自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

五老僧について➂

2020年10月08日 10時47分01秒 | 日蓮正宗・顕正会関連
 「五一相対」の元になっている文書は「五人所破抄」と「富士一跡門徒存知事」ですが、この内容について、ここから見ていきたいと思います。

◆五人所破抄
 富士宗学要集第二巻によれば、五人所破抄には「嘉暦三戊辰年七月草案す 日順」とあります。嘉暦三年(1328年)と言えば、日興師も最晩年の時です。ここにある「日順」とは重須談所(北山本門寺)の二代学頭職にあったもので、日興師から薫陶を受けた弟子でした。
 この状況を考えてみると、日興師が自身の晩年となり、六老僧の中で、師匠の日蓮に対する考え方、またその教説に対する捉え方について、他の五老僧と自分ではこの様な認識の違いがあった事を明確に語っておきたい事から、重須談所の当時の学頭であり弟子である日順に起草させたものでは無いかと思うのです。

 この五人所破抄を起草した年代には、日興師以外、六老僧で生存している者はいませんでした。長寿を全うした日昭師は5年前に亡くなり、日朗師は8年前、日向師も14年前、日頂師も11年前に亡くなっています。日持師に至っては既に国内から居なくなりかなりの年月が経過していました。

 その様な状況の中で、「五人一同に云く」と指摘しても、それはまるで欠席裁判の様な感じにしか私は感じられないのです。日頂師に至っては、晩年には日興師の在所の北山本門寺の学頭職をしていた身で、起草者の日順の先代の学頭職です。それを含めて「五人」とまとめて論じている事自体が、とても粗い事だと思うのです。

 ここで五老僧の立ち位置について再度振り返ってみたいと思います。

 まず日昭師ですが、「本化高祖年譜」によれば、日蓮より十四歳年長であったと言われています。この日昭は先の記事にも書きましたが、「法華本門円鈍戒血脈相承譜」には「権律師日昭」と記載されている事から、比叡山に修学した時代に受戒してこの僧位僧官を得たと考えられます。もし日蓮滅後に日昭が「天台沙門」を名乗るために受戒したというのであれば、当然、五人所破抄にもそこについては指摘されるはずですが、一切指摘はされていません。また師匠である日蓮もこの日昭師が「天台宗権律師」を持っている事について指摘や批難もしている箇所はありません。

 また日朗師は日昭師の甥という立場でした。その事から同門の先輩であり叔父である日昭師の影響も受けたという事は充分に考えられます。また晩年に日興師の居住した北山本門寺を訪れ、そこにある御影を見て涙したという事を考えた時、単純に「師匠の事を理解していない輩」という事で断ずる事が出来ないのではないでしょうか。

 日向師については、日蓮在世の時には報恩抄を奉じて小湊に赴き、道善房の墓前で日蓮の代わりに代読したり、「御講聞書」を著したりした事から、日蓮からの信頼も厚かったと思われます。しかし日蓮滅後に地頭の波木井氏の福士の塔建立等を黙認したという事から日興師と義絶したとありますが、ほかの四人の老僧とも不仲であった事が伝えられているのです。日蓮没時には池上におらず、墓輪番を定めた時には日向師は不在でした。また身延の初代別当となったといいますが、さりとて日興師以外の五老僧の中心となった訳ではなく、晩年はさみしい状況であった様です。

 日持師については、もともとが駿河蒲原の天台宗寺院の四十九院で日興師に師事して修学していましたが、日興師と共に四十九院を追放され日蓮の元で同門門下となりました。日蓮没後には日興師とは不仲となり、日興師が身延を離山してからまもなく行脚の旅へと出立しています。

 日頂師は元々が富木常忍の養子であり、日蓮没後には墓輪番にも参加していた様ですが、父である富木常忍から永仁元年(1295年)に勘当された後、興師の元で重須本門寺の学頭に就任しています。

