自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

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2022年01月01日 16時28分13秒 | 思う事
 はじめまして。斉藤単己と申します。
 「単己」とは法華経の従地涌出品第十五の以下の言葉を元にしています。

 各六万恒河沙等の眷属を将いたり。
 況んや五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。
 (中略)
 況んや復単己にして遠離の行を楽えるをや。

 私は日蓮系の某巨大宗教団体で若い頃い活動をしていました。しかし四十代になってから、そこで教えられてきた事に疑問を持ち、自分なりに様々な事を調べ、学び、思考を続けてきたのです。
 結論から言えば、そこで学んだ事、教えられてきた事は、大きな「デタラメ」であり、組織のために「我田引用」した内容である事を理解しました。
 しかし残念な事ですが、そこの結論に達するまで十年以上の時間を要してしまったのです。

 この事は何もその某巨大教団に限った事ではありません。
 恐らく日蓮を語る教団の教えの多くには、同じ問題を持ち合わせています。

 仏教の開祖である釈尊は、弟子で「多聞第一」と言われたアーナンダに以下の言葉を語ったといます。

「アーナンダよ。このようにして、修行僧は自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
 アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自己を灯明とし。自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼らは私の修行僧として最高の境地にあるであろう、-誰でも学ぼうと望む人々はー。」(二十六)(大パリニッバーナ経』二)

 人は本来、心の自由を保障されるべきなのです。そして仏教では「自燈明・法燈明」という言葉で、その大事さについて語られています。

 しかし日蓮教団に属する人達の多くは、この現実に気付く事はありません。多くは「自分の意志」と錯覚させられ、それぞれの宗教団体に従えられているのが現実であると思うのです。
 またこの事は、何も日蓮教団に限った事ではなく、世の中にある多くの宗教団体にも内在する問題であり、その根本を辿れば人間のDNA(遺伝子)レベルにそういった弱みを組み込まれているのではないかとも思えるのです。

 このブログでは、私自身がその結論に至った事について、自分自身の思考の軌跡をまとめてみたいと思っています。
 お時間のある方は、お付き合いいただければ幸いです。

 私のメールアドレスは以下に記します。
 tango_saito@yahoo.co.jp
 
 このブログへのご意見などがあれば、メールを下さい。
 極力回答するように努力します。


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バイデン大統領就任式を見て(Lacerta File)

2021年01月22日 12時34分08秒 | The Lacerta File
 アメリカではバイデン氏が大統領に就任しました。ネットの中では年末からトランプ前大統領とバイデン大統領の話題で様々な事が出ていました。今年の1月6日に発生した連邦議会襲撃事件を見た時には、いまアメリカで何か起きているのか、とても気になりましたので、ネットで言われている様に、大統領就任式前後で何かが起きるのではないかと思ったりもしましたが、とりあえず大統領就任式は大きな混乱もなく終わりました。



 私は二十世紀から今世紀まで、世界的には「アメリカ時代」と理解しています。パックスアメリカーナと言っても良いでしょう。民主主義の旗頭であり、世界で最大の軍事力を持ち、大量生産と大量消費という事を、人類社会の中に浸透させたのは、まぎれもなくアメリカという国家でした。

 しかし近年になり、この世界を牽引してきたアメリカには陰りが見えました。そしてそれが具体的な姿として現れたのは、やはりトランプ大統領とその政権という事だったのではないでしょうか。

 だから今回、バイデン氏は就任式で自らの演説の中で「Unity(団結)」という言葉を多用したと言います。これはトランプ大統領により、アメリカという国の分断はかなり深まっていたという事に他ならないでしょう。

 分断されたアメリカを「団結」させるという事で、バイデン氏が大統領になりました。しかし一方で、バイデン氏が先月、中南米からの難民申請について「人道的で秩序ある対応を行う」と述べた事から、中央アメリカから”移民キャラバン”が北上していると言います。いま新型コロナ禍により、途中の各国通過は至難でもあるので、果たしてアメリカ国境には何人辿り着けるのか、そこは分かりませんが、さっそく混乱の兆しも見えたりしています。

 またそれだけではありません。台湾を中心にして、アメリカと中国のにらみ合いも、今後緊張が高まるかもしれません。恐らくこの動きには、中国共産党というよりも、世界中にいる華僑の思惑も絡むという論説もありますが、どうも世界というのは変化に向けて動きだしている事は変わりない様に思えるのです。

