自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

私が感じた創価学会の問題点③

2020年12月30日 08時39分19秒 | 経験談
 年末年始休暇の中、時間があるので記事を更新します。私は自身の信仰体験や、1980年代後半の創価学会の主張していた事、また当時は創価学会では多少の論理性もあった事から、この信心で人々を幸せにする事が出来ると確信していました。

 今から考えれば、それは盲信であったからかもしれませんが、ネットが今の様に整備されて無い中で、情報を得る事は出来ず、この判断は創価学会の組織の中で教えられる情報にだけ依ることが大きかったのは否めません。

 ただ少なくとも、当時の青年部の先輩たちが語っている事には、とても論理性があったと感じていましたし、実際に社会の中で信頼を得ている人達はそれなりに居たと思います。

 私が青年部の頃には国連支援活動、オープンハウス大学校運動など、社会に開こうという動きもありましたので、この創価学会の思想性はベストでは無いかもしれないが、唯一のベターなものでは無いかとも感じていたのです。

 ◆生活パターン
 活動家時代で地区リーダーの時までは、まだ創価学会以外の友人とも遊ぶ時間がありました。ただ部長という役職以降、こういう時間を取ることが困難にもなりました。しかしそれも自分が選択した事なので不満はありませんでした。

 この部長になって以降の生活パターンは、苛烈なものでした。

 平日は当たり前の事ですが、朝は仕事に行きます。「信心は一人前、仕事は三人前」という創価学会の指導性もありましたが、男たるもの社会で認められてナンボでしかなく、けして組織内しか通じない様な人間になってはいけない。社会でも必要とされる人間になる事が大事だとも言われたので、仕事に手を抜くことはありませんでした。また私は本山担当や本部運営創価班もやっていたので、2ヶ月に一日は休まなければならないので、平日は極力仕事をやり抜こうと決めていました。
 とは言え会館担当日もあるので、18時迄には会館に着かなければならない日もありました。その時には部下に仕事を割り振って、職場を早退していました。私の場合、ベンチャー企業に勤め、二十代後半からは友人と会社をやっていたので、そこは融通を利かせることが出来ました。でも仕事は当然溜まりますので、深夜に会社に戻り、部下に依頼した仕事を確認したり、自分の仕事を片付けたりしてましたので、週の半分は朝帰りという状況でした。

 唯一ゆっくり出来たのは、土曜日の午前中で、それ以外は殆ど家に居ることなく、会館や家庭訪問、また各種会合に走り回っていたのです。

 ある時は、家に帰り、気が付いたら背広姿のママ布団の上でアグラをかいて座って寝ていた事もありましたが、こんな生活を十五年近くやっていたのです。

 よく池田氏は言っていました。
「広宣流布の組織に尽くしぬく人生が尊いのである」

 自分自身の行動が少しでも社会の役に立てば、また広宣流布する事で、人類社会が少しでも良くなるのであれば、自分自身の体が壊れても構わない。また寿命が短くなっても構わないとも真剣に考えていたのです。
 
 要は私がTwitterでも良く書きますが、当時の私の中には「創価学会こそ正義」という確信がありましたので、そこまで考えていたのです。また当時は独身でもあったので、何かあったとしても失う物が無い(少ない)という事も関係していたのかもしれません。

 ◆疑念の切っ掛け
 疑念の一つの切っ掛けとなったのは、三十代後半で県幹部になり「副役職」になった時でしょうか。当時は選挙戦で自分自身も選挙スタッフとなっていましたが、当時は仕事で職場も変わっていて、任された仕事もあった事から、日々終電で帰宅するという日々が続きました。このプロジェクトのメンバーの中に数人の男子部幹部(私とは違う地域)も居たのですが、その彼らが仕事を真面目にやらず、直行直帰をしたり、遅刻してきたにも関わらず早退を願い出て来たり。私は仕事には拘りがあったのですが、彼らは「今日は大きい会合で司会をしなければならない」とか「今日は折伏があるから」という理由で、とにかく仕事を真面目せず、仕事を早く上がったりしていたのです。当然、創価学会以外のメンバーは私と同様に終電間際に帰宅という日々も続いていて、そんな彼らからは「創価学会は忙しいんですね。まあ社長も(当時の会社の社長は学会幹部でした)創価学会だから仕方ないんでしょうね」という、皮肉めいた事まで言われていました。

