自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

【私の近代史観】幕末から明治維新⑤

2020年10月01日 19時46分37秒 | 日本の歴史
 近代史について記事を続けます。
 ペリー来航により日本(江戸幕府)とアメリカ合衆国の間に条約が締結されました。それは「日米和親条約」というものです。この条約について、学校生活では少し触れますが、ほとんどの人は記憶にないのかもしれません。



◆日米和親条約
 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)と1854年2月13日(嘉永7年1月16日)の2回に渡り、ペリーが浦賀に来航する事で、アメリカと江戸幕府との間で締結された条約が「日米和親条約(Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan(アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約)」でした。条約の日本語の正式名称は「日本國米利堅合衆國和親條約」と言います。

◆条約の内容
日米和親条約では次のような内容が定められました。

第1条
* 日米両国・両国民の間には、人・場所の例外なく、今後永久に和親が結ばれる。

第2条
* 下田(即時)と箱館(1年後)を開港する(条約港の設定)。この2港において薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。
* 物品の値段は日本役人がきめ、その支払いは金貨または銀貨で行う。

第3条
* 米国船舶が座礁または難破した場合、乗組員は下田または箱館に移送され、身柄の受け取りの米国人に引き渡される。
* 避難者の所有する物品はすべて返還され、救助と扶養の際に生じた出費の弁済の必要は無い(日本船が米国で遭難した場合も同じ)。

第4条
* 米国人遭難者およびその他の市民は、他の国においてと同様に自由であり、日本においても監禁されることはないが、公正な法律には従う必要がある。

第5条
* 下田および箱館に一時的に居留する米国人は、長崎におけるオランダ人および中国人とは異なり、その行動を制限されることはない。
* 行動可能な範囲は、下田においては7里以内、箱館は別途定める。

第6条
* 他に必要な物品や取り決めに関しては、両当事国間で慎重に審議する。

第7条
* 両港において、金貨・銀貨での購買、および物品同士の交換を行うことができる。
* 交換できなかった物品はすべて持ち帰ることができる。

第8条
* 物品の調達は日本の役人が斡旋する。

第9条
* 米国に片務的最恵国待遇を与える。

第10条
* 遭難・悪天候を除き、下田および箱館以外の港への来航を禁じる。

第11条(和文)
* 両国政府が必要と認めたときに限って、本条約調印の日より18ヶ月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる(兩國政府に於て無據儀有之候時は模樣に寄り合衆國官吏の者下田に差置候儀も可有之尤約定調印より十八箇月後に無之候ては不及其儀候事)。

第11条(英文-訳)
* 両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヶ月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる(There shall be appointed, by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda, at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty, provided that either of the two Governments deem such arrangement necessary.)。

第12条
* 両国はこの条約を遵守する義務がある。
* 両国は18ヶ月以内に条約を批准する。

 また、下田条約では次のような細則が定められた。

* アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、箱館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。
* アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。
* アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。

◆不平等な条約
 アメリカの遣日特使として浦賀沖に現れたペリーにより、強引とも言える手法により締結させられた条約は「和親条約」と言われていますが、日本側にとって不平等な条約となっていました。これは第9条に「片務的最恵国待遇」とありますが、これは日本が今後、アメリカ以外の国との間で条約を締結し、その条約内容がアメリカと結んだ内容よりも有利な条件であった場合には、自動的にアメリカにも有利な条件が与えられるというものを言います。
 日米和親条約で江戸幕府が開放したのは、伊豆の下田と函館でしたが、今後、他の国に対して江戸幕府が他のもっと地の利の良い場所を開放した場合、アメリカにも同等の開放をしなくてはなりません。これは「片務的」、つまりこの様な権利はアメリカにしか与えられず、日本にはアメリカから与えられる事はないという事なのです。
 またこの条約は、日本文と英文とでは内容が異なっています。英文の第11条では「米国政府、領事または代理人は」となっていますが、日本文では「両国政府が必要と認めたときに限って」となっており、アメリカとしてはこれで開国した事になっていますが、江戸幕府はこれにより幕府も必要と認めた時はと言う事で、完全な開国では無いと国内向けには説明していました。これにより国内の開国反対勢力に対して抑えをしていたのです。