 ちょっと話の軸を変えますが、「The Lacerta File」には以下の記述がありました。

「この大きな世界変動の理由は、自然災害(科学者が誤って信じているような小惑星の衝突)ではなく、主に惑星の軌道と高層大気で起こった 2 つの敵対的な異星人グループ間の戦争でした。
初期の私たちの限られた知識によると、この世界大戦は地球上で最初に起きたエイリアン戦争でしたが、それは間違いなく最後ではありませんでした(そして将来の戦争はすぐに来ますが、エイリアンのグループ間の「冷戦」-あなたがそれを呼ぶように- はあなたの惑星で過去 73 年以来進行中なのです。)」

 Lacerta Fileによると、地球上で太平洋戦争以降、アメリカ政府を中心にして、エイリアングループの間で「冷戦中」だというのです。まあ突飛な話であり、「何を言っているのか?お前は!」と言われる事を承知で書いています。

 そしてもし「戦争」が始まると、この世界はどのようになるのか、という話についても書かれています。

「これは答えるのが難しいです。 何故ならそれは敵の種族と彼らの戦術に依存します。「戦争」は、人間が「戦争」という言葉で意味する原始的なものであるとは限りません。さまざまなレベルで戦うことがあります。
彼らが持っている可能性の 1 つは、政治指導者への影響による社会システムの「破壊」であり、もう 1つは、地震や火山噴火、または自然に見えるその他の災害(気象災害を含む)を引き起こす事ができる高度な兵器システムの使用です。」

 私達は「戦争」と聞き、しかもそこに「エイリアン」なんて単語が入ると、例えば「インディペンデンスディ」の様な、派手なドンパチを想像してしまいますが、Lacertaによれば、そこは「エイリアン側の戦術による」としながら、社会的な大混乱や自然災害という形をとって現れる事もあるというのです。

 私はツィッターの方では「歴史の幕間の人」と書きますが、恐らく今の人類社会は、表向きには政治的な動き(政治ショー)が出ますが、それらはショー(見世物)なので、実際には筋書きを描いている人がいると考えています。しかしそれが単純に、よく都市伝説に出てくる「イルミナティ」とか「フリーメイソン」と言った秘密結社まがいのものではなく、もっと人類全体の利権を中心とした複数の集団の様にも考えています。複数の集団だからこそ、綱引きも起こり、よくいう「アングロサクソンミッション」の様な予言めいた都市伝説が出て来ては、一部は予言に合致した動きが出ながら、大枠の動きが外れてしまったりしているのではないでしょうか。

 そしてその複数の集団の中には、異星人という地球外に起源をもつ種族というのも介在しているのではないかと思うのです。まあ、このあたりは別の場に、どうしてそこまで考えるのかについて書かせてもらいますが、そんな事を「個人的な妄想」の中で考えてしまうのです。

 さてさて、人類はこの二十一世紀以降にどの様な世界へと動いていくのでしょうか。少なくとも過去の延長線上にある事だけでは済まない様な気もするんですけどね。

 ちょっとした妄想話でした。

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宿業について

2021年01月21日 11時24分14秒 | 日蓮仏法再考
 今日、朝に近所を歩いていたら、近所の小川の川面が凍ってました。やはり寒いんですね。一月も半ばを過ぎましたが、まだまだ冷え込む日が続きそうです。体調管理には十分に気を付けて、日々過ごして行きたいものですね。

 さて、今回は「宿業」という事について、書いてみたいと思います。この宿業とは「宿る業」と書き、人の中に宿る過去の行いの記憶という事と言えるでしょう。ここで言う過去とは、何も今生きてきた時間だけを指すわけではなく、過去世という、いわゆる「前世」からの行いも入ると言われています。
 また仏教では「業因業果」という事で、過去の自分の行いの結果が、今の自分に降りかかるとも考えていて、その行いの因を「業」と呼んでいます。先に記憶という言葉を使いましたが、業というのは行った行為の事で、その事から宿る業という事から「宿業」という単語もあるのでしょう。



 日蓮はこの事について、以下の様に述べています。

「何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い」
(佐渡御書)

 ここでは烏の色が黒いのも、鷺の色が白いのも、先業(宿業)によると述べています。
 この宿業という考え方は仏教独自の考え方かと言うと、そうではなく、これはそもそもバラモン教(ヒンドゥー教)の考え方から来ているのです。よく創価学会では「因果の法則」とか「生命の法則」なんて呼んでいて、如何にも日蓮大聖人仏法の教えという様な事を言いますが、実態としては日本に伝来した仏教にあるこの様な業因業果論の大本は、そもそもインドにあったバラモン教から来ている事を、まずは理解すべきです。

 インドで現在も残っている「カースト制度」の根っこにも、この宿業論があって、そこから派生した制度です。宿業あるものは、生まれ変わるごとに修行を重ねひとつひとつ、その宿業を消していかないといけない、その様に考えられており、現在貧しい人、卑しい人は過去にその様な行いをしてきた報いであると考えているのです。

 では果たして仏教を説いた釈迦は、そんな事を認めていたのでしょうか。

 大乗仏教でも「暦劫修行」という事で、長きに渡り様々な仏のもとで修行に励み、そこで徳を積み業を消し去る事で成仏するという様な思想があります。また人は過去世に盗みをすれば、今世では貧困の家に生まれ、過去世で謗法を行えば、今世では邪見の家に生まれる。これはまさにバラモン教でいう「輪廻転生」の概念そのままではないでしょうか。

 しかし法華経の如来寿量品では、人は元来から仏の心を持ち、その仏からある意味で派生した存在である事を明かしました。そこから考えると、すでに宿業なんていう概念は壊されてしまったと言っても良いでしょう。

 久遠実成の釈尊は、仏の姿として現れもしますが、その仏のもとで修行をする衆生も、仏同様に久遠実成の釈尊だという思想なのですから、そこに「過去世の宿業」とか、業因業果的な思想は既にありません。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
(開目抄上)

 以前にも紹介しましたが、始成正覚(この世界で釈迦は悟りを開いて仏になった)という概念を否定した事で、四教(法華経以外の教え)の成仏という概念は壊され、この従来の成仏という概念を壊すという事は、四教で説く成仏の為の修行や考え方も壊したと、この開目抄で日蓮は述べています。

 つまり法華経の観点から見れば、宿業論なんて言うのは「仮(方便)の教え」程度のものであり、釈迦の本心ではないという事にもなるのではないでしょうか。

 そして日蓮も法華経の根本義である「久遠実成」を理解していた事から、実のところ「宿業論」というのは、本心では既に認めていなかったとみる事が、当然かと思います。しかしそんな事を当時、仏教を篤く信じていた人達に語っても、なかなか理解できない事や、人々を導くために、あえて語っていたという風に理解するのが妥当だと思うのです。

 でも御書を「御金言」なんて呼んで、それこそ背景や大意を理解せず、それぞれが「真実の言葉」なんて鵜呑みに解釈する人達には、この事は理解できないし、否定される内容なのかもしれませんね。

 ちなみに欧米で研究が進んでいる「臨死体験学」の中では、仏教のカルマ(業)というのは、この世界に生まれ、様々な事を経験するために、あえて自分で選択してきたものであると言われています。これは仏教の中にある「願兼於業」という考え方に近しいものです。仏教の「願兼於業」とは、本来、悩みや苦しみの無い菩薩が、この娑婆世界で人々を導き、法を説くために、あえて業を作って生まれてくると言う概念です。

 私は業という概念を認めるにしても、こちらの方がしっくりくるんですけどね。

 思うに「宿業」という言葉は否定されるべき概念だと思います。人はこの宿業とか業という言葉により、ありもしない過去世に縛られ、この人生をも自縄自縛にしてしまいます。そうではなく、自分の人生で巡りあう様々な困難とは、過去世の悪い行いが原因ではなく、自分自身で選択してくた苦しみであると理解した方が、人生、より価値的に生きて行けるのではないでしょうか。

 そんな苦難でも、生きてさえいれば解決できる。そして解決した経験は、自分の人生を飾る宝物になる。

 皆さんはどの様に思いますか?


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法華経にある広宣流布の意義

2021年01月19日 09時17分55秒 | 日蓮仏法再考
 今日も冷え込む朝でした。普段は家籠もりで仕事をしていますが、今日は客先での作業があり、通勤電車に乗ってます。再度の緊急事態宣言の最中ですが、仕事は止められないので、必要最低限の行動で取り組んでいます。

 しかし飲食業を始め、多く人達は経済活動が制限され、苦悩に喘いでいます。ほんとに今の人類社会は新型コロナに過剰反応していますよね。確かに新型コロナウイルス疾患は重篤化する可能性もありますが、しっかりと体調管理して、接触関係に気を配れば、まだ感染をコントロール出来ると思うのです。しかし今の世の中、過剰反応しては居ますが正確な情報を得られていない人が多いのかもしれません。そういう意味で私は「社会のサイトカインストーム」だと感じているのです。

 まあサバイバルな時代になってしまったと言うべきかもしれません。

 さて、今回の記事は法華経にある「広宣流布」の意義について少し思う事を書いてみます。

 日蓮正宗が考えていた広宣流布観とは、三大秘法禀承事という御書にある国になる事でした。

「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」

 ここでは戒壇(大本尊を安置して修行する場所)を建立する条件について述べているのです。
 まず始めに「王法仏法に冥じ」とある様に、信じる教えの中に国の法律の考え方が交じり合い、「仏法王法に合して」と仏法と法律が一体となった状況になる事だと原文では読み取れてしまいます。しかしこれでは仏法自体が国の法律になる様に思えてしまい、結果として「王仏顕合」となってしまいます。それこそイラン等の様にイスラム国家がイスラム教を国の法律として位置づけしていると同じ様な事になってしまいます。それではあからさまでイカンと思ったのかも知れませんね、宗門の歴史のどこかにいた人達は。その事もあってか日蓮正宗ではこの部分を「仏法王法に冥じ」と国の法律の基本的な考え方に仏法があり、「王法仏法に合して」と法律の精神と仏法の精神が同じ様な状態になる、いわゆる「王仏冥合」という言葉を造り出しました。

 そしてそんな社会となった時、「有徳王と覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と、仏法説話の有徳王と覚徳比丘にある状況になると言うのです。

 ちなみに有徳王と覚徳比丘の説話では、国中が誹謗の人達で充満する中、正しい仏法を修行していた覚徳比丘が迫害をされる訳です。するとその国の有徳王という王様が、兵士を連れて覚徳比丘を守るために大戦をして、最後には王様は全身に深手を負って亡くなってしまうという説話です。変ですね、社会に仏法が根を張る時代なのに、国中に謗法の輩が充満して、正しい教えを修行している僧侶が殺されそうになる状況となり、それを王様が武力を持って守る状況になるというのですから、今一つ辻褄が合わなくなってしまいます。

 顕正会では、この事を「護法の精神が漲った状況」と、また少し変な解釈をしていましたが、恐らく宗門としてもその様に考えていたのでしょう。
 そしてそんな社会情勢になってから、勅宣(天皇の詔)と御教書(時の幕府からの命令書)を持って、一番良い場所に戒壇は建立されるのだと解釈していたのです。

 だから初代牧口会長や、二代目戸田会長も「国立戒壇」を目指して、まずは人を増やす事に専念したんでしょう。そして自分達の組織の人数が増えれば、日本の社会はこの三大秘法抄にある通りに平和で安穏な国になると信じていたのです。

 この事は「創価教育学会本部関係者の治安維持法違反事件検挙」という表題の尋問調書の中で、滔々と牧口会長は主張をしていた事が記録されています。ちなみにこの尋問調書は「特高月報」という公文書に記載されているので、偽書ではありません。れっきとした公式文書です。

 しかし現実は全く違いましたね。一昔前には創価学会は公称800万世帯で、得票数は900万票近くの勢力まで行きましたが、その結果として出来上がったのが今の日本社会です。創価学会の幹部連中は戦時中の大本営発表よろしく、世界に称賛され拡大した創価学会、そして陸続と人材が排出される創価学会をアピールしてますが、現在では青年部も絶滅危惧種の様な希少な存在となり、組織の末端は老人会の寄り合いよろしくの状態。幹部は役職を複数兼任して、皆が組織活動で疲弊している状況です。

 何が間違えたのか。少し心ある人達は考えるでしょう。
 私の先輩で学会活動から抜けた人達は一様に言います。「人間味がなくなった」「官僚主義が横行した」「池田先生という原点を見失った」。様々な意見がありますが、私が思うに、有り体に言えばそもそもの思想が間違えていたのです。そしてその間違えた思想を背景にして醸成された組織文化が狂っているから、こんな組織になってしまったのです。

 そしてそんな狂った組織が熱烈に応援して国会議員を送り出し、その議員達も日本の権力層の補完勢力となった結果が、今の日本社会なのです。

 こんな事、少し考えたら判るではありませんか。
 では何を一体間違えたのか。

 それを理解するには、そもそも法華経の「広宣流布」とはどういった考えなのか、そこを確認する必要があります。ここからは私自身が解釈した内容について少し書いてみます。

 まず法華経は何を説いたのか、それは「久遠実成」という事を明かした事につきると私は考えています。これについては前回の記事にも書きましたが、それは成仏という従来の考え方、また仏の存在の考え方の大転換です。そして人は差別分断という事から、相互理解と多様性理解が本筋である事を明かしました。

 悩み法を求め修行する人も、教化する仏も共に「久遠実成の釈迦」の姿という事は、その事を指し示した事でしょう。

 だから法華経を弘めるというのは、この「久遠実成」で明かされた仏と私達の関係性を弘めるという事だと私は理解しました。(まあ我見と言われても反論はしません。確かに私見という「我見」の論理です)

 そして法華経の薬王菩薩本事品第二十三で宿王華菩薩という、無名の菩薩に対して釈迦は語り掛けているのです。

「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。
 我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、
 断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を
 得せしむることなかれ。
 宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。」

 ここがとても重要な事だと思うのです。広宣流布という言葉を釈迦は「久遠の弟子」である地涌の菩薩には語っていません。あくまでも会座に居た無名の菩薩に対して語り掛けたのです。

 そしてここで「広宣流布して断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。」とある様に、人々の間でこの法華経の思想が途切れ、その結果、人々を分断し食い荒らす魔民や悪鬼などに、動き回る様な隙を与えてはならないと述べています。

 つまり常に人々の中に啓蒙し、この法華経の思想が絶えない様にしなければならないと宿王華菩薩に語り掛けているのです。

 釈迦は地涌の菩薩には、滅後の弘教を託しました。これはある意味で仏教の本筋を連綿と受け継ぐ事を意味しているのかもしれませんが、広宣流布とはそんな地涌の菩薩が行うのではなく、その傍流とも言える人達が行う事だとも考えられませんか?

 傍流の人達が語らう為には、仏教の教えというのは常に時代に即した教えでなくてはいけません。そして即した教えを説くのは地涌の菩薩の役割であり、その事と連動して、その地涌の菩薩の周囲に、法華経の精神を常に啓蒙しつづける人達が出現する事が広宣流布なのではないかと、私は考えているのです。

 そういった動きとなれば、社会の中では分断とか差別という、人々を苦しめる動きは起こらなくなるのかもしれません。

 いかがでしょうか。
 これは私の個人的な私見ですが、少なくとも日蓮正宗の考えていた事、そしてそれを受けて活動を展開してきた創価学会の動きというのは、そもそも法華経の本義から外れているのではないでしょうか。

 単なる「人集め」とか「権力層への布教」、ましてや日蓮の文字曼荼羅のばら撒きが広宣流布では無いのではありませんか?

 日蓮とか仏法とか語る前に、そもそも論を見直すときに来ていると、私は常に考えているのですが、未だにそこまで辿り着いていない事が残念でなりません。

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成仏に関する一考察だよ

2021年01月18日 13時34分43秒 | 思う事
 今日も冷え込む一日ですね。テレワークはコタツでやってますが、背中なんか冷えて寒いんですよね。でも富士山には雪が少ないとも聞いてます。やはり何かが狂っている様にも思えてしまうんですが、如何でしょうか。

 さて今日は、成仏という事について少し取り上げて見たいと思います。創価学会にしても日蓮正宗関係者にしても、未だに成仏という事には独特の拘りがある様に、私は感じています。創価学会では成仏というよりも「境涯革命」という言葉になっているんですかね。その事について書いてみます。


 仏教では仏という理想の姿を目指した宗教です。ただしこの仏という姿には、私は3種類あるのかなと考えています。

 一つは初期仏教(原始仏教)にある、インド応誕のゴーダマ・シッタールダー(釈尊)の姿です。三惑を断じて開悟し、悟りを得たという姿です。これは私見なのですが、この釈迦の姿とは灰身滅智して三惑已断という姿なので、阿羅漢果の先にある姿に見えます。ある意味でとても人間的な姿にも思えるのです。
 二つ目は大乗仏教に説かれる仏達です。三千大千世界(全宇宙)に遍満する仏世界に存在すると云われ、何やら人間離れしたような存在で、どちらかというと宇宙のあちらこちらに損座する「スーパーサイヤ人」という感じで、完璧な存在としての「仏様」です。いま多くの日本人が認識している救済者としての仏とは、この大乗仏教の仏様です。
 三つ目は法華経如来寿量品で説かれる久遠実成の釈尊の仏様です。こちらは全ての存在の根源的な存在としての仏であり、先の二つの仏を包含するものと思えます。

 この事から、成仏(仏に成る)と言っても、どの仏になるのか。それぞれの話がこの言葉にはあるので、それぞれがテンデンバラバラな話になったりしています。そしてこれが仏教をして目的とする成仏という事の具体性に欠けると言わしめていると思うのです。

 初期仏教(原始仏教)の成仏は灰身滅智なので、ひたすら煩悩や執着から離れる事を目指し、人々は出家して苦悩の本質を学び修行に励みます。東南アジア方面の国々に見える南伝仏教の姿ですね。
 大乗仏教の仏とは、完璧な姿の仏の説く教えを学び、人々は菩薩の行動を取る中で、それそれが完璧な姿の仏を目指し、修行に励みますが、歴行修行(輪廻転生を繰り返す中の修行)を伴う様に見えたりします。
 法華経如来寿量品の久遠実成の釈尊は、先の二つとは異なり、人の心の奥底(根源)は仏であり、その仏とは大乗仏教にある完璧な存在だと言います。この事から「本覚思想」という考え方も出て来て、修行をしなくてもありのまま私達は仏なんだと言う考え方や、創価学会では人間とは仏を内在する尊極な存在という事から、人間主義を展開しています。

 まあ本来、仏教徒の目指す姿は仏なのですが、人間とは「聖(ひじり)」を求め、そこに救済者を見てしまうので、いつの間にか仏教の仏も目指すべき姿ではなく救済者となり、人々は仏様におすがりして救ってもらうという考え方になっています。

 創価学会や日蓮正宗でも「御本尊様おすがり信仰」となっていて、そこからおすがりする日蓮の文字曼荼羅に対しても「本物」だとか「偽物」だという様な議論も出てきたのではないでしょうか。

 因みに日本社会に未だ広く根付いている「死んだ人=仏様」という、本来の仏教には無い考え方を根付かせたのは、やはり日本仏教界が根付かせた葬式仏教だと揶揄されてますが、そこに追う責任は大きいなと考えています。先で説明した仏教内にある「仏」の存在の多様性と相まって、この考え方も入り込んで、余計に解りづらい事になっていますよね。

 私は「成仏」と言うのは「個々人の自覚」による事かなと考えています。

 私も創価学会で教わったのは、日蓮の文字曼荼羅を「御本尊様」と呼び、そこに対するおすがり信仰でした。自分の抱える悩みや苦しみを解決する為に、長時間、お題目を唱えたり、「信力・行力で仏力・法力」なんて云う学会指導を真に受けて、学会活動に身を粉にして取り組んできました。まあ幾つかの願いは叶いもしましたが、この年齢になって思った事は、人生の艱難辛苦や悩み事には、それそれにしっかりとした意味があり、そこの経験で得られる事の方が、叶った願い事よりも私の人生の宝になっています。

 そういう事から考えると、しっかりと自分の存在の意味、そしてそれに裏付けされた自信(自分を信じる心)を持つ事の方が、遥かに意味があると感じています。

 仏教のジャータカ伝説に「キサーゴータミー」という、子供を亡くした母親の話があります。ある時、釈迦の元に子供を亡くして悲しみに暮れる母親が訪れました。母親は釈迦に「子供を生き返らせて欲しい!」と念願します。すると釈迦は「分りました。それでは今までに死者を出したことの無い家から芥子の実をもらってきてください。そうすれば願いを叶えてあげましょう」と約束します。母親は釈迦のその言葉に歓喜して、町中を一軒一軒歩いて回ります。するとどの家でも身内の死という悲劇があり、その母親もその話を聞く中で、死というのは何処にでもある。自分だけが悲しみ苦しんでいるわけではないと理解したのです。そして釈迦の元を再度訪れ、仏教に帰依して修行に励んだというのです。

 この逸話には、何ら超常現象的な奇跡もなければ、子を亡くした母親が我が子の死を受け入れるだけではなく、それをきっかけにより自身の心と対峙して理解しようとした姿に変容した事が書かれていました。私達が仏教を学び、成仏しようとする目的の一端が、よく現されている物語だと私は思うのです。

 何も今の自分の境涯が変わるとか、変革するとか、ましてや金色世界を垣間見たなんてのが成仏だとは、私は思わないのです。
 むしろそんな幻想を抱かせて、一部の宗教貴族の為に自分の人生を捧げてしまう事は、大きな問題だと思います。

 この「成仏」という言葉は、良くよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。


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