自燈明・法燈明の考察

勝他の想いが強い組織

 最近は池田氏の死去により、創価学会関係の記事が多くなりました。池田氏の死去に依り、創価学会では池田氏のカリスマ性を最大限に活用しようと、池田氏の学会葬を企ててこの週末に活動家を会館に大結集させています。
 しかしながら、そんな事をやったとしても、創価学会が今世紀始めの頃のような勢いを盛り返せる訳がありません。何故ならその一つが、今の創価学会が体現している哲学性や思想性があまりにもチープになり過ぎていて、今の時代、人々の理解を得られない状況になっているならです。
 創価学会の近年の組織的弱体化は、哲学性や思想性だけに起因するものではありませんが、多くの組織的問題点や人々から忌避される行動の根っこには、どうしてもこの組織に長年にわたり染み付いた哲学性や思想性の問題は何かと絡んできています。そもそも第二代会長の戸田氏は、思想性や哲学性が間違えたから、戦前の大日本帝国は滅んだというスタンスを持っていました。だから戦後の創価学会は、折伏大行進と言って、多くの会員たちを折伏という、これまた社会的理不尽な行動に駆り立てさせた筈です。
 その創価学会が近年に至り、自教団の教義に関して軽はずみな行動ばかり行い、そんな事よりも選挙が大事と言うような事をしているのは、全く持っておかしな話だとはおもいませんか?

 さて、少し話は変わりますが、私は創価学会とは距離を置いていて、ただ親戚や家族の関係上、脱会という行動は取っていません。しかし親類や家族は創価学会で未だ活動に励んでいる人もいます。そんな家族からは組織内の人間関係の難しさ、組織運営の上で散見されるおかしな事について耳にします。個人的にはそんな事なら組織活動を止めれば良いと思うのですが、そこは宗教の持つ根深さや、地元の様々な人間関係のしがらみもあり、未だに活動家として関係を持っています。
 こういう様々な問題の根っ子の一つに、私は創価学会が持っている「勝他の思想(勝つことにこだわりを持たせる思想)」が大きく関係していると思うのです。
 例えば組織的な打ち出しをすると、それに噛み付いてくる人、意見という名の文句を言う人がいますが、これが建設的なモノであれば議論が深まり、それはそれで良いのですが、どうも噛み付くこと、文句を言う事を目的としている行動が目立ちます。端的に言えば「マウントを取りたいのかな?」という様な内容ですね。
 同じ組織で、しかも同じ地域に住む人達が、なぜこの様な互いに「マウントを取り合う言動」をしてしまうのでしょうか。こんな行動を見せられては、次の人材育成も、新たな会員も集まるわけがありませんが、当の活動家達はそんな事はあまり理解できていません。私はここに、池田氏が長年にわたり組織に植え付けてきた「勝他の思想」に原因があると感じています。

 池田氏は常々会員たちに語っていました。「正義は勝たなければならない」「勝つことが幸福なんだ」など「勝つ事」に拘ったその指導は枚挙に暇がありません。だから活動家歴が長い会員ほど、無意識のうちにそんな思想を心の奥底に刷り込まれてしまいます。

 しかしそもそも仏教という思想には、勝つ事なんて、それこそ刺し身のツマのようなものであり、そこに拘りを持つというものは無いのです。人生、生きていれば、勝つ事もあれば負ける事も当然あります。日蓮とて仏教僧ですから、基本的には同じ思想性のはずなのです。しかし日蓮の場合、国家諫曉という、ときの幕府と鎌倉仏教界に対して戦いを挑んでしまったので、どうしてもその思想性、つまり勝ち負けにこだわる言葉が顕著に出てしまっていたと思います。門下の四条金吾に対して「仏法は勝負」なんて言葉を述べたのもその一つです。しかしその御書にしても良く読めば、けして勝つ事に執着せよという言葉ではないのです。ちょっとその部分について紹介します。

「夫れ仏法は勝負を先とし、王法と申すは賞罰を本とせり」(四条金吾殿御返事)

 創価学会ではこの文のみを切り取って、仏法とは勝負(勝つ事)が大事なんだと教えます。しかしこの四条金吾に与えられた手紙を読み進んでみると「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」とあります。この手紙では仏教が日本に伝来し、物部氏と蘇我氏の諍い、また聖徳太子と物部の守屋の戦い、崇峻天皇の故事、後漢の第二の明帝の故事などを通して、仏法とは道理なので主に勝つものなのだという事を述べているのです。けして無理くり「勝つ事」が大事とか、勝って証明する事だとは述べていないのです。

 この違いを理解できますか?

 池田氏は過去に長編詩「正義の旗平和の心」の中で「正義なるが故に断じて勝たねばならない」と言っていますが、もし創価学会が正義であり、道理に基づいているのであれば、「勝たねばならない」ではなく「勝つものなんだ」という様な言葉でなくてはならないのです。しかし池田氏は勝たなければ正義は証明できないと述べ、この長編詩では会員に対して勝つ事への執着を持つ事が大事だと述べています。

 また池田氏は人生に於いて「勝利」する事が大事であり、勝利する処に三世永遠の幸福境涯があるという指導も随所でしています。しかし仏法の目的とは「幸福境涯」という、いわば天界の境涯を求めるものではありません。そもそも娑婆世界(現実世界)に於いて、勝つ人が居れば負ける人もいます。勝利で喜びを味わう人の陰には、負けて苦悩する人というのが存在します。
 確かに人生の場面によっては、勝ち取らなければならないシーンもあるかもしれませんが、それを人生の目的とは仏法では説いていませんし、そこに執着を持つ事を求めても居ないのです。この辺りについては法華経の化城喩品にも譬喩として説かれていますが、そういう事は人生の中では「化城」の様なものに過ぎないのです。
 重要な事は、この人生で勝利する事もあれば、負ける事もあります。有頂天の様に幸福爛漫な時もあれば、地獄の奥底に沈んでしまう時もあるでしょう。それら一つ一つの経験に紛動されるのではなく、それらの経験を通して、自分の心の本質を理解できるか出来ないのか。そこにこそ仏法本来の目線があると思うのです。

 この様に創価学会の組織の思想性には「勝他の想い」が強く根付いている事から、そこで長年に渡り活動をする人の中にも、そういった「勝他を求める心」、具体的には他者に対してマウントを取ろうとする様な人格が形成される人も多くなるのではないか。私はその様に感じています。

 戦後最大のカリスマと呼ばれた池田氏は亡くなりました。

 創価学会がこの先も「令法久住」としてこの世界に在り続けるのであれば、こういった根本的な事について見直しをする絶好の機会が訪れています。そんな時なのに「学会葬」なんて、過去の池田氏の虚像を見返し郷愁に耽っている時ではありませんよ。


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