◆下田協定(日米追加条約)
 日米和親条約が締結された後、1856年8月21日(安政3年7月21日)に、初代駐日本アメリカ合衆国公使として、タウンゼント・ハリスは伊豆の下田に入港してきました。この時、日本側の通訳の不備から対応にあたった下田奉行の井上清直に入港の拒否をされましたが、折衝の末に正式許可を受け、下田の玉泉寺にアメリカ領事館を構えます。この時、ハリスは大統領親書の提出をするために江戸に向かう事を望みましたが、幕府では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対したために留保されました。
 1957年6月17日(安政4年5月26日)には、ハリスと下田奉行の井上清直、中村時万との間で下田協定(日米追加条約)が締結されました。
 この条約では長崎に新たに港を開ける事、またアメリカ人の下田・函館居留を許可する事、またアメリカと日本の貨幣を同種洞重量(金は金、銀は銀)で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収すること等が定められました。

(続く)

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【私の近代史観】幕末から明治維新④

2020年09月23日 11時37分03秒 | 日本の歴史
 ペリーが来航後、当時の江戸幕府は来るペリーの再来に備え、大船建造の禁を解き、各藩に艦船建造を解禁し、また1953年11月23日(嘉永6年10月23日)には第13代将軍に徳川家定が就任した。

◆クリミア戦争とロシアの動き
 ペリーが去ったこの当時、ロシアではクリミア戦争が勃発した。この戦争はフランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争である。
 この戦争と並行して、ロシアのエフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功したのである。

◆ペリー再来
 江戸湾を退去してから半年過ぎた1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリー率いるアメリカの東インド艦隊は再び浦賀に来航した。幕府との取り決めでは1年間の猶予としていたが、あえてペリーが半年で再度来航した事に幕府は大いに焦りを感じた。実はペリーは香港で将軍の家慶の死去を知り、国政の混乱の間隙を突こうと考えたようで、これはペリーの外交手腕であるとも言えるだろう。
 2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までに旗艦の「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポータハン」(蒸気外輪フリゲート艦)「マセドニアン」「ヴァンダリア」(帆船スループ)「レキシントン」(帆船補給艦)の計6隻が浦賀に到着、この時、2月12日に三浦半島の長井村沖でマセドニアン号が座礁したので、浦賀奉行所が第一報をペリー艦隊に通報、ペリー艦隊はすぐに救助に向ったが、この時に奉行所と彦根藩がペリー艦隊に助力を申し出た。しかし日本側の救助を待たずにミシシッピ号が到着して救助、この時、日本側では浜辺に打ち上げられたバラストを拾い上げ、20マイル離れた艦隊まで送り届けたのである。

 江戸湾到着後、艦隊旗艦は「ポーハタン」となり、2月13日から浦賀奉行所の旗本で組頭である黒川嘉兵衛と、ペリー側からアダムス中佐の間で応接場所に関する折衝が始まった。奉行所では浦賀の館浦に応接所を建て、そこを応接場所にと申し出たが、ペリー側では納得せず、2週間後の2月27日に場所は横浜という事で決着した。
 横浜に応接所が完成し、3月8日にアメリカ側は総勢446名が横浜に上陸。ペリーの艦隊は、3月4日には「サラトガ」(帆船スループ)、また3月19日には「サプライ」(帆船補給艦)の2隻が到着し、合計9隻の艦隊が江戸湾に終結、江戸市中はこの時に大きく動揺した。しかしその一方で前回同様、浦賀には見物人が多数詰めかけ、観光地の様な状況となり、勝手に船を出してアメリカ人と接触する市民も居たと言う。

◆横浜での交渉
 突然の大艦隊の来航に幕府は狼狽したものの、前回の来航の時と同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取る事はなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対してフランス料理を振る舞い歓迎した。また日本側も横浜の応接所で会談終了後に、昼食として本膳料理を出して応響したのである。
 さて、会談は3月8日に横浜の応接所で始まった。日本側はアメリカ大統領の親書に対して、薪木、食糧、石炭の供与及び難破船や漂流民救助の件は了承したが、通商の件については承諾できないと回答した。その後、林大学頭とペリーとの間で応酬があったが、結果としてペリーは通商の要求については取り下げたのである。
 翌3月9日、日本側がペリーに、避難港の開港に関しては5年間の猶予期間を置いて、それまでの間は長崎を充てるとする書簡を渡した。3月10日、ペリー側からアメリカの土産を献上したいと提案があり、3月13日に献上品の目録と返礼品の目録が渡された。この時の献上品は全部で140点にのぼった。
 3月11日にはアメリカ側から即刻の開港と条約締結を要求する書簡が届けられたが、3月15日、日本側は以前と同じ内容の条約草案を渡した。3月17日、横浜の応接所で会談が行われ、アメリカ側は3月24日までに数か所の開港を要求した。3月19日、林大学頭らは江戸に戻り、この内容について老中と相談し、3月24日、横浜会談において、下田と函館の2港開港が合意されたのである。
 3月28日、横浜での会談で、ペリーは下田の遊歩区域と下田にアメリカ人の役人を駐在させることを要求してきた、しかし林は貿易を始めるなら必要となろうが、たまに薪水食料を供与するだけであるため、応じかねると返答した。ただし18か月後に来るアメリカの使節と再度話し合うことで合意した。3月29日に徒目付の平山謙次郎らを派遣して協議の結果、遊歩地の件は7里四方で、開港日は条約上では即刻、実際は来年4月か5月で、条約調印の日は3月31日で合意した。3月30日、幕府は平山を派遣し、条約草案を互いに示して相談した結果、条約の調印形式について、ペリー側は諸国の慣例通りに、林、井戸、ペリーの名前を一列に書く案を提示したが、日本側はそれぞれの署名を別紙に認めて交換するよう主張し、押し通したのである。

◆日米和親条約の締結
 約1か月にわたる幕府とペリーの協議の末、3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村(現・神奈川県横浜市)に上陸し日本側から歓待を受け、その後林復斎(日本側全権・応接掛(特命全権大使)に任命)を中心に交渉が開始され、全12か条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結され、ここに日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が解かれる事となった。
 その後、ペリーは5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めたが、権限がないとして拒絶された。箱館から戻ったあと、伊豆国下田(現・静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日(嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13か条からなる下田条約を締結した。
 ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に63歳で死去した。その後、アメリカは熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局イギリスやフランス、ロシアが日本と関係を強めたうえに、清に対する影響力を拡大してしまった。

(続く)

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【日本の近代史観】幕末から明治維新➂

2020年09月17日 13時25分36秒 | 日本の歴史
 さて、ペリーの恫喝ともいえる行動によって、幕府側は新書を受け取った。そして1853年7月14日(嘉永6年6月9日)に幕府はペリー一行の久里浜上陸を許可し、旗本の下曽根信敦率いる幕府直轄部隊に加え、陸上を川越藩と彦根藩、海上を会津藩と忍藩が警備する中、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見した。

 ペリーはは彼らに開国を促すフィルモア大統領の親書を渡し、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府側は「将軍が現在病気であり決定できない」と一年間の猶予を要求した。それに対してペリーは「返事を聞くために1年後に再度来航する」と告げてこの会見は終了した。



 幕府側は会見が終われば2~3日で退去すると考えていたが、ペリーは7月15日(嘉永6年6月10日)にミシシッピ号に移乗し、浦賀から20マイル北上して江戸の港が明瞭に見る事が出来るところまで進め、幕府を十分に威嚇した後、小柴沖に引き返し、7月17日(嘉永6年6月12日)には江戸湾を離れ、琉球に停泊していた艦隊と合流して、イギリス植民地である香港に帰ったのである。

◆町民等の反応
 浦賀来航でペリーの艦隊は、アメリカの独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として江戸湾内で数十発の空砲を発砲したと言われている。この件は事前に幕府側にも通告があり、町民にもお触れが出されていたが、最初の砲撃によって江戸は大混乱に陥った。しかしそれが空砲だとわかると、町民は爆発音を耳にする度に花火感覚で喜んだという。
 またペリー来航の翌日である嘉永6年6月4日、浦賀には見物人が集まりはじめ、翌々日には江戸からの見物人も殺到するなど、町民たちは黒船の話題で持ち切りでとなった。その中には佐久間象山や吉田松陰も見物に訪れていた。これら見物人の中には勝手に黒船に小舟で近づくもの、乗船して接触を試みるものもいたと言うが、幕府からは武士や町人に対して「十分に警戒する様に」とお触れが出され、実弾発砲の噂もながれた事から、次第に不安が広がったのである。

◆ペリー来航後の幕府
 アメリカ大統領からの親書を受け取り、幕府としては重要な時であったが、ペリー退去からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)、第12代将軍の徳川家慶が死去した。この時、将軍の後継者は徳川家定であったが、家定は病弱であり国政に耐えうる人物ではなかった。しかし老中らにも後継者について名案があるわけではなく、ペリー来航により国内には異国排斥を唱える攘夷論も高まり始める中、老中首座の阿部正弘は将軍後継者の件と、ペリーの残した開国要求にひとり頭を悩ませた。

 8月5日(嘉永6年7月1日)、阿部正弘は一人で回答を出せず、広く各大名や旗本、さらに庶民に至るまで、幕政に関わらない人々に対しても外交について意見を求める事にした。幕府が意見を求めるというのは、徳川幕府開闢以来はじめての事であり、この事によって今まで発言権すら無かった外様大名は喜んだと言うが、そうは言っても今まで幕政に発言した経験のない事もあり、名案を出すという迄には至らなかった。しかしこの阿部正弘の行動が、後に国政を幕府単独ではなく合議で決定しようという「公儀興論」の考え方を弘めてしまい、結果として長年にわたり堅持してきた幕府の威信を下げる事になってしまった。

 また阿部正弘は、アメリカ側と戦闘状態になった場合に備え、江戸湾警備を増強すべく8月26日(嘉永6年7月23日)に幕臣で伊豆韮山代官である江川太郎左衛門らに砲撃用の台場造営を命じた。江川は富津-観音崎、本牧-木更津、羽田沖、品川沖と4本の防禦ラインを提案したが、予算や工期の関係からまず品川沖に11か所の台場が造営される事になった。
 12月14日(嘉永6年11月14日)には、建造途中の1~3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任じられ、江戸時代初期に制定された「大船建造の禁」については解除された。これにより各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を10月21日に浦賀造船所で起工した。オランダへの艦船発注もペリーが去ってから1週間後の7月24日には決定、これは後に蒸気軍艦の「威臨丸」「朝日丸」となったのである。

 12月7日(嘉永6年11月7日)には、2年前にアメリカから帰国し、土佐藩の藩校の教授となっていたジョン・万次郎を旗本格で登用し、幕府はアメリカ事情について説明を受けたと言う。

 ペリーの来航により、江戸幕府は開闢以来の外交問題に直面する中、そこで本来は中心者となるべき将軍も病死、またその継嗣問題もあり混乱状態に陥った。そしてそれにより混乱した幕府の行動から、今まで幕府が統治してきた国の形はほころび始めたともいえるのでは無いだろうか。


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【日本の近代史観】幕末から明治維新②

2020年09月13日 21時12分12秒 | 日本の歴史
 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)17時にペリー率いるアメリカ東インド艦隊は浦賀沖に現れ停泊した。当時の日本人が見た船は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは異なり、黒塗りの船体の外輪船で、帆以外にも蒸気機関で航行し、帆船を1隻づつ曳航しながら煙突からもうもうと黒煙を上げていたのである。この様子から日本人はこの船を「黒船」と呼んだ。

◆予告されていた来航
 実はこのアメリカ東インド艦隊の来航については、約1年前の1852年7月21日(嘉永5年6月5日)に、長崎出島にあるオランダ商館の館長、ヤン・ドルケン・クルティウスから長崎奉行に「別段風説書」が提出され、そこに予告をされていたのである。
 この書類ではアメリカが日本と条約締結を求めている事、そのために艦隊を派遣する事が記載されており、中国周辺にあるアメリカ軍艦5隻と、アメリカから4隻の艦名、そして司令官がオーリックがペリーに代わった事まで記載されていた。またそれだけでなく、その艦隊の搭載している兵器や兵員の数、そして出航は4月下旬である事まで書かれていた。

(長崎オランダ商館跡)

 また同年6月25日には、オランダ領インド提督のパン・トゥイストから長崎奉行宛ての親書「大尊君長崎奉行様」が提出され、そこにはアメリカ使節派遣に対するオランダとしての推奨案が提出され、そこには次の様に書かれていた。

「長崎港では通商を許し、長崎への駐在公使は見を受け入れ商館建設を許す。外国人との交易は、江戸、京、大阪、堺、長崎の五か所の承認に限る」

 これら親書には10項目の推奨案からなるもので、内容としては通商条約草案の様なものだった。またこの親書には1844年の親書のあとも開国されなかった事をオランダ国王が失望している事が書かれており、もしアメリカと戦争になれば、オランダにも影響が及び兼ねないという懸念も記されていた。

 歴史の教科書などでは、アメリカ東インド艦隊が突然、浦賀沖に出現した様に紹介されているが、実は当時の幕府は既に1年前にこのアメリカのペリー来航については情報を得ていたのである。

◆予告された幕府の対応
 オランダからの予告を受け取ったのは、老中首座の阿部正弘であった。老中とは幕府の中の最高職で、その筆頭は事実上の執政として国政を主導する立場である。夏頃に将軍に拝謁する譜代大名にこの予告を回覧し、海岸防禦御用掛という沿岸警備を担当する立場の人物にも意見を求めたが、「条約締結はすべきではない」という回答を得たの。またオランダからの親書を受け取った長崎奉行にも意見を求めたところ、オランダは信用すべきにあらずという意見もあった事から、幕府の対応としては三浦半島の防備を強化するために、川越藩・彦根藩の兵を増員する事に留めたのである。
 またこの情報については幕府内でも奉行レベル(現在で言う政府高官にあたるか)にとどめ、来航が予測される浦賀の与力にも伝えられる事はなかった。

 ただこのオランダからの予告について阿部正弘は、外様大名である島津斉彬には年末までに口頭で伝えた様で、斉彬は翌年になって、アメリカ東インド艦隊の琉球来航以降の動静を、阿部正弘に報告し、両者は危機感を共有したというが、これは幕府の中では少数派であった。

◆ペリー来航への幕府の対応
 話を戻す。浦賀沖に来航したアメリカ東インド艦隊に対し、浦賀奉行の戸田氏栄は、艦隊旗艦のサスケハナに対して浦賀奉行の中島三郎助を派遣、ペリーの渡航の目的が、将軍に対してアメリカ合衆国大統領からの親書を渡す事が目的である事を把握した。この時、旗艦のサスケハナに乗艦するために、中島は「副奉行」という役回りを詐称したが、ペリー側では幕府内の階級が低すぎるとして親書を手渡す事を拒否、翌7月9日(嘉永6年6月4日)に、浦賀奉行の与力(補佐役)であった香山栄左衛門が浦賀奉行を詐称し乗艦、ブキャナン艦長とアダムス参謀長、またペリーの副官であったコンティ―と会見した。

 会見の席上、ペリー側の態度は変わることなく、親書は最高位の役人にしか渡さないと撥ねつけ、香山は4日間の猶予を求めたが、ペリー側では3日間を猶予とし、もし相当の身分の役人を派遣しないのであれば、江戸湾を北上し、兵を率いて上陸、将軍に直接親書を手渡しする事になると恫喝してきたのである。またそればかりではなく、艦隊の各艦から1隻づつ武装した小型艇を出し、浦賀湾内を測定しはじめた。この行動は幕府側に威圧を与えるという効果をもたらした。これに対して浦賀奉行は抗議をしたが、ペリー側では鎖国体制下での不平等な国際関係(当時はオランダを主として交易していた)を排除する考えからだと述べ、案にアメリカは幕府に対して不平等な関係を強いる考えがある事を示したと言われている。

 7月11日(嘉永6年6月6日)にペリーが測量艦艇を江戸湾内に20キロほど侵入させた。その護衛にはミシシッピ号を付け、恫喝する様な行動に出た。これら一連の行動は、幕府に対して大きな衝撃を与えた。この時、第12代将軍である徳川家慶は病床に伏せており、国家の重大事を決断できる状態ではなかった。老中首座にあった阿部正弘は「国書を受け取るぐらいであれば、仕方がない」との結論に達し、7月12日(嘉永6年6月7日)に浦賀奉行に対して親書を受領し、返事はオランダ商館館長を通じて伝達する旨を訓令し、対応にあたらせたのである。

(続く)

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【私の近代史観】幕末から明治維新①

2020年09月12日 16時03分04秒 | 日本の歴史
 前回までの記事では、日本国憲法について少し私見をまとめてみた。今回は日本という国が、近代史の中でどの様な事に遭遇し、どの様な立ち居振る舞いをしてきたのかを見ていく。ただし歴史というのは幾つもある事実から、その本筋である真実を読み取るというものだと思うが、これが中々難しいのである。学校教育の中では、教科書をもとに、今の日本が考えている歴史観を教えられえる。しかし歴史の真実を理解するためには、まず自分でその事実を学び、思索する事がとても重要と私は考えている。

 また日本の近代史観を考える上で、理解しなければならない事がある。それは欧米の歴史についてである。日本が近代国家を意識したのは幕末の事で、歴史的には江戸湾(現在の東京湾)にアメリカの東インド艦隊を率いたペリーが来航した時(黒船騒動)からと言われているが、この当時のアジアは欧米列強の植民地化が進んでいた時代であった。ではそもそも何故、欧米はアジアに進出したのか、その点について歴史を振り返ってみる。



◆大航海時代
 15世紀から17世紀、ヨーロッパ人によってインド航路や新大陸到達などによって、世界の一体化が進んだ時代を「大航海時代」と世界史の中で呼ばれている。
 大航海時代は、まずポルトガルによるアフリカ西海岸進出に始まり、インド航路開拓に成功し、それに対抗したスペインが、思いがけずアメリカ大陸を発見、さらにマゼランの世界周航で航路開拓はピークに達したと言われている。この大航海時代とは、ポルトガルやスペインの最下層の人であっても、航路を開拓できれば億万長者になる事も可能な時代であった。その事から、多くの人達が帆船に乗り込み、航路開拓の為に大海原へと漕ぎ出したと言う。最近話題となった映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」などはその時代の映画であり、その活発な時代をよく表現していた映画だろう。
 そして17世紀以降はオランダ、イギリス、フランスが主権国家体制を完成させ、これら発見された航路に乗って勢力圏拡大に乗り出す様になり、17世紀以降は資本主義、さらに19世紀からは帝国主義となり、始めは直接的な領土的支配を強めていき、これらの国は激しく争いながら植民地支配を強めて行った時代なのである。

 16世紀に日本に火縄銃が伝来したのも、またキリスト教が伝播してきたのも、この大航海時代というのが背景にあった。しかし歴史ではその後、日本では徳川幕府時代による「鎖国政策」により海外との接触を断っていたと教えられている。ただしこれは実は少し違っていて、江戸幕府は鎖国をしていない。正確には海外との交易は江戸幕府がほぼ独占しており、他の藩が海外との交易を直接する事を原則禁じていたというのが正確な事だと言われている。

 現に江戸幕府では、長崎の出島を窓口として中国やオランダとは交易を行っており、その他にも朝鮮の間には対馬、琉球との間には薩摩、また松前にも交易窓口があり、幕末までの期間、これら四か所をを通じて海外との交易と、世界情勢を情報として得ていたのである。

 恐らく江戸幕府としては、国内統制の一環として海外との交易によって、各藩が資金を蓄え、情報を得て力を付ける事を警戒していた事もあって、この様な政策を取っていたのではないだろうか。その事から海外との交易などを「御禁制」とするという政策を取ったと思われる。

 ちなみに、いま学校で教えられる「鎖国」という言葉は、長崎に在住していたオランダの通訳が使用したのが始めと言われている。

◆ペリー来航
 ペリーが浦賀に来航する背景には何があったのか、少し触れておきたい。
 イギリスで産業革命がおこり、欧米の工場やオフィスでは夜遅くまで稼働する様になり、その工場の潤滑油やランプの灯火の油として、おもにマッコウクジラの鯨油を使っていた。この需要を満たすため欧米各国では世界中の海で捕鯨活動を盛んに行ってた。日本沿岸は「ジャパン・グラウンド」と呼ばれる伊豆諸島や小笠原諸島が好漁場として知られていた。当時の捕鯨船では船上で鯨油の抽出をしていたが、その為に大量の薪と水が必要となり、長期航海用の食糧や薪、そして水を補給できる拠点が求められていた。これはアメリカも例外では無かった。

 アメリカは1846年にイギリスとの交渉で、オレゴンの南半分を領土としており、同じく1846年には米墨戦争(メキシコとの戦争)によりカリフォルニアを獲得、太平洋へ接する事が出来て太平洋国家となった。この事からアメリカは巨大市場として清国との貿易開拓を国家的な目標と定めたのである。
 アメリカ西海岸から清国に至る最短ルートは、西海岸から北上し、アリューシャン列島、千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海に至るというもので、この為に津軽海峡に面した松前に補給拠点を置く事を企図したと言われている。

 1851年5月29日、アメリカ大統領のフィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶ事を目指し、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使として任務を与え1851年6月8日に極東に向けて、蒸気船フリゲート艦「サスケハナ」を出航させた。しかしオーリックばサスケハナ艦長とトラブルを起こして解任、後任として新たに代将マシュー・カルブレーズ・ペリーが遣日特使として任命されたのである。

 ペリーは1852年11月24日、蒸気フリゲート艦「ミシシッピ号」の乗り込み1隻でノーフォーク港を出港、香港と上海で艦隊の他の艦と合流すべく大西洋を渡り始めたのである。そして翌年5月4日に上海に到着後、艦隊旗艦を「サスケハナ」に移して艦隊を整え、まずは琉球王国の那覇に向い、5月26日に到着した。その後ペリーは小笠原方面を探検し、小笠原諸島の領有権を宣言したが、これにはイギリスからの抗議を受けただけではなく、ロシア船舶も南進してきた事から有耶無耶となってしまった。

 その後ペリー率いるアメリカの東インド艦隊は1853年7月8日に、江戸湾(現在の東京湾)の浦賀沖に到着したのであった。

(続く)

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