 私は当然、プロジェクトの責任者でもあったので、そんな彼らには勤怠について指摘したのですが、選挙戦の序盤であるという事もあり、彼らには馬耳東風でした。

 この男子部メンバーの仕事の煽りも受けて、私はより帰宅時間も遅くなり、結果として創価学会の組織活動から遠ざかっていたのですが、そんな私に対して地元組織では「斉藤は組織に顔を出さなくなった」「彼は退転した」という噂が飛び交っていたのです。まあ分県幹部なので、それなりに知名度もあったのですが、その言葉を先輩幹部である分県幹部や総県幹部からもフォローしてもらえず、気が付いたら「退転した幹部」の様な扱いを受ける様になっていたのです。

 これには我慢できないと、私は先輩幹部に相談したのですが、その幹部から言われたのは「彼らはそれぞれの使命の場で必死に戦っているじゃないか!むしろ私は活動をしない君が心配なんだ!」と言われる始末。一体全体「仕事は一人前、仕事は三人前」という指導はどこに行ったんだと思いましたが、そういう私の想いをくみ取る幹部は、当時の組織には居なかったのです。

 この事もあり、私はとにかく仕事でプロジェクトを進めなければならなかったこともあり、組織からの連絡を無視して仕事に没頭する事にしました。

 「自分が考えていた広宣流布というのは何だったのか」

 ここから私自身、思索の振り返りを始めました。これは今から十数年前の事でした。

(続く)

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私が感じた創価学会の問題点②

2020年12月29日 17時05分49秒 | 経験談
 さて、前の記事では私の略歴について書かせてもらいましたが、当時の創価学会が青年部の人材育成として中軸にしていたのが、人材グループでした。

 創価学会の青年部では、男子部に「創価班」「牙城会」という人材グループがあります。その他にも「金城会(これは池田会長の私的ボディガード)」や、私から見て何をやっているか判らない「長城会」、またドライバーのグループ「転輪会」なんていうのもありましたが、これらは人材育成グループではないと思っています。

 さて、創価班に私は入ってましたが、そこでは「基本三精神」や「実践五項」という事が、徹底して叩き込まれます。

【創価班基本三精神】
 ・学会を護る
 ・会員を大切に
 ・陰の戦いに徹する

【創価班実践五項】
 ・責任ある行動
 ・明確なる言語
 ・親切な態度
 ・清潔な身なり
 ・正確な連絡報告

 私が創価班に入った時、ここは創価学会の幹部養成の為の人材グループだと言われました。確かに創価学会の末端組織で幹部をする人達は、創価班か牙城会の何れかに所属していましたが、これは末端組織の幹部の精神的な事を、この人材グループで刷り込む事を目的としていたからだと思われます。

 では創価学会では末端幹部にどの様な事を求めていたのか、少し具合的に書いてみます。

 ●学会を護る
 創価学会とは広宣流布を目指す団体です。広宣流布とは法華経をこの人類社会に弘める事で、創価学会では実際に広める組織は自分達しかなく、だから歴代会長も自身の生命より大事にしてきたのが創価学会てあると教えられました。その為にこの組織は絶対に護らなければならないし、常に人間第一の組織でなければならない。もしこの組織を外から壊そうとする輩がいたら、敢然と戦い、中から食い潰す敵がいた場合、それらとも戦わなければならないと言うのです。

 ●会員を大切に
 これは創価学会を推進するのは会員であるから、その会員を大切に護りぬかなければならないという事です。歴代会長は常に会員の事を想い、会員を大切にしてきた。だからその心を身に呈し、会員を大切にしなくてはいけないと言うのです。

 ●陰の戦いに徹する
 創価学会の幹部とは、人が見ていようと、見ていまいと、常に戦いを止めてはならないし、人がどう見ていようか、見ていまいが関係なく、自分の信じる戦いを、目立たなくても徹して貫いてく。けして名聞名利の戦いをしてはならないし、人が見ていない陰の場所であっても、徹して貫く事が必要だと言うのです。

 これは基本三精神といわれ、具体的には小説・人間革命にある山本伸一青年の姿だと教えられました。だから創価班大学校という一年間の研修期間で、当時は人間革命の全巻読了は必須であると教えられたのです。

