自燈明・法燈明の考察

最近話題のLGBTQ騒動に思うこと

 先日、LGBT法案が国会の衆議院内閣委員会で可決されました。この法案とは「L=レズ」「G=ゲイ」「B=バイ」という事、これは簡単に言えば「性同一性」に問題を抱える人を社会で差別せず、理解を深めていこうという理念法、要は罰則を持たない法律だと言われています。

 人に限らず、この世界の生物の多くは男性(オス)と女性(メス)に別れています。そしてこの性別毎に生物としての役割も異なり、そのためにメンタル(精神的)もそうですがフィジカル(身体的)としても作りも異なっています。これは人の場合、子供の時にはあまり顕著ではありませんが、第二次性徴期(10〜15歳位でしょうか)で顕著になり、これは主に体型や骨格などに現れます。

 この性差は脳にもあります。具体的に言えば右脳と左脳をつなぐ脳梁の太さの違いに、これは現れると言われています。この為に女性は男性と比べて右脳と左脳の間で情報伝達が多く行う事が出来るので、具体的に言えば会話をしながらも他の作業を平行して行う「ながら作業」が、女性の方が男性よりも得意だと言う話があります。またこの脳の違いがメンタルにも現れてきます。それは思考の「女性らしさ」「男性らしさ」という事で現れてくるのでしょう。
 また肉体に着く脂肪の量も男性よりも女性の方が付きやすく、一般的にスリムな女性でも小太りの男性程度の脂肪が付いていると言いますし、出血量に対する耐性も男性は全血液量の1/3が出血したら死亡しますが、女性は1/2まで耐えられると言う説もあります。そして痛みに対する耐性も、男性よりも女性の方が強いと言います。(※こちらについては北海道大学医学部元講師で小説家だった渡辺淳一氏の論に依っています

 この様に男性と女性には性差があるのですが、悩ましいのが、これがデジタルの様に「0」「1」の様に明確に違いがある訳ではなく、この性差はメンタル、フィジカル共にアナログ的だという事です。例えばフィジカル的に男性と女性の中間には両性具備という事が存在しますし、脳の構造についても母胎の中での成長過程の中で、フィジカルが男性であっても女性脳となる場合もあれば、その逆も存在してしまうのです。一般的に従来から言われていた「性同一性障害」というのは、この男性脳や女性脳と、実際の肉体面の不整合から発生していると言われていました。

 つまり本来は「LGBT」というのは、いわば生物的な観点で見れば、ある意味で「障がい」とも言える状態にある人達の事を指している訳であり、社会的にはマイノリティ(少数派)の人達を対象としての話であったはずです。このマイノリティに対しても、社会としては人権を認め、彼らの事を差別なく許容して受け入れようという話であったと思うのです。

 しかしここ最近言われている「LGBT」とは、そこに「個人の性的嗜好」までも認めようと言う様な、本来あった話とは異なる事が混入して語られているのではないでしょうか。これは今回、国会でも法案議論で問題となった「性同一性=自らの性をどう認識するか」という事で議論をされた時に混入している問題です。結局、今の国会では議員連中もこの辺りの議論で深める事も出来ず、お互いが手打ちの為に「ジェンダーアイデンティティ」という外来語を法律の中に組み込み決着を図りましたが、これはつまるところ議論する側も社会の中も、結果として「性別、性差」という事についての定義があいまいである事の現れであり、本来は「性的自認」が困難な「障がい者」に対する議論であったはずが、そこに「性的嗜好」が混入してしまい、結果として「オジやの様な議論のまま」で進んでしまっている現れではないでしょうか。

 個人が「性的嗜好」をどの様に考えようか、そこは飽くまでも個人内面の話なので、他者が介入する事ではありません。ただ気を付けなければならない事は、この「性的嗜好」というのが暴走してしまうと、それが結果として社会的には犯罪として噴出してしまう事が多くあるという事です。例えば「痴漢行為」にしても「小児性愛者」にしても、それは個人の内面的にあった「性的嗜好」の暴走を個人の理性では抑えられない結果、他者に対して危害を加える事で起きている事件であると過去にも言われてきています。だからアメリカに於いても、小児性愛者が犯罪を起こした場合には、GPS等を装着させて社会の中で監視するという事が行われていました。
 今回の「LGBT議論」という事で言えば、この性的嗜好を「性同一性障害者の権利等」の問題と同列に混入させていて、社会的な議論も整理すらする間もなく始めてしまいました。その結果、大きな混乱が今後、社会の中で発生していく事を私は懸念しています。

 報道によれば本年3/21に静岡県菊川市では「ドラァグクイーン」を学校に講師として迎え、小学六年生相手に自らの性的嗜好の事を語らせたと言いますが、私から言えばそもそも小学六年生は第二次性徴期を迎え、心と体がアンバランスな時期にも関わらず、その「性差」という基本的な事を教えもせずに、この様な人物に語らせる事は順序がまるで違う事であり、結果として小学六年生の「性認識、性自認」にはむしろ悪影響を及ぼしてしまうのではないでしょうか。

 どうも社会全体として、この「LGBT」に関する議論は未成熟であり、行き当たりばったり、何か狂騒状態のままで突き進んでしまっていると思わざるを得ません。

 この「性差」というのは、民族的にも根幹をなしている部分でもあります。それは各民族毎に異なる事ですが、日本で言えば「女性らしさ」「男性らしさ」という事にも関わる事です。そしてそこを狂わす事は、結果として民族の文化の根底を壊す事になりはしないでしょうか。そしてこれは何も民族や文化に留まる話ではなく、「人間(ホモ・サピエンス)」が生物種としてこれからも生き延びていかなければならないという、生物的な根幹の部分をも狂わしてしまう事になりはしませんか?

 実はこの事について、私はとても大きな危機感を感じているのです。

 今回は日本国内において、法案成立に際して自民党が消極的な姿勢を取った時に、公明党が横やりを入れて結果として後押ししたと言いますが、恐らく公明党議員であれ、それを支持している創価学会の活動家であれ、この問題の本質を理解しないまま突き進んでいます。

 これは日本の先行きに対して、けして良い影響を与える事は無いでしょう。


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