 日蓮没後の門下の動きですが、日興上人・対・五老僧という縮図で捉えられていますが、それでは日蓮の時代、共に活躍した門徒などはどうだったのでしょうか。

 例えば重要な御書を頂いていた富木常忍は、自身が出家し日常と名乗り日蓮宗中山門流の祖師となりました。また四条金吾は甲斐国内船(現在の山梨県南巨摩郡南部町)の地を与えられ、そこで内船寺を建立しています。(現・日蓮宗寺院)また鎌倉の屋敷跡は、現在、収玄寺(現・日蓮宗)となっています。
日蓮が没時の場所となった池上邸の主、池上宗仲は、正応元年(1288年)、日蓮の七回忌の時に六老僧の一人、日朗師と共に日蓮の御影像を作ったと言われ、それが池上本門寺に今でも安置されています。また自身の邸宅であった場所を寄進し、それが今の池上本門寺となっています。

 ここから考えると、日蓮没後に日興師に付いた門徒は南条時光以外は少なかったのではないでしょうか。そしてそれぞれが自身の信仰心に基づいて、日蓮没後に自身の信仰を続けたと見るのが妥当だと思います。

・天台沙門の名乗りについて
 五人所破抄では、日蓮の立ち位置にういて、日興師以外の五老僧は「天台沙門(天台僧)」であると述べ、日興師は「(日蓮は)上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」と述べ決して天台沙門ではないという立ち位置があり、違いがある事を述べている。

 ここで考えなければならない事があります。日蓮は出家をさせ門徒としています。当時、出家をさせるには阿闍梨号を得ている必要があります。日蓮が阿闍梨号を得ているのは、文永八年に行敏へ日蓮が難状を出した返事に、僧行敏から「日蓮阿闍梨御房」と認められている事から判ります。では日蓮は阿闍梨号をどこから得たのか、それは天台宗延暦寺からである事は間違い無いのです。だから公式の場で「天台沙門日蓮」と呼ぶ事自体は、けしておかしな事ではありません。

 現に日興師も自らの写本の「立正安国論」(玉沢妙法寺蔵)には「天台沙門日蓮勘之」と書いています。また千葉県市川市中山・法華経寺蔵の「日高写本」、千葉県香取郡多古町島・正覚寺蔵の「日祐写本」、千葉県香取郡多古町南中・(峯)妙興寺蔵の「日弁写本」の計三本に「天台沙門日蓮」との名乗りが確認されていますので、これは公式呼称として日蓮も用いていたのでしょう。

 日蓮自身も「妙密上人御消息」に於いては、以下の様に述べています。

「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず又末葉にもあらず持戒破戒にも闕て無戒の僧有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者なり」

 ここから見えるのは、日蓮自身、どの宗派であろうが、そこを重視しているのではなく、もっと本義的な処に重きを置いていたのでしょう。

 恐らく五老僧の門流の中で、日蓮を「天台沙門」と呼んでいた事を責めたと思うのですが、六老僧の門弟の中で日蓮を公称として「天台沙門」と呼んだ事を捉え、あえてそこを指摘するのは少し厳しいのではないか。私はその様に思うのです。

(続く)

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五老僧について②

2020年10月07日 08時18分47秒 | 日蓮正宗・顕正会関連
 五老僧の事について続けます。
 昨日の記事では六老僧についての紹介を書きました。「五一相対」の根本には日興師が日蓮の正統後継者であるか、否か。そこに掛かっているように思うのです。「五一相対」の背景には、日蓮の正統後継者たる日興師と、傍流である五老僧との確執という構図が背景としてあって語られています。日蓮正宗では、この日興師が正統後継者である証として「身延相承書」「池上相承書」の2つをもって、その証としています。

 しかし本当に日蓮はその様に書面を以て、日興師を次の別当(責任者)として定めたのでしょうか。そこについて少し史実をみて考えてみたいと思います。


(身延相承書)
(池上相承書)

◆日蓮の葬送の序列
 先に紹介した「宗祖御遷化記録」には、墓輪番以外にも日蓮の葬送に関する事も記録されています。その資料を見ると、葬列では先陣が日朗師、後陣は日昭師となっています。葬儀に於いては後陣の日昭師が大導師となり、副導師は先陣の日昭師が勤めています。この葬列で日興師は左列の中ほど、棺の左側にいました。これは日興師は葬儀の中心人物ではなく、中心の門下僧の一人という立ち位置であって、ここからは唯受一人の後継者という事は見えません。

 また六老僧を定めた事についても、同様に御遷化記録にありますが、そこに六人を定めた際に「不次第」とあり、そこに序列が無いと日蓮が定めた事も記載されているのです。ここから考えると、日蓮は亡くなる前に六老僧を定めた真意は、教団を六人で共に支え合う事を想定していても、自身の後継者として日興師を定めたという事はなく、日興師もそれは同様の理解であったと思うのです。

◆二箇相承の問題
 そもそも何故、日蓮は二つの相承書を認めたのでしょうか。通常、書面で示すのであれば一通あれば十分なはずです。「百六箇抄」には以下の文があります。

「今以つて是くの如し六人以下数輩の弟子有りと雖も日興を以て結要付属の大将と定むる者なり。」

 この百六箇抄は弘安三年の著作とありますが、そうなると日蓮は既に弘安三年の段階で、日興師を後継者として定めていた事になります。熱原の法難の直後の時期です。そうであれば猶更、身延相承書だけでも事足りるはずですが、そこに敢えて池上相承書を記述したのには、そうしなければならない事が既に日蓮教団の中にあったという事なのでしょうか。

 また先の日興師による御遷化記録では、六老僧を決めた際に「不次第」とあり、そこには序列としての上下が無いと定めています。しかしその後、池上相承書を認めたという事は、言葉が悪いのですが、日蓮は中心となる門下に対して「二枚舌」を使った様にも見えるのです。

 百六箇抄(後継者は日興師)→身延相承書(後継者は日興師)→六老僧定め(後継者は六人)→池上相承書(後継者は日興師)

 日蓮の生涯の言動は、常に「裏の言葉」などなく、常に堂々とした言論であったはずなのに、この六老僧や日興師への後継者使命は、その堂々とした言論ではなく、後継者は六名としながら、その裏では日興師が次だという様な、かなりブレている言動にも見えてしまうのです。

 またこの「二箇相承書」は、大石寺が語るには武田の乱(永禄11年にあった武田氏の駿河侵攻)の際に紛失したと言っています。これら相承書で御書全集に掲載されているものは写本という、写しの文面でしかありません。しかしこの二箇相承については、日興師が日蓮没後に門下を教化する本拠地であった北山重須本門寺の貫首は「ニセモノ」と断言しています。

 以上、これらは全て状況証拠でしかありませんが、そこから考えてみると、やはり二箇相承というのは、後世の偽書であり、日蓮自身が次の後継者として日興師を指名したという証明は、この相承書だけでは困難であると思うのです。

 私は思うに、日興師は日蓮が指名しようが、指名しまいが、自身の自覚の上で「我こそは日蓮の後継者である」という自覚が強かったのでは無いでしょうか。つまり自覚の上で後継者を自任しており、そこから「五一相対」の様な、後世に六老僧の分裂を示す様な言論を、日興門流を中心に、門下の中で巻き起こしたと私は思うのです。

 次回は「五人所破抄」「富士一跡門徒存知事」の文書について、少し見てみます。

(続く)

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五老僧について①

2020年10月06日 19時45分54秒 | 日蓮正宗・顕正会関連
 書きたい事が沢山あり、その都度このブログで書いていますが、こうしてみると、どうも書き散らしている感じも否めない状況になっています。でもまあ、いずれは「自燈明・法燈明サイト」の方に、このブログで書き連ねた内容については整理してまとめようと思っていますので、とにかく思いついた事について書いていきます。

 さて、今回はツィッターで見かけた「五一相対」という事について、少し私が調べた内容についてまとめてみたいと思います。



 この「五一相対」とは、日興門流で言われる事で、主に日蓮正宗で語られている事です。具体的には日蓮は池上本門寺で亡くなる際、門弟の中から中心となる人物について六人定めました。これが「六老僧」という弟子たちです。

 ・弁阿闍梨  日昭(61歳*)
 ・大国阿闍梨 日朗(37歳*)
 ・白蓮阿闍梨 日興(36歳*)
 ・民部阿闍梨 日向(29歳*)
 ・伊予阿闍梨 日頂(30歳*)
 ・蓮華阿闍梨 日持(32歳*)
*年齢は日蓮の亡くなった時の年齢を、各人の生年と日蓮の没年から計算しています。(若干ずれがあるかもしれません)

 これが定められた事は「宗祖御遷化記録-日興師著」に書かれており、日蓮亡くなる前、弘安五年十月八日に池上邸に於いてと言われています。この六老僧の中で、日蓮没後の起きた日興師・対・五老僧という視点で語られたものが「五一相対」という事で、その元となったのは「五人所破抄」「富士一跡門徒存知事」という2つの文献です。

 日蓮正宗や創価学会では、この対立の事から「五老僧」を「忘恩の輩」とか「師敵対の弟子」という事で語られていますが、果たしてそんな単純な事なのでしょうか。実はこの六老僧の歴史を俯瞰してみて、少し考えた時に、別の姿が見えてきたりもします。

 五一相対を考える前に、先ずはこの六老僧の人となりについて、少し振り返りをしてみたいと思います。

◆弁阿闍梨 日昭
 日蓮宗宗学全集にある「玉沢手鏡」によると、日昭師は承久二年(1221年)に下総猿島郡印東領(現在の茨城県坂東市近辺)で出生し、父親は印東次郎左衛門尉佑照、母親は印東大和守佑時の娘と言われていますが、明確な事は実は判っていません。
 日昭師は比叡山では日蓮と同学であり、一歳年長であったと言われていて、一説には幼少のときに出家したといいます。比叡山では尊海を師僧として修学し、秀英と認められ、日昭師は比叡山で十八歳で「権律師」という僧位僧官をも得る事が出来ました。その事もあって日昭師は摂政左大臣兼経の猶子となっています。
 日昭師が日蓮の門下となったのは、建長五年と言われていますが、恐らくそれ以前、比叡山で日蓮と知り合い、同じ志を持っていたのかもしれません。また日蓮が下総の千葉氏やその家人である富木常忍と人間関係を築けたのも、そこに日昭師が関与したという説もあり、この事から考えても、日昭師は門下というよりは「共同経営者」的な立場であったと思われます。

◆大国阿闍梨 日朗
 日朗師は寛元三年(1245年)に、下総海上郡能手郷に生まれました。日昭上人の妹の夫で義弟にあたる平賀二郎有国の子で、日昭師の甥にあたります。文応元年、十六歳の時に日蓮の門下となりました。その後、日蓮に仕え給仕した事から「師孝第一」とも言われ、文永八年(1271年)に、日蓮が佐渡流罪になった時には、土牢に押し込めとなりました。その後、文永十一年(1274年)には、佐渡流罪の日蓮のもとを八回も訪れ、赦免状を携えて佐渡に渡る役目も果たしたと言われています。
 日興師とは一つ年上の兄弟子という立場にいましたが、日興師は駿河方面を活動拠点にしていましたが、日朗師は叔父の日昭師と共に鎌倉を活動拠点としていました。

◆白蓮阿闍梨 日興
 日興師は寛元四年(1246年)に、甲斐国大井庄鰍沢(山梨県富士川町鰍沢)で、父親は大井橘六(おおいきつろく) 、母は富士上方河合の由比家(ゆいけ)の女性の間に誕生しました。しかし幼くして父親を亡くしたようで、直ぐに河合の地へ移り、蒲原の四十九院という天台宗の寺院に入って修行していたようです。
 正嘉二年(1258年)、日蓮が「立正安国論」の一書をまとめるために、程近い岩本実相寺を訪れていました。日興上人は、ここで日蓮大聖人に教えを乞い、弟子の一人に加えれれ、伯耆房という房号と日興と名を頂いたといいます。この時、日興上人は十二歳でした。恐らく当時、鎌倉で知名度が上がっていた日蓮の噂を耳にして興味を惹かれ、実相寺を日興上人は訪れたのではないでしょうか。当時の日蓮は三十六歳。日興上人から見たら、活気みなぎる大人物の姿に、その場で入門を決意したのではないかと思います。ただし当時十二歳の少年であった日興上人は、すぐに日蓮の下にはせ参じる事は難しかったのではないかと推察します。何故なら当時の日興上人は四十九院の若輩の修行僧であった事、また後世に日蓮の法門を理解しえたという事は、利発であった事も伺えますので、その様な招来有望な少年を、四十九院が直ぐに手放すという事は無かったのではないでしょうか。
 しかし弘長元年(1261年)五月十二日、日蓮は伊豆に流罪された時に日興上人が常隋給仕した事が、日蓮正宗の文献『日興上人詳伝』に書かれていますので、日蓮に出会って三年以内にその元に駆けつけた事が想定できます。
 文永八年(1271年)十月十日、日蓮が佐渡流罪の際、日興が同行して常随給仕をしたと言います。文永十一年(1274年)、佐渡一ノ谷を出発し鎌倉幕府に日蓮が三度目の諌暁を行い、その後、身延山に入ると日興上人は甲斐、駿河で布教を進めました。そしてこのころ後に少年で後に日目と名乗る少年と日興に出会ったと言います。
 建治元年(1275年)一月下旬、南条家に到り故兵衛七郎行増の墓に代参し、富士下方を弘教した。日興の教化により後の熱原の法難で中心者となる下野房日秀・越後房日弁・少輔房日禅。その他、三河房頼円、及び在家若干が折伏して弟子としました。
 建治二年(1276年)四月八日、日目上人を得度。
 弘安二年(1279年)十月十二日、日蓮は熱原の事を受けて、書を日興のほか、日秀・日弁等に報じ滝泉寺申状草案を与えました。そして十月十五日、日興等、鎌倉より日蓮に法難の状を急報します。それを受けて日蓮は十月十七日に書を日興はじめ日秀・日弁等に送りました。
 その後日蓮は、日興に文永十一年(1274年)十二月の本尊〔万年救護本尊〕を与えられました。
 その後、弘安三年(1280年)二月、日興上人は、遠江の新池家にいましたが、弘安四年(1281年)、日興上人は園城寺申状を持ち日蓮の代理として代奏します〔初度天奏〕。これは日蓮の法門について、日蓮門下の中で理解度が高かったという事を示す事だとも言えます。

◆民部阿闍梨 日向
 日向師は建長五年(1253年)に安房国の尾金で生まれたと言います。十三歳で日蓮門下となり出家得道してからは、折伏弘教に日々奔走したと言われています。日蓮門下では「論議第一」と言われ、1276年には日蓮の代理として、日蓮の師匠である道善房の墓前で「報恩抄」を朗読しました。1280年には日蓮による法華経講義の記録である「御講聞書」を著しました。

◆伊予阿闍梨 日頂
 日頂師は建長四年(1252年)に下総国で生まれ、日蓮の有力な檀越である富木常忍の養子となり、幼くして日蓮門下となりました。日蓮の佐渡流罪の際にも日蓮に従い給仕したと言われており、身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加していました。下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめたと言います。

◆蓮華阿闍梨 日持
 日持師は建長二年(1250年)に生まれたといいますが、出自についての詳細は判っていません。初め駿河国蒲原の天台宗寺院四十九院で日興に師事して、天台教学を学びましたが、その後、日興とともに追放され、日蓮の門下となりました。日蓮の没後は日興師とは不仲となり、正応元年(1288年)日浄とともに願主となって武蔵国池上本門寺に祖師像を安置しました。 その後の消息は不明でですが、一説によると、彼は海外布教を目指して新潟から秋田、青森、函館、松前、江差を経て渡樺し、本斗郡好仁村の白主、永仁三年(1295年)樺太の本斗郡本斗町阿幸に上陸した後、北樺太の落石(オッチシ)から海外布教を志し満洲に渡ったとも、蝦夷地で没したとも言われています。なお、日持の大陸渡航説は、江戸時代以前から存在するものとされています。

 以上が六老僧の概略です。この六老僧が、日蓮没後にどの様な行動を取ったのか、それは次回に致します。

(続く)

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拉致してまで入会させたいのか

2019年11月16日 11時18分47秒 | 日蓮正宗・顕正会関連
 最近の大きなチェーン系列の喫茶店というのは、たいてい、Wi-Fiが完備されていて、便利になりましたね。外でネット関連のものを閲覧するために、携帯電話にテザリング・プランをオプションで申し込んでいますが、最近はあまり使わなくなりました。
 ただ仕事をする際には、それなりにセキュアなWi-Fiを求められるので、そういった時には携帯電話のテザリングを使用しますが、毎月、予定しているパケットを使い切らずに終わってしまっています。

 私は以前に創価学会の「広宣部」という所にいた事があります。ありていに言えば創価学会が日蓮正宗や顕正会、また共産党を相手にする際の、実働部隊という所でしょうか。

 最近の創価学会では青年部が少なくなったので、この広宣部も私の地元では居なくなった様ですが、昔はそれこそ毎晩の様に、日蓮正宗や顕正会と、丁々発止の事をしていたものです。

 そんな中で経験した事を、少し紹介します。
 広宣部なんて、この顕正会を相手にしているという事から、様々なところで相談を受ける事がありました。ある時、男子部のある部員から、その彼女(非創価学会員)の所に顕正会の人がたびたび訪れ、入会を強要されるので何とかしてほしいという相談があり、男子部の若いメンバーと共に、その彼女に会う事にしました。

 しかし待ち合わせの時間になっても、その彼女が一向に待ち合わせ場所に現れません。かなり時間も経過したので、その男子部のメンバーに電話をしてもらったところ、どうやら職場の外に顕正会員が待ち伏せをしているとのことでした。

 その顕正会員は彼女の知人という事でしたので、とりあえず振り切って来る様に伝えたのですが、すると彼氏の男子部が携帯電話で何やら慌ててました。スピーカーで聞くと。

「あー。。やだぁー!連れて行かれるぅ~・・・」

 という声とともに通話が切れてしまったのです。
 彼氏である男子部は、慌ててリダイヤルするのですが、呼び出し音が鳴ってもぜんぜん出ない様です。私も男子部の携帯電話を借りて、リダイヤルで何度か電話に掛けたのですが、そのうち女性が電話に出ました。

「もしもし・・・・」

 なにやら気だるそうな声の女性でしたが、私は「〇〇さんですか?」と聞くと、その電話に出た女性は「違います」と言うのです。私は「いや、この電話番号は〇〇産の電話番号なんですが、貴方は誰ですか?」と聞くと、電話は切られてしまいました。

 その後、リダイヤルをしても携帯電話は圏外のガイダンス音声が流れるだけで、つながらなくなってしまったのです。警察に相談しようかとも思ったのですが、男子部に聞くと、職場の前からどこに連れて行かれたか解らないという事もあり、一旦は解散して、彼女と連絡が取れたらまた相談しようという事にしました。

 相手は顕正会ですが、まさか会員でもない女性に対して暴行や障害は加えないだろうという判断でした。

 それから数日後、その男子部から連絡があり、その後の彼女の状況を聞くことが出来ました。それは職場の前に待ち伏せをかけられ、それを無視して行こうとしたところ、数人の男女から羽交い絞めにされ、そのままワンボックスに連れ込まれ目隠しをされたそうです。そして車で一時間半ほど移動して、目隠しを取られ、車から降ろされたときにスキを見て必死に逃走。場所はどうやら東京の葛西であったというのです。

「それは拉致事件だろう。警察に相談するべきではないのか?」

 そう彼氏である男子部に聞くと、彼女はかなり怯えていて、もう関わりたくもないし、この事については放っておいてほしいという事で、警察に言う事はしないと決めているとのことでした。

 もう昔の事になりましたが、日本の中ではオウム真理教が大きな問題となった時がありました。そこでは高学歴の人間が麻原彰晃に心酔し、その宗教のために拉致だけでは足らず、殺人や国家的な毒ガス(サリン)によるテロ行為も起こしました。

 また今でも活動していますが、イスラム国というのは、イスラム教原理主義の下で、戦争行為をも行い、自爆テロも宗教行為として行われていたりします。

 これらすべて宗教に絡む事ですが、人間というのは自分の信じる宗教の上で正当化された事には、何ら残酷性や非人間性も感じる事なく、社会的にみても極悪非道な行為を平気で行う事が出来る生き物です。

 今回紹介したのは、顕正会の組織勧誘に関する事ですが、創価学会においても規模は小さく、やり方はもう少しソフトですが、同様な事は行っています。要はだまして創価学会の会館や自宅に連れこみ、入会するまで友人を帰さない。

 こういった行為で、宗教に関してトラウマになっている人は意外に多くいると思いますが、いかがでしょうか。

 宗教とは本来、自分自身の心を見つめ、豊にするものでもあるはずですが、その宗教の団体の拡大が宗教の目的となった時、その為に行われる行為というのは正当化され、行う方もあまり罪悪感なく行います。

 そんなことまでして入会させて、一体どういう意味があるのでしょうか。

 やはり宗教とは人間にとって、最大の強みになる反面、最大の弱点だとも思えてなりません。


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