『聖徳太子幼少期の像』・・・というのに出会うにつけ、『聖徳太子』という人は、よほど優れた人物であったのだ

  という認識に変化してゆき、太子由来の法隆寺、そして私が最も感銘を受けた中宮寺の菩薩半跏像が聖徳太子の母上様をモデルに作られた…などという

  話を聞くと、聖徳太子という人物と、母上をモデルにしたという尋常ならぬ出来栄えの半跏像とが重なり、

  その場では『天才』という言葉を思いつかなかったのが、このバイオリニスト『HIMARI』の存在を知ることで改めて

  『天才』という言葉の重みを知ることになった気がする。

 

  聖徳太子については、斑鳩町観光協会のホームページにこんな紹介が掲載されていた。

  聖徳太子は、西暦574年2月7日に、現在の奈良県明日香村で誕生しました。

  「聖徳太子」という名は、後世の諡号であり、本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」だったとも言われています。

  皇族として生を受けた聖徳太子は、年若いころから非常に英明であり、592年に即位した我が国初の女帝である推古天皇の摂政となり、

  日本の政治の中枢として活躍しました。

  特に、個人の才能によって役人の位を授ける「冠位十二階」、

  わが国最初成文法といわれる「十七条憲法」の制定や、遣隋使の派遣をおこなったことで、よく知られています。

  また、伝来してきたばかりの仏教を篤く信仰し、仏教興隆の象徴となりました

 

  私個人として、彼、聖徳太子を高く評価するのは有名な『三経義疏』(勝鬘経・維摩経・法華経)の解説書・・・があり、

  太子が『維摩経』にも注目していたという点で、私にとって『維摩経』はダルマさん以前の『禅』であると、勝手に了解しているので

  聖徳太子も『仏教』をそのように理解していたと共感するからだ。

 

  菩薩が『観音』する姿は、かつての聖徳太子の姿であり、それは『HIMARI』さんに継承されているのでしょう。

  『観音』という言葉から、私は『聖徳太子』と『HIMARI』のいわゆる『琴線の共鳴』を観るが、

  この事象は、『空(仏性)に目覚めた者は、その色(個性)を最大限に発揮する…』という『人"間"工学』の働きがある。

 

         

         誰だ!『柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺』・・・なんていう色気のない詩を詠った奴は…

 

  

  

 


  拈華微笑の完結

2025年03月30日 | 東洋自分なり研究所

  ブログタイトルを『拈華微笑』で書き始めたのは、記録によると今から16年前の2009年11月となってる。

 

  しかし、どうしてブログタイトルを『拈華微笑』・・・としたのか? はっきり理由が解らずにいた。

  ブログを書き始めるにあたり、タイトルを決めなければならず、切羽詰まったなかで清水の舞台から飛び降りる…ような感じて決めたような気がする。

  というのも、自分でもこのタイトルの『拈華微笑』の真意がどのあたりにあるのか解らないにもかかわらず、『カッコいい!』感が唯一の決め手であったからだ。

 

  『拈華微笑』(ネンゲミショウ)という言葉は、禅寺では禅問答なる『公案』にもなっている、釈迦と弟子の短いやり取り、いきさつを問題としたもので

  一般の人で、この話『拈華微笑』を知っている人は、とても少ない。  

  私自身もこのタイトルで16年間ブログを書いてきたなか、何度かこのテーマを掘り下げようとしたのか? 

  ブログに書いているが、これはその一例・・・ 2011年6月14日のブログ記事〜拈華微笑

 

  この短い物語には、まず『師と弟子』の関係が表されているだろう。

  その『師と弟子』の関係を骨子として、伝統的禅寺・・・ついては『道文化』の礎となっているのではないだろうか。

  

  私も最初、この『拈華微笑』を『師と弟子』の関係のなかだけで観てきた・・・。

  しかし、今回奈良や京都で『弥勒菩薩』像と対面することで、『拈華』する『師』と『微笑』する『弟子』というのが

  じつは、一体であることを教えてくれたが、今思うと、私の実際の『師』、円覚寺の老師が私に伝えんとしたのも『その事』であったと思う。

 

  日本には伝統文化として、様々な『道』があり、それが『尊重』されている一面がまだまだある事・・・そこにもっと沢山の人が注目すべきだと思う。

 

  いま世間では、『パワハラ』ということが問題視され、『師と弟子』の伝統的関係性も変なところで誤解されることもある

と思うが

  すべからく『道』というものの背後にはその人間性を昇華するための『慈悲心』があり、その『慈悲心』の欠如こそがすべての行為の問題点なのだと思う。

 

  実社会の中で、素晴らしい『師』との出会い・・・というのはそう簡単なことではない、とも言え、案外身近な友人に優れた人がいたりして…

 

        

           佛(菩薩)というものも、時空を超えた形で 私やあなたを『微笑み』で激励している…

 

 

 

 

  


   龍と玉

2025年03月26日 | 東洋自分なり研究所

  目下、奈良旅行の写真の整理をしているところだが、その中に思いっ切り爺(ジジイ)然している自分の姿に呆れた写真があった。

 

  約一ヶ月の奈良滞在中、相方の従姉妹の息子夫婦とその赤ちゃんが我々が借りているアパートに、三泊四日の日程で泊りがけで遠方から来てくれた。

  子供も孫もいない我々夫婦にとって、本当に身近に『子のいる若夫婦』の観察が実現したわけだが、滞在中に2歳の誕生日を迎えた坊やというか

  赤ちゃん(?)が案外に私になついて、愛嬌をふりまくものだから、自然私は相好を崩す・・・という自分でも意外な醜態をさらす結果になってしまった。

 

  他人の赤ちゃんでも『デレ〜』とするのであるから、これが自分の子であったら・・・なんて妄想を働かせたら、『玉のような赤ちゃん』という言葉を

  想起したが、それについては『悟り』の当体としての『玉のような赤ちゃん』について書いた記事があった。 2023・10・26『 色界』の争い

  

  人間が、自分の命をかえりみずに必死に守る『赤ちゃん』・・・ゆえに『玉のような赤ちゃん』・・・と連想したとき

  今回、禅寺・東福寺で観た天井画の『龍』が『玉』を持っている絵を思い出した。

 

      

        携帯で撮った写真ながら、『龍と玉』は案外な迫力で写っていた・・・(京都・東福寺)

 

  『龍と玉』・・・これって考えるまでもなく、おなじみの『ドラゴンボール』ということになり、ぐっと身近になったが

  寺の天井画の『龍』が手にする『玉』・・・というぐらいだから、『悟り』であるに違いないが、

  そうしてみると『玉のような赤ちゃん』というのは、『赤ちゃん=玉=悟り』であるに違いない。 だから命がけで親は守るのだ…としてみると

  仏教の宝=悟り・・・というのが、ググーッと身近になるのが不思議だが、それに気付いてない人間どもの存在の方が不思議かも・・・。

 

           

               『玉のような赤ちゃん』に相好を崩す馬骨かな・・・図

  

 

  

 

 

  

 


  仁去来の旅

2025年03月24日 | 古寺巡礼の旅

  今回の我々の『奈良の旅』というのは、去年の夏過ぎ、相方が来年の2月に日本に行こう…と言い出し、『では奈良に一ヶ月』と提案したのは私だった。

 

  大きなスーツケースを引きずって、アチラコチラを移動するタイプの旅行はしたくない…という希望は以前から有り、『ゆったりと仏像を眺めたい・・・』

  という漠然としたイメージがあったことで、仏教の都・・・『では、奈良へ』ということになった。

 

  私自身は兵庫県、芦屋の写真学校へ通っていた時代に、一二度奈良に行ったような気がするが、あまり記憶がない。

  相方ニコルも、昔私と一緒に東大寺に行ったような…気がする、という程度の奈良観で、奈良という街がどういった街なのかについてはほとんど無知で、

  私の『仏像を観たい』・・・という希望に沿って賛同しただけで、現実にこの旅が彼女にとってどのようなものになるかは、まったくわからなかった。

  

  私にしても、日本へ出発する2週間前に最悪の『座骨神経痛』に陥り、出発が可能かどうか?危ぶまれる状態であったので、旅の準備というのが出来ず

  かろうじて神経ブロック注射の力を借りて、一か八かの出発となり、とりあえず『奈良の都へ!』・・・ということであった。

 

  しかし、流石『奈良の都』。 冬でも定期観光バスが運行していて、ガイド付き・拝観料込・一名でも出発・・・という条件で

  ① 冬の大日如来坐像めぐり〜浄瑠璃寺・円成寺

  ② 奈良大和四寺巡礼(安倍文殊院・岡寺・橋本屋にて昼食・室生寺・長谷寺)

  ③ 大神神社と飛鳥めぐり(大神神社・石舞台古墳・夢宗庵にて(柿の葉すしの昼食)・キトラ古墳・橘寺・飛鳥寺)

  ・・・に参加することで我々の『古寺巡礼』の骨子とし、

 

  自分達にて

  ④ 法隆寺・中宮寺

  ⑤ 東大寺・興福寺・春日大社

  ⑥ 唐招提寺・薬師寺

  ⑦ (京都)広隆寺(弥勒菩薩)・東福寺(石庭)・伏見稲荷

  ・・・と観てきた。

 

          

  まぁ、駆け足での巡礼ではあったとは言え、結果的に想定外の『巡礼』となり、特に相方にとっては忘れられない『奈良巡礼の旅』であったようだ。

 

  彼女の中で、広隆寺の『弥勒菩薩』との出会いは特に印象深いもので、『この菩薩に招かれて私はここに来た…』と感じたそうだ。

 

  その話を聞いた時、35年ほど前、相方の漢字名を『仁去来』と命名した事に思い至ったが、当時相方ニコルは日本の友人等に自分の名前を

  『ニコラ』と名乗り、まぁ、自分にとっての和名としたらしく、それに対し私は漢字で『仁去来・ニコラ』と命名した。

           

           1990・12月30日…の日付がみえ、そのころ骨董屋で買った『阿弥陀如来像』があり、

           真上に私が頂いた公案『庭前の柏樹子』の短冊、その左に相方の和名『仁去来』の観風先生の書が掛かっている図

 

  この彼女の名前『仁去来』・・・が、今回時空を超えた形で一周して、実現した・・・ように思う。

  私も、法隆寺にどうしても行きたかったのは、

           

  高校生の時に、模写した菩薩に会いたかった・・・からではなかったか?!

  以前、私には仏縁というものが、禅と出会うまで全く無かった・・・と思い込んでいたが、じつはこのような形で仏様は私に語りかけていた。

 

  仁去来・・・というのは、『仁』=『慈悲』という次元において、『去来自在』であることを意味しているだろう。

  その意味では『古寺巡礼』というのは『時空を超えた旅』で、自己の『還暦』の総括なのであろう。

           

    

 

  

 

        


  2025春の彼岸に『弥勒』考

2025年03月21日 | 東洋自分なり研究所

  禅の修行はしたが、仏教学はまったくしていない・・・立場の人間であることは、これまで何度もこのブログに書いてきた通りであり、

  また、先祖代々を引き継ぎ祀るという家庭とは、正反対な家族バラバラな中で育った私は、『お彼岸』という仏教的な慣習などにも接することもなく

  高校卒業とともに、いろいろな意味で自立した生活を送ってきたこともあり普通の意味で、仏教そのものや仏教的な慣習に疎い事を私は自覚している。

 

 

  30歳のときに禅を始めることで、『仏縁』を得たとはいえ、ただひたすら『無』と向き合うだけの日々を10年以上過ごすばかりで

  それが『仏教』とどういう関わりがあるのか・・・といういうようなことに少しずつ自覚するようになったのは還暦過ぎた頃であろうか。

 

 

  それも、『観自在』…などといって、慣習的な解釈や宗派的なものの見方に囚われない、自分勝手な仏教解釈なのが、我ながら恐ろしい・・・。

  しかしながら、これが『禅』というモノの観方なのであろうか?・・・私自身にはどうすることも出来ないが、何故か私なりの解釈が生まれるのだ…。

 

 

  そんな無学な私が、今回プチ『古寺巡礼』することで、短期間にじつに沢山の仏様(仏像)に、ほとんど初めてお目にかかったわけであるが、

  最も魅せられ、絶句させられた仏像は、中宮寺の漆黒の仏像『如意輪観世音菩薩』であり、京都広隆寺の『弥勒菩薩』であった。

 

 

          

  写真右が中宮寺の『如意輪観世音菩薩』、左が『弥勒菩薩』で、ほぼ同じポーズであるが、その佇まい、在り方が他の仏像とは一線を画している・・・

  という風に私には観え、紀元7世紀にこのような仏像を創る仏師がいた事、

  それはつまり、『悟り』をこのように表現する仏教があり、それを解して表現する人が居た・・・ということなのだ。

  『禅』という宗派が日本に至るずっと以前に、その真髄が『伝えられ』『受け止められていた』・・・という当然の事実に私は絶句したのである。

 

 

  中宮寺の『如意輪観世音菩薩』に関して、有名な写真家『土門拳』は、『日本における如意輪観世音の信仰は9世紀の密教流伝以後と考えられるから

       飛鳥、白鳳時代に、如意輪観世音が造顕されるはずがない。その半跏思惟の像容は、やはり弥勒菩薩とするべきであろう』

  ・・・と自身の著書(古寺を訪ねて)に書いてあるのを待つまでもなく、どうみてもこれは『弥勒菩薩』であろう。とは(馬骨)

 

 

  『弥勒菩薩』をググると

  " 弥勒は現在仏である釈迦牟尼仏の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、

   ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる "  

 

 

  ・・・とあり、そんな解釈だから、『56億7千万年』も待たなければ、自身を含めた人々の救済がなされない…のだと私は思う。

  これ『弥勒菩薩』が、意味するのは『永遠の今』・・・という問題であろう。 

  その解答を『弥勒菩薩』は今、その姿で目前に観せているのだ・・・。

 

 

  彼岸というのも、そこを観なければそれこそ『56億7千万年の彼方・・・』の話になってしまう… 。

 

 

  スイスに帰国する日、夕方、奈良JR駅前から関空行きのリムジンバスに乗り込んで、次の大きな交差点にさしかかった時、地上からは観えていなかった

  大きな観音像が、視界に現れ『よく来たね、じゃまたね~』と言ってくれたような・・・図 ↓

          

                 『空色』と棲み分け、色分けしながらも、  自身の働きは色界にあり・・・と観音してくださっている図    

      


  結界の鳥居くぐれば・・・

2025年03月19日 | 古寺巡礼の旅

  3月14日(金)にスイスに戻り今日で4日目…、時差ボケが抜けたのかどうか? 自分で定かではないところが、抜けてない証拠で

  単に『時差』の問題だけではなく、やはり文化的『事差』というのが、歳のせいか・・・何時までも禿げて髪がないのに後ろ髪を引かれる如く…。

 

  しかし、旅疲れの実態は、じつは単に飛行機という普段乗り慣れていない乗物、特に絶え間ない『ゴオ〜ッ』という轟音に対する脳の疲れであり、

  地上から何万メートルか知らんが、尋常ではない空間を、人工的に調整された気圧の中で13時間以上を移動のために機内に身を置く状態というのは

  異常行為であり、その上、到着した場所とそれまで慣れ住んでいた場所の時差が8時間もあるというのであるから、これ以上身体に悪く、命を縮める

  愚かな旅行方法はない・・・と、今回喝破するにあたり、海外旅行ができる立場であること自慢する輩がいることに笑止千万を初めて覚えることとなった。

 

  そろそろ今回の旅の総括をしなければ・・・とは思うものの、いまだに脳が轟音で痺れて、ちゃんと機能しない中、何でもいいから何か書くことで

  脳の痺れを、通常状態に強制復元できるのではないか…という淡い希望をいだいて今日のこのブログをしたためることにしたわけであるが、

  どなたかのブログに『鶯(うぐいす)』の一語を発見することで、 そう言えば・・・今回の旅行のメインイベント的、目的であった『伏見稲荷』の

  鳥居くぐりの際に、鶯の鳴き声が聞こえ、これを短歌に詠んで携帯にしたためた事を思い出し、それについて書くことにした。

 

           

           『 結界の 鳥居くぐれば 鶯が 上をめざせと ホーホケキョ 』 馬骨

 

  8年前に初めて伏見稲荷の鳥居をくぐることで、私の『考えるな、漢字ろ!』の発想が生まれ、それが後に『漢字方程式』などという

  私にしか分からないような、如何わしい『佛語・漢字方程式』・・・なる『悟り解析法』もどきを編み出したキッカケがこの伏見稲荷の鳥居くぐり

  であったが、前回は三ノ峰(頂上に至る七合目あたり)の茶屋で下山したので、今回はお礼参りの意味もあって頂上まで行くことを目標にしていた。

  そんななか、七合目過ぎたあたりで、鶯の透きとおった鳴き声が三四度、『ホーホケキョ!』・・・。ホーホケキョは、即『法華経』であるのが縁起。

 

               

  今回、私はお狐さまに注目し、写真を撮ったが、狐が口に加えている物に『鍵』があり、それは『稲を貯蔵する蔵の鍵』・・・だそうであるが

  『鳥居』の形から私は『開』の字を想起したものだが、その鳥居を守る狐が『鍵』を口に加えている・・・という事実に、私の想起が駄洒落では

  済まされない、それこそ『キーワード』であったことを確認することが出来た。

 


  『極楽情土』の島国

2025年03月15日 | 東洋自分なり研究所

  根っから乗物に弱い自分が露呈した13時間の大阪〜ヘルシンキ飛行を経て、3月14日午前10時頃スイスはジュネーブに到着。

 

 

  もう10年ぐらいは、こんな旅はいいかな…と思えるくらい、クタクタになって我が家に到着すると、

  留守中被せていた小さなテラスのテーブルの雨よけのビニールカバーぐらいは、即片付けまいかと、せっせと働く自分がいた・・・。

 

 

  8年前の2017年、定年退職記念(?)帰国旅行ぶりの帰国であるが、今回の私は以前と比較して圧倒的に『自分なり佛教徒』度が深かまったせいか

  我が日本国を観る眼というか、抱く感想もまた以前とはかなり違うように思うが、まぁ、今回は図らずも『古寺巡礼』がテーマであった事も大いに関係があろう。

 

 

  私にとって仏像を拝観することが『観音』であり、『観光』であったとすれば、一方の娑婆での『観光』も普段より一層『極彩色』に輝いて観え

  何を喰っても美味く、何をしても居心地が良いように工夫されている我が祖国、日本は『極楽浄土』ならぬ『極楽情土』に思えたとき

  私が生活しているスイスが『修道院生活』に思え、愕然とした。

 

 

  今回の帰国旅行をキャッチコピー風に表せば『さり気なくウオシュレット、そして微笑む弥勒菩薩』・・・てなところであろうか?

  日本の『極楽情土』ぶりは、量子力学の『もつれ・重ね合わせ理論』を待つまでもなく、一方で『極楽浄土』の仏教思想が鏡合わせであったであろう

  簡単に言えば・・・『色即是空空即是色』なのだ。

  だから、『空』に目覚めなければ『色』の真価も分からずじまい・・・ということなのだと思う。

 

 

  『アンコ椿は恋の花』をもじって『アンコで唾きは、故意の華』というくらい、饅頭や餅などアンコ系を10年分ぐらい喰った気がして

  もう当分いらないかなぁ…という気分で、スイスでの『修道院生活』も案外悪くないかも・・・とも思えてきた今日此の頃

  私のように欲にまみれた人間は、ヒモで結んだ人参を目前に無数にぶら下げられると、それだけで人生にくたびれてしまうに違いない。

 

 

  だから、仏様はあまりにも欲が深い私を『島流しの刑』として、雪と氷しかない山脈地、スイスに流したのであろう・・・か?!

  日曜日は、店も何もかも閉まり、湖畔や山へ散歩するぐらいの楽しみしかない生活というのも・・・と、ここまで書いてきて

  約40年ほど前、初めてスイスを訪れ、レマン湖畔をガールフレンドと初めて散歩した時、『まるで極楽…』と想起したことを思い出したが、

  何も無い『極楽』と、何でも有りの『極楽』の鮮やかな対比に、今私は面食らう・・・のであった。

 

 

  私自身もそうであったが、現在日本で生活している人々が、自国が『島国』であることを自覚している人は稀であろうと思う。

  今回私は日本を『極楽情土の島国』と観じたが、日本を訪れる外国人は程度の差はあれ皆、同じような感想を抱いているだろう。

  そして、自国日本を『島国』と観る視点を抱くことは、世界を『俯瞰』する視点を得ることであり、『極楽浄土』を建設するうえで重要である。

 

 

           

             今回訪れた東福寺の石庭であるが、これもそういった視点を象徴しているのでは…

  

  


常不軽菩薩の出現・・・か?

2025年03月09日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

巡礼の旅もほぼ半ばになって、相方の古い友人マサ子夫婦が東京から2泊の予定で訪ねて来てくれた。

彼らに会うのは20年ぶりだが、漫画の『のたり松太郎』の小型版のようなご主人は相変わらずマイペースだし、人が良すぎるのが欠点のようなマサ子さんも相変わらずの笑顔だった。

そもそも相方ニコルとマサ子とは、今から30年以上前、小さな坐禅会で共に坐禅やその会が催すハイキングやお茶会などで親しくなり、その後私とも親交があり、特にスイスに渡ってからは、私が彼女と年に数回のメールのやり取りをする友であった。

北風の冷たい1日目は、近場の興福寺と東大寺を拝観し、夜は近くの和風レストランで食事しながら互いの20年間を大雑把に還暦し合い、語り合った。そのうち彼等の宿には温泉があり、宿泊者のみ利用できるというので、相方は即決で彼らと同じ宿に一泊することにし、私は、松太郎氏と共に温泉につかり、彼が信じる第一の健康法である『四股を踏む』講義をじっくり受けたが、こうして日本人の友と湯船につかって語り合うなんて何十年ぶりのことか・・・。

翌朝、相方とマサ子は市内のカフェにモーニングセットを食べに行き、松太郎は早くも、定食屋に行ったと言うので私も後を追い合流して、塩鮭の定食を食べ、彼の60歳から始めた剣道が13年後の今、3段にまでなった剣道談義などを聞いてホテルに帰り、ロビーで女性軍が帰るのを待っていると、数分後に帰ってきて、何やらあったらしく、ニコルが少し興奮気味に話すには・・・。

彼女らは、我々が何回か行ったお気に入りのクラシック風カフェで朝食をとりながら、話は昔ともに修行した禅の思い出話から、仏教一般の話になったらしく、昨今の憂いべく社会情勢にあって、仏教の『和』に徹した思想の重要性など…のようなことについて論じていたら、マサ子曰く、『セント君(奈良の遷都にちなんだマスコット)のようなふくよかな奥様(50歳?)が、涙目で合掌をしながら近寄って来て、『すみません、お二人の話をそばでお聞きしていたのですが、外国の人がその様に仏教のことを分かっていただいて、お二人の話に感動して涙が出ました…、お二人の写真を撮っても良いでしょうか?』・・・と、言ってきたというのだ。

相方はその話をしながら感動がよみがえったのか、涙目になっていたが、私も、マサ子さんのご主人もその話を聞いて『え〜、ありえねよ。なんかの詐欺じゃねえか?』なんて答えたが、女たち二人は真顔になって、『いゃ〜、観光で長崎からきた人の様で、ご主人が外で待っていたから、そんなんじゃないわよ』・・・との事。

そんな事が、仏教の都『奈良』では起こり得る・・・んだ!?と納得することに。

    

         菩薩を呼び寄せた マサ子とニコル

この話を聞いて、私が想起したのは 『常不軽菩薩』で、誰彼なく『あなたはいずれ仏に成られるおかた、どうかご自愛下さい…』と、説いてまわった菩薩であった。

      

    これが奈良のマスコット『セント君』。 まあ、菩薩だよね。

       


 考えるな、観じろ!・・・

2025年03月05日 | 東洋自分なり研究所

思えば、この旅の出発2日前にコルチゾン注射を打ち、その前までの一週間半、坐骨神経痛のためベッドに横になることもままならず毎日寝不足に悩まされ、痛み止めだの、炎症どめだのと普段の自分からしたら大量の薬を服用しての旅立ちであったことを思えば、極寒の奈良巡礼の旅の2/3をこれといった大病も煩わず、今日まで来れたことを感謝する・・・のみ。

昨日は、雨と寒風の吹きまくるなか、我々にとっては第三弾、最後の定期観光バスでの『奈良大和四寺巡礼』とパンフに謳ったツアーに参加し、朝8:15に出発するバスに乗ると、総勢25名の年配のカップルやら、お一人参加あるいは友人と参加したご婦人らの目立つグループであった。

安倍文殊院〜岡寺〜橋本屋(昼食)〜室生寺〜長谷寺の順で周り、夕方18時ごろ終了した。最初の安倍文殊院で住職から『巡礼から信仰へ』・・・という主旨から各自に巡礼用の厚手の紙でできた白衣の上着を頂き、それを着てこれらっ大和4寺を巡礼することになり、なんせ25名であるからその姿で、傘をさしながらの大和寺の険しい階段を登る人々の景色はなかなかのものであった。

それに加え、それぞれの寺に奉納して護摩で焚いて頂く(?)ための自分の名前を書いた長さ17cmぐらいの平たい板棒をそれぞれの寺で坊さんに渡さなければならず、巡礼白衣を着たり脱いだり、お堂にお参りする時は、靴を脱いだり履いたりして、相方いわく『修行そのものね!』と文句を言いながらも、どの寺も森厳なおもむきであることに感動しているようであった。

 

     

私は一応、写真家のはしくれであるので、今回の旅にはカメラを持参したが携帯カメラと写真機の両方を、最初のうちは使い分けていたものの、早くも三日目ぐらいからは携帯だけで撮影することにした。いずれにせよ、名佛像の撮影はどこの寺でも禁止していることでもあるし、しっかり自分の眼で観る事・・・限界のある眼で直に観ることが、巡礼では何より重要なのだろう。

たぶん、私の古寺巡礼はこれが最初で最後になるだろう。

もう一生分の名佛を拝観できた気がする。これからはいろいろな所で『生き佛』を拝観したいものだと思う・・・


  如来システム

2025年03月03日 | 東洋自分なり研究所

ささやかな古寺巡礼ながら・・・実際に他の人々と神社仏閣を巡ぐることで、幾つか気付かされた事があった。

そしてそれは、私の今回の巡礼の旅での最も重大な収穫であったのではないか。

歴史的に残った仏閣の奥には、如来像や菩薩像、不動明王像などが時空を超越した趣で鎮座し、それを有象無象の人々が訪ねてくる・・・そういった風景を実際に自分の眼で観たとき、その風景というのは千年、二千年とずーっと続けられてきたのだ、と思った時、私は、女王蜂とそれを守るミツバチの社会形態を想定した。

前回のブログで『古寺巡礼』と『己事巡礼』で、『古寺と己事』とが『重ね合せ、もつれ』状態になっていることを指摘したが、現実問題として誰もが如来になれるわけではなく、菩薩であったり、たとえ覚醒せずとも何だかの形で仏を支援する大衆がいたからこそ今日まで神社仏閣が大切に守られ『道の文化の礎』として日本文化を支えてきた事に思いが到った。

その時に、これまで如来とか菩薩とか明王とかの仏の位みたいなものがどうしてあるのか長い間、不可解に思っていた疑問が解凍した気がした。

本当の答えというのは私は知らないが、馬骨なりの解答としては、如来というのは四弘誓願で言うところの『仏道無上誓願成』の事で、どこまで行っても到達不可能なレベルを表し、如来には絶対に誰もなれない位・・・なのだと解った。

如来への道は、自ずから誰にでも開かれているが、自らの意思が伴わなければ道は全うできない・・・そういった厳しい自由もまた人間にとって現実なのだ。

そういった一方で、ウクライナの大統領ゼレンスキーとトランプ大統領の話し合いが決裂したり、神戸は三宮に行った時、何故かあのNHK党の立花孝志を目撃した日々


  己事(古寺)巡礼

2025年02月28日 | 東洋自分なり研究所

まさに奈良名佛・・・というか1500年に渡り、伝え護り続けてきた素晴らしい仏像の数々。

この二日間は、地元奈良の定期観光バスを利用して、昨日2月27日飛鳥地方は、大神(おおみわ)神社、聖徳太子ゆかりの橘寺、飛鳥寺、石舞台古墳、今日28日は浄瑠璃寺、円成寺の国宝・大日如来坐像をすぐそばから舐めるように拝観した。

とにかくこの11日間、いわゆるプチ『古寺巡礼』というのをしているわけだが、昔は『古寺巡礼』だなんて、ジジババがするもんだ〜・・・なんて、思っていたが、確かに自分がジジイになってしっかり『古寺巡礼』しているのが笑える。

前回も言ったが、名佛は撮影禁止なのでどの寺がどの仏様であったか?ごちゃ混ぜになってしまい、もう何が何だか分からない?・・・スイスに帰ったら購入した本や、絵ハガキや、パンフレットを参考に再巡礼もまた楽しからずや。

バス観光で一緒になった人の中には、御朱印を集めている人が結構たくさんいるようで、あちらこちらの寺を訪ねてはそれを集めるのを楽しみにしているようだ。

私といえば、無言でひたすら観音している仏像たちを観ているうちに、円覚寺の居士林や僧堂でひたすら坐る生き仏の修行者等の姿がよみがえり、そういえばこれ等の禅寺にはそれほど名の通った仏像はなかったような気がするが、それは正真正銘の生き仏の育成にこそ力を入れている禅寺だからであったことを今になって認識する。

『古寺巡礼』という枯淡な趣味も悪くないが、それが『己事究明』につながる『己事巡礼』に昇華することこそ、これ等の名佛は、私達に祈願しているに違いない。

    

     浄瑠璃寺・・・だったかな? 猫に案内された馬骨図


 『大人』と『音無』

2025年02月26日 | 東洋自分なり研究所

関西空港着陸して10日目、名付けて『怒涛の耐寒旅行』の最中、相方の従姉妹の息子夫婦が、2歳にならんとする可愛い坊やを伴い3泊4日の日程で我々の宿アパートにやってきたから、さあ大変、寒さを一時的に忘れる・・・効果には絶大なものがあり、また10年ぶりに再会したかっての青二才の若者が、41歳の父親として、日本人妻と協力してこまめに2歳の面倒をみる姿に、へえ〜っと感心感嘆。

その間に、法隆寺・中宮寺・唐招提寺・薬師寺・奈良国立博物館そして昨日、京都は広隆寺を訪ね、優れた仏像というものが時空を超えた存在であることを確認し、今なお『観音』のメッセージを発し続けているのを目にするのはうれしい。

そしてそれ等の仏像を命懸けでまもっている日本人と日本文化が誇らしく、また実に有難い思いでいっぱいになった。

奈良に着いて、色界と空界の往復を繰り返して思ったのは、人間は人の子の親となることで立派な『大人』になるようであるが、無理会(むりえ)に向かわなければもう一つの『音無』(おとな)に成ることは、やはり叶わない・・・ということだ。

     

いまや、名のある仏像のある寺院では、撮影禁止が常識となっているようで、それはそれで心に焼き付ける覚悟がつくのでよい。(写真は寺が掲示板に貼っていたもの)

広隆寺の弥勒菩薩が鎮座している建物は50近くある仏像を保存するために薄暗く、また寒いぐらいの低温に調節されていたが、そんな事には気にもとめない穏やかな中に毅然とした佇まいを永遠の今の姿として観せてくれ、相方も偉く感動して像の前にあったお守りを有り難く買い、後でバッグに付けて喜んでいた。

拝観料の所に戻り、弥勒菩薩の写真セットを買っていると、75歳ぐらいのお婆さんが、拝観料が1,000円である事に驚いて、『私ゃ、地元に住んでますが、一度も来たことがありませんで・・・』、それを聞いた受付の女性があれこれ説明していたようですが、残念なことに、お婆さんは帰っていきました。相方にそれを説明すると憤慨して、『お婆さんは、どこ?お金がないなら私が払うから…』と、探し出す勢いだったので、仏縁が無いとはそういうことであると諭して治めたが、偶然見かけた情景とはいえ、弥勒菩薩に感動したばかりの私達の目の前で起こった出来事としては『事実は小説より奇なり』を観たおもい。

その足で我々は、おごと温泉まで電車で行き、その日の夕方を湯元館という温泉旅館で過ごし一泊した。

温泉行きは相方の強い意向があり、オーガナイズの面倒な私はなかなか調べることもせず、またちょっと見たところ、奈良近辺に適当な温泉が無いようでモタモタしていると、近畿地方の路線図に『おごと温泉』の駅名が目に止まり、ググってみると湯元館というのが評判が良い様なので予約。それを奈良の実家にたまたまスイスから来ている友人に話すと、『えーっ』と驚かれ、かつて男性の夜のあそび場所として有名を馳せた所であるこを知らされ、焦ったが、それもまたググると、昔はそうであったがそのイメージを払拭する温泉街として復活との情報に胸を撫でた。

実際、他はどうか知らないが、この湯元館はプロ意識に徹していて、いろいろうるさい相方もすっかり気に入り、また来たい・・・と宣ったのだ。


 愉悦とは湯悦だった!

2025年02月20日 | 東洋自分なり研究所

一昨日は東大寺を満喫したので、昨日は隣の二月堂を訪ねようかと、いつものモーニングセットを食した後に出かけたが、あまりの北風の寒さに2人とも根をあげ急遽、露天風呂もあるという奈良のスーパー銭湯へ!

たぶん8年ぶりに、よそのオツサン等と素裸でガン首並べて『湯』につかった時、フェイスブック友の一人が、私のブログを読んで『日本の冬の愉悦・・・』と宣ったその最高級ワード『愉悦』が『湯悦』とシンクロし、日本文化の色界のエクスタシ−が極まって空界に反転するであろう深淵なシステムを垣間見た気がして、『銭湯は銭湯に非ず、ゆえに銭湯』の即非の論理・・・に深くうなずいたのである。

改めて考えてみると、私の養母宅にも実母宅にも風呂がなく、特に6歳まで私の面倒をみた弱視、後に盲目になった養母の一日のローテーションに銭湯へ行くことがあり、私にとって銭湯に行く事は生活の一部としてあまりにも当たり前の事であったので、こんにちまで『銭湯』に関して特別な思いを抱くことが無かったが、『道産子』であり同時に『銭湯子』であった私の中で『銭湯』という日本文化が私に与えたであろう影響の多大なる事に、今更ながら思いが及ぶのであった。

そうした意味では、先日『饅頭、まんじゅう』と騒いで見せたが、『湯悦』の愉悦は『饅頭』の及ぶところではなく、比較することすらバカバカしい別次元の愉悦であった。

そして湯上がりの帰り道に、相方と二人で餃子の王将で、餃子定食を食いながら思ったのは、こんな簡単な『愉悦』が、なんでスイスで出来ないんだろうか?と思った時、色界における日本文化の振幅の大きさに私は、あらためて気が付いたのだと思った。

      

今日2月20日は初めて法隆寺と中宮寺を訪ね、『愉悦』について仁王様に尋ねた図


饅頭怖い・・・

2025年02月18日 | 東洋自分なり研究所

我々がスイスを出発する数日前、私の日本人の古い友人が『美味しい饅頭を腹一杯食べてきて下さい・・・』とSNSしてきた。

崇高なる我が帰国の意図について云々するならともかく、『饅頭』とは、なんと失敬な奴だ・・・と憤慨しながらも、同時に、食い意地の汚い私の本性がとうの昔に見破られていた事を、皮肉を込めて言われた気がして、忸怩たる思いをしたが、ふだん観音とか悟りとか言っている一方で、私の深層には、じつは饅頭系(大福も含めた)に対するドス黒い欲望が渦巻いていることを私は薄々自覚はしていたのだ。

これまでは、スイスに住んでいるのだから、無いものを望んでも仕方ない・・・という、諦めの境地にあったのが、一旦帰国することが現実を帯びてくると・・・、私は自己の内奥にあるドス黒い饅頭への熱い思いが、我ながら怖しい…と思うほど鬱積していたことを知るのだ。

かくして私は、着いたその日に奈良で有名な中谷堂のきな粉餅3個をペロリと平らげたのである。饅頭というものは実に怖しい食べものである。

 

それとスイスと日本の住宅事情(ことに暖房)のあまりの違いに、仰天した我々は急遽日本ではほぼ絶滅危惧種に近い『綿入れ半纏』を購入の図

    

 

さて、これからが私の崇高なる帰国意図にのつとった旅計画の一端をご披露となる。

     

仏教伝来は538年だったそうだが、私にとっては今現在であることを、只ひたすらこの仁王様で目認することであったので、それを実現してみせた図

 

      

       この像を見た時、あゝ漢字在菩薩・・・と思った図

深淵なる『悟り』については、すべて佛語・漢字方程式に込めてあるから解読せよ!

 

        

     あとは、『 私に任せなさい‼️』・・・との事の図

まあ、観音、観光としては、まずまずの日和であったかナ。