 また広宣流布の責任者たるものは、その実践において「実践五項」を常に心に留め、戦わなければならないと言います。

 ●責任ある行動
 これは自分自身の言動には、常に責任を持つことを言います。また自分が担当する組織においても、部員(会員)がもし悩み苦しむ事があれば、それは幹部の責任だと言う事を自覚しなければならないのです。

 ●明確な言語
 人と話をするときには、言葉は明確に語らなければならないと言います。けして曖昧な事や不明瞭な内容ではなく、発言として常に明確に語らなければならないのです。

 ●親切な態度
 相対する人には、常に親切に振る舞わなければならないし、その配慮を忘れてはならないと言います。言いっぱなし、指示を出しっぱなしもダメであり、常に親切な態度で接しなければならないのです。

 ●清潔な身なり
 人にとって外見はとても大事な事です。華美に走ったり無闇に飾り付ける必要はありませんが、常に清潔感のある身なりを心掛けなければならないのです。

 ●正確な連絡報告
 組織内では様々な事が起きますが、常に正確な状況を掌握し、連絡や報告する場合にも、常に正確さに気をつけなければなりません。

 以上が創価班で叩き込まれる「基本三精神」と「実践五項」というものです。私は社会人で研修という類を一切受けてませんが、この創価班で教えられた事は、ある意味で社会でもとても大事なポイントでもありました。だからこの創価班大学校において、私は社会人としての基本的な事を教わった様なものだったのです。

 でもまあ実際に創価学会の幹部をする中で、これらをまともに実践出来ていたかと言うと、かなり抜けがあった事も事実です。しかし幹部としての原点であった事は間違いありません。でも組織活動の中で、幹部としてこれらを実践する事は、ある意味で至難の業でもありました。

 ではそれは具体的にはどこ様な事であったのか、次の回から少し具体的に書いてみたいと想います。

(続く)


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私が感じた創価学会の問題点①

2020年12月29日 09時09分56秒 | 経験談
 今日もチマチマ掃除をしようと思っていますが、その前に記事を書きたいと思います。今日は創価学会の事について、少し振り返りをしながら書いてみますので、お時間のある方はおつきあい下さい。

 私が創価学会の活動を止めてから、はや十数年経過しました。
 活動を止めた当初、やはり創価学会に対しての瞋恚というか、イラつきというのは物凄く自分の中に吹き荒れた時期もありましたが、最近では、はやりの「鬼滅の刃」でいうと、水柱の富岡義勇の水の呼吸にあった「凪」というところでしょうか。


 ただしこの「凪」も、ネット上の様々な発言や、各種報道の中身によっては「さざ波」が立つ様な事もたまにあります。そして何故「さざ波」が立ってしまうのか、そこには私自身が青年部時代に必死にやって来たという自負があるからかもしれません。

 地元の後輩幹部などは、いまの私を評して「我慢して学会活動をしてきたから、その不満が爆発している」と言っていますが、これは違います。我慢して学会活動をしてきたという事は、私には当てはまりません。単に我慢していた人間が、四半世紀近く創価学会につながりを持ち、青年部でも県幹部にまでなれるわけが無いのです。事実誤認も甚だしいのですが、それが今の私の地元での評価になっています。

◆青年部時代の私
 私は二十歳の頃に「班長」という役職を受けた時から、創価学会との関わりが始まりました。私自身は創価学会の「二世」という事になりますが、正直、未来部時代にはそれほど一生懸命やっていたという事ではありませんでした。
 しかし専門学校を出てから、自分の先行きが見えなかった事、また若い当時の自分自身の不甲斐なさを感じても居たので、そこを変えたいという事もあって、活動を始めました。

 始めた当初、日蓮大聖人の仏法とは何なのか解らず、御書を片手に慣れない古文を読みながら個人的に勉強をしていました。とにかく仏法という事を知りたかったし、勤行で読む法華経や、日蓮が文字曼荼羅を顕すまでに至った事について知りたかったという事がありました。だから先輩から言われた事は、とにかく何でもやってみようと思っていたのです。

 過去にTwitterで私に絡んできた人が「斎藤さんは家庭指導を回って来た事がありますか?」「折伏や下種をしてきた事がないでしょう」なんて事を言っていましたが、私が男子部活動を始めた当初、友人に対する対話数(実際に仏法対話をした人数)はゆうに百名を超えました。しかしそれでも入信決意なんてものは一つもありませんでした。とにかく友人に話をしても決まらない。学生時代の先輩と対話をした時に「お前の話は分かるが、お前自身の言葉になっていない!それはやらされているんだろ?」と厳しい叱責を受けた事もありました。また家庭訪問については、班長になってから、ほぼ毎日行っていました。当時は自家用車など持っていませんでしたので、雨の夜、徒歩で片道二十分歩いて一軒の男子部員に手紙を出してきた事もあります。

 班長になってから、私は自分自身に課していた事がありました。それは「嘘を付かない行動をしよう」という事です。当時は創価班大学校というものにも「半ば強制的」に入れられ、その研修会では折伏の事では、いつも厳しく追及されました。要は「一週間の間で何人に仏法対話をして、入信決意を幾つとったのか」を追求されるのです。同期の中では苦し紛れにでっちあげの活動報告をしていたメンバーもいましたが、私は常に正直に答えていました。
 当時言われていたのは、入信決意十で本尊流布一が取れる、なんて指導もありましたが、同期の大学校生の中で、始めてから半年で入信決意を一つも取れていないのは私だけだったのです。その事から「お前はやる気が無いんだろう!」「帰れ!」と何度も言われてきましたが、私自身、必死に友人にあって仏法対話を行い、時には先輩同伴で折伏もやりましたが、まったく私の友人は創価学会に入るそぶりも見せてくれなかったのです。

 まあ今から考えると、何という活動をしていたのか。そんな感想を抱きますが、自分自身を変えたい、仏法というのを知りたいという事だけで、恐らく同期の大学校の中では一番多くの友人と語っていたと思います。

 まあ詳細は割愛しますが、そんな創価班大学校生活をして十か月目で、ようやく折伏一世帯(本尊流布と呼んでいました)が出来て、それと共に自分の周囲の環境が激変するという経験をしました。これはいわゆる「信仰体験」という奴ですね。気が付けば題目をどれだけ唱えたか覚えていないのですが、仏壇の前の畳には、私の正座の跡がクッキリとつくほど唱えてもいたのです。

◆幹部への登用
 創価班大学校を卒業して間もなく、私は地区リーダーという役職を受けました。聞く処では区内最年少の地区幹部登用だったと言われましたが、当時の地区リーダーは、地区の責任者として地区活動者会を行ったり、とにかく男子部組織の最末端組織の責任者という位置づけでした。当時、少し前までは「大B長」と言われていたんですけどね。

 そこから私の役職人生も始まった訳ですが、地区幹部時代も先輩の記録を更新し、部長になっても同様に様々な先輩の記録を更新して行きました。部長になってから「任命書」というのが「創価学会人事委員会」から発行され、幹部コードというのが割り振られるのですが、部長になると生活のほとんどが創価学会というものに変わっていきました。

 この部長という役職は「支部」の「男子部長」という事で、統監数で百名前後の部員を持ち、地区数は四~五地区。つまり地区リーダは4名とか5名になる訳で、活動家も私の場合には常時十名から十五名いましたので、一端の幹部という事になります。しかし組織の最先端という事は、つまり問題も様々吹きだすわけで、日々、本部長や区男子部長に叱られっぱなしの立場でしたが、今から思えば仲間内でワイワイガヤガヤとやっていて、楽しい思い出が多くありました。

 本来は部長を二年から三年やった後、副本部長とか本部長になるのですが、この当時の私は、何故かある重鎮の県幹部から嫌われていて、この部長という役職を八年間近くやっていました。先輩からは「何故、斎藤は人事あがらないんだ?」と良く聞かれましたが、ある先輩からは「あ~、、〇〇さんはお前を嫌っているからかな」とも聞きました。しかし私は役職には興味も無かったので馬耳東風で、部長としてワイがや生活をしてもいたのです。

 当時、よく通っていた男子部員の奥さんとも仲良くなりましたが(変な意味ではないですよ。その部員の家に行くと、奥さんが晩飯をよくごちそうしてくれたