自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

「死」は悪い事なのか

2020年01月07日 21時22分10秒 | DEATHの読後感
 「DEATHー死とは何か」という本を、未だチマチマと読み続けています。でもこの本は、内容的に「死」という実像に迫るというよりも、「死」という文字を撫で回している感がどうも否めません。まだ全体の三分の一程なので、これから新たな展開があるのかもしれませんが、どうも今ひとつ面白みに掛ける本だという感じがしています。

 この本で、いま読んでいる処に「死はいつの時点で、私にとって悪いのか」と言う言葉のがありましたが、この事について少し今の段階で私が考えている事を書いてみます。

◆「死」とは悪なのか
 以前にあの「失楽園」で一世を風靡した小説家、渡辺淳一氏のエッセイを読んだ事がありました。渡辺淳一氏は既に故人ですが北海道大学医学部講師でれっきとした臨床医(整形外科が専門)でした。彼は若い頃に自分が何れ死んで、この世界から居なくなるという事実を認識したとき、恐怖で夜も眠れなかったと言います。
 人はこの世界に生まれ落ち、立ち歩きを覚えてからは、常に前を向き手を伸ばし、様々なものを求め、得ていきます。それはお菓子であったり玩具であったり、洋服や車、その他様々なものを求めて行きます。もの以外にも友人や家族を得て、人によっては地位や名誉をもこの世界で生きていく中で得ていきます。また人に依っては技能を身に着け、体も成長する中で様々な能力を身に着けていくでしょう。

 「死」とはこの世界で得たこれらの物を一切合切失う事です。そればかりてはなく、この世界にある自分という存在自体、消えてしまうという事なのてす。仏教では三途の川の岸辺にいる「奪衣婆(だつえば)」として、こういう事を表現していますが、これを考える時、やはり「死」というのは悪と捉え、恐れ慄くのは自明の理であると言えます。

 人の心には「執着」というモノが常にあります。自分の持つものに対する執着、これは物質的・肉体的・精神的に持つものへの執着を指します。また家族や友人との人間的なつながりへの執着もありますし、一番の根源的なものに自己への執着があります。しかしいくら執着しようとも、「死」は突然やってきては無情にもそれら全てを剥がしにかかり、人はそれに抗することは出来ないのです。

 「DEATHー死とは何か」という本の中で、著者であるシェリー・ケーガン氏は、「死」という事を微に入り際に入り語っていますが、この一点を持っても、人にとって「死」とは悪であり、最大の悲劇にしか感じないでしょう。

◆仏教における死
 仏教でもこの「死」という事については、様々な観点で論じられています。残念な事は、いま日本に存在する仏教では形骸化が著しく、本来、こういった問題に対しては指導的な思想にならなければいけないものが、仏教関係者でも現代の言葉で平易に語る人物は極めて少ないと思います。「葬式仏教」と揶揄されるのも、僧形をした人の中で、その様な人材が社会に出ていない事によると私は感じています。

 創価学会に於いては、過去に様々な対談集(池田会長が実際に対談したのかどうかは脇に置いておきます)や教学研究という冊子で、こういう問題について様々な観点で論じていた時期もありました。しかし昨今では選挙や自分達の機関紙の新聞拡販しか興味が無くなったのでしょうか、その様な論陣を張る事もありません。過去に池田会長はハーバード大学で「二十一世紀と仏教」と銘打ち、「生も歓喜、死も歓喜」という言葉を語ったことがあります。要は仏教を基本とした有意義な人生を生き抜けば、死は悲しみではなく生き抜いたという歓喜に溢れるものでもある、という様な内用であったかと思います。

 確かにこの人生を生ききる事で、満足した心を得られれば、死というのは例えば壮大なドラマのエンディングの様な歓喜の姿を見せるのかもしれません。これはこれで人々の中に、なる程、共感を広げられる語り口だと思います。しかしすべての人達が、人生をその様なドラマチックなエンディングを迎えられる生き方が出来るのかと言えば、実はそんな簡単な事ではありません。

 因みに法華経では以下の言葉があります。
 「方便現涅槃」
 これは衆生に対して仏を恋慕させる心を起こさせる為に、方便として仏は涅槃「死」の姿を現じるという事です。ただここで言う「仏」とは、久遠実成の釈迦であり、仏教始祖の釈迦ではありません。久遠実成の釈迦とは、仏教の始祖の釈迦でもあり、その釈迦が過去世に教えを受けた多くの仏菩薩の本地でもある釈迦なのです。それに恋慕を起こさせるというのは、一体どの様な意義があるのでしょうか。
 またこの久遠実成の釈迦とは、同じ法華経において「常住此説法(常に娑婆世界に住み説法教化する)」とのべ、その存在は出るとか退く(生死)するものではないと言うのです、

 先にもあげましたが、「死」というのは人に取っては極めて理不尽な出来事とも言えますが、仏教の中の法華経において、この「死」とは方便であり、それは久遠実成の仏に対する恋慕を起こさせる為だと言うのです、ここには極めて大事な示唆が含まれていると私は感じています。そしてそれは単に「永遠の生命論」というものでは無い様に思えてならないのです。

◆「死」を見つめて見えること
 この世界に生きている人たちは、誰もがもれなく「死」という出来事に直面します。そしてこの出来事に直面する事で問われるのは、実はそれぞれの「生きる事」でもあるのです。そうであれば、死とは本来、悪いものではなく、とても意味深い出来事と捉えられると思うのですが、あくまでもそれは個々の人生観に依存します。

 そうであれば今一度、自分の生き方はどうなのか。そこについて思いを馳せる必要があるのではないでしょうか。


 
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誰もが一人で死ぬという事

2019年12月09日 12時21分20秒 | DEATHの読後感
 「DEATH」の本を少しづつ読み進めています。「死の本質」について書かれている話題の書だという事で、Kindleで購入して読んでいますが、何か形而上の理屈が多く、正直少しがっかり感も感じています。ただまだ全体の三分の一も読んでないし、何よりも買ったのにもったいないので読み進めています。

 この中で「一人で死ぬということ」について、以下の様にありました。

(一人で死ぬ事について)だが、もちろんそれは正しくない。人は他の人がいる所で死ぬこともあるのは、誰もがよく承知している。たとえばソクラテスは友人や弟子たちの傍らでヘムロック(訳注:ドクニンジンから作った毒薬)を飲んで死んだ。だから彼は独りでは死ななかった。そして当然、知ってのとおり、友人や家族、愛する人々の見守る中で死んだ人のケースは他にいくらでもある。だから、私たちはみな独りで死ぬと言うのは、この主張の最初の解釈に基づけば、断じて正しくない。

 ここではシェリー・ケーガン氏は、多くの人が見守る中で死を迎える例は沢山あると言い、一人で死ぬという事は断じて正しくないと述べています。
 確かに死に際して、親族や身内に見守られながらの死というのはよくある話しで、だから死というのは一人で迎えないというのも一理ありますが、私が思うのは、死という心の変化に伴う通過儀礼というか、その経験は必ず一人であると思うのです。

 仏教では「死有」と呼んでいますが、そこを経験した多くの臨死体験等を確認すると、その際に、死にゆく人の周りには、その人の経験している事を共感する人が共に居たという話は聞いたことがありません。多くの臨死体験では、その先に例えば先に亡くなっている親族や友人と間見えたという様な話もありますが、やはり基本的に共感し、共にある人が居ないのであれば、それは「一人」と言う事ではないでしょうか。

 思うに死有というのは、人生の一区切りを着けるタイミングでもあり、その際には自分の人生を省みる事があると言います。自分の人生を省みて、自分の人生は果たしてどの様なものであったのか、そこはやはり一人で評価しなければならず、そういう意味でもやはり「死にゆく人は一人」という事ではないでしょうか。

◆死は絶対に「協同作業」になりえない?
 シェリー・ケーガン氏はこの本の中で、死は一人ではないという事と共に、この様な「共同作業」としての死についても語っています。
 ふと思ったのは、誕生というのは多くが母子の共同作業と言っても良いでしょう。出産というのは女性にとっては、人生をかけた大事業であり、そこには産まれて来る子供との大変な作業があると思います。では「死」という事に果たして共同作業というのはあり得るのでしょうか。

 この話を読んでいて、ふと思い出したのは、以前にNHKで難病の女性がスイスで安楽死を迎えるという事のドキュメンタリー番組をやっていました。スイスでは安楽死は合法的に認められております、ある一定の条件をクリアすれば、定められた手順(医師立会の元で薬による安楽死)で安楽死を選択する事が出来ます。このケースの場合、死という事については、希望者とその家族、そして医師との共同作業としての死と呼んでもいいかもしれません。

 ただこの共同作業をするにしても、社会が死という現実、人は必ず死にゆく存在であるという理解が大前提となるので、今の日本もそうなのですが、人類社会としても、まだまだ難しいのかもしれませんね。

 という事で、「DEATH」という本を読んだ中で、私が想った雑感でした。


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肉体的な死と人格的な死

2019年12月04日 18時17分37秒 | DEATHの読後感
 「DEATH」の本を読み耽っています。幸いな事に、私は通勤時間が長いので、その時間を読書の時間に充てる事ができるので、その分学べる時間があると言うものなんでしょう。

 著書のケーガン氏は本書の中で、死とは人格的な機能の停止をいうのか、肉体的な機能の停止を言うのか、という疑問を投げかけていました。確かに通常であれば、肉体的な死の直後に人格的な死が訪れるか、人格的な死の直後に肉体的な死が訪れるか。昔であれば大差は無かったので、こんな議論は無用であったのかもしれません。

 日蓮正宗に伝わる「臨終用心抄」に於いても、死の判断は、鼻先に半紙をかざして揺れが止まった時(呼吸停止)を死と判断したと言う様な記述がありました。当時はそれで事足りた時代であったと思います。しかし近年ではここに差分が起きる状態が発生するので、この「死の区切り」を考察する必要のある時代になりました。

◆脳死について
 近年の医療技術の進歩で、人工呼吸器が発明され、事故や脳疾患(脳梗塞などの類)で、人格的には死んでいるのですが、人工呼吸器により脳以外が生きている状態というのが存在します。これが「脳死」ですね。脳死の状態ですが、意識もなく、自発呼吸や瞳孔反射などは起こらないのですが、心臓やその他臓器の多くは生きています。この脳死については全脳死(脳全体が活動を停止した状態)と脳幹死(生物としての基本的な活動の停止、自発呼吸など)がありますが、欧米等では脳幹死を脳死としており、大脳の活動の兆候があっても「死亡」として線引きをしています。

 全ての国で脳死を「人の死」としている訳ではありませんが、多くの国で、この脳死(全脳死もしくは脳幹死)を人の死と線引きをしている状況です。

 ケーガン氏が著書の中で語っているのは、何も社会的な人の死と言う事ではなく、一人の人として、また哲学者として考察している内容を語らっていますので、ここで紹介した脳死については言及しては居ないようですが、今の人類社会としての「死」に対する考え方を理解しておく事も大事かと思いました。

◆ミリンダ王との対話
 初期仏教には「ミリンダ王との対話」というのがあります。これはアレクサンダー大王の東征により、今のアフガニスタン方面には、ギリシャ人の国家があったと言います。そこの国のミリンダ王というのがいて、その王と仏教教団の長老ナーガ・セーナ師との対話について書かれたもので、ヘレニズム文化と仏教との出会いという意味あるものだと、過去から言われているものです。そこには初期仏教仏教が、「自我」の成り立ちに関してどの様に考えていたのかについても語られていました。

 ここではミリンダ王はナーガ・セーナ師に質問します。自分とは一体どこにあるのか。心臓なのか、脳髄にあるのか、私の本体とは何処にあるものなのか。
 それに対してナーガ・セーナ師は車を例にとって回答します。王よ、もし荷車があったとして、荷車とは何を指してそう呼ぶのか。荷台なのか、取っ手なのか、それもと車輪をもって荷車と言うのだろうかと。
 すると王は答えます。それら一つひとつは部品であって、それをもって荷車とは言わないだろうと。
 ナーガ・セーナ師は答えます。王よ、一文字同じように心臓だけをとっても、手や足だけをとっても、脳髄だけをもっても、その人とは言われないのです。自我とはそれら全てか集まり、その縁の上に成り立つものなのであると。

 そしてナーガ・セーナ師は自我とはその様な、縁の上に成り立つものであって、どこか決まった臓器の上にあるものではなく、無我なのであると述べるのです。

 とまあ、概要はこの様な対話をしていました。ここでナーガ・セーナ師は「無我」と言いましたが、それが仏教の云う無我を指すとは思えません。ただ人の命とは「縁の上に起きる=縁起」ということを、ミリンダ王に指し示したのです。

 この「DEATH」という本で、ケーガン氏は「肉体的な死」と「精神的な死」について考察をしていましたが、実は私達の「生きている」という事について、仏教では「縁起」の上に成り立っていると述べ、「死」とはその縁起がとき解かれた時に訪れるものと述べています。

 まあこれも、ご参考までのお話しですけどね。


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二元論と一元論、そして三身説

2019年12月04日 11時47分59秒 | DEATHの読後感
 はたして「魂(たましい)」なるモノは有るのか、無いのか。昨日の記事でも紹介したイェール大学教授のシェリー・ケーガン氏の「DEATH」という本には、これから始める講義に先立って、この事を論じていました。

 「生きている自分」を説明する為に、この世界では様々な事を考えてきました。一元論(これは物質だけが存在するという説)、二元論(これは肉体と魂が存在する説)は常に議論の的であり、人類社会の中では、未だ決着はついていません。一元論者が言うにはこの自分をなす中心とは脳幹であり、私達の日常の生活全ては脳内で起きる電気信号と化学反応による産物であり、それが止まる事が死だと定義します。一方、二元論では魂というのがあって、肉体(物質のもの)は魂の乗り物。だから死とは肉体を脱ぎ捨てる様なものであり、魂は永遠でありそのレベルでは死等は存在しないと言います。

 この議論では、「今日の自分」と「明日の自分」の一貫性はどの様に保たれるのかという事が、話題に登りますが、一元論では脳幹組織(ここでいうのは大脳を含めた組織をそう呼ぶ)が同一であるかどうかであり、二元論では魂がどうかだと言います。シェリー教授はこの本の中では一元論を支持しながら、自己の一貫性を担保するモノとして「人格」を取り上げていました。この人格とは記憶や性格全てを含んだものとして、一元論の上で、この人格が同じであれば自分たりうると言うのです。でもこれは二元論に近いのでは無いかとも思いますが、あくまでも一元論(物質的)なモノの上に同一人格があれば同一足りうるというもので、永遠性という点については、講義の冒頭では論じていません。

 因みにこの事について、キリスト教の神学ではどうなのか。これは「父と子と精霊」という三身一体論というのがあり、自身を構成するのは三つの身に依ると聞いたことがありますが、細い事は私は神学者でもないので分かりません。

 仏教では「三身論」と言うのがあります。元々は仏(如来)とは如何なるものかという事から論じられたそうですが、初期仏教にはこの論はありませんでした。しかし大乗仏教が興り、仏とは釈迦一人ではなく、この世界には様々な仏が遍満するという思想から、この三身論は成立したと言います。

 仏教の三身論では仏は三つの身から成り立っていると説いています。

 応身:衆生の求めに応じて顕れる姿。一般的に言えば体と言っても良いでしょう。
 法身:仏の法の身、時代が経ても変わらぬ本身
 報身:衆生を利益する智慧の姿

 端的に言えば仏の本体(法身)が人々の求めに応じて出現(応身)して、法を説く(報身)と言う事です。ここで言う報身とは応身+法身となり、例えが適当かどうかはありますが、肉体=応身、魂=法身、活動する姿=報身と捉える事が出来ると思います。そして仏と衆生は一念三千でも異なる事がないのであれば、人々の一人ひとりもこの三身を持つと捉えて良いと思います。

 キリスト教もそうですが、仏教に於いてもこの三身論を説く根底にあるのは、命の永遠性という事を表現する為なのではないでしょうか。しかしこの命の永遠性と言うのは如何なるものなのか。具体的に言えば、人は死んだ後にもその心は存続するのか、しないのか。そこに焦点がある話であり、それぞれの宗教で、この事に細い解釈論かありますが、それはその後について来るものだとも思えます。

 重要な事は、私達一人ひとりは、この世界が終わった後も、心の活動は止むことが無いと理解する事ではないでしょうか。

 しかしこの死後の生命の永続性を、今の科学的に立証する事は不可能です。何故なら命や心というのは「物質」としては認知出来ないものであり、今の科学的は物質について研究してはいますが、こう言った非物質的な事には、なんら役に立たないのは明白です。

 とは言え、これをオカルティズムで語る事も非常に危険性があります。何故ならば見えない事は、得てして論理的な飛躍を許容し、人々を簡単に騙すことも可能であるからです。だからこの事を考えるには、論理的にかつ冷静な思考で語らなければなりません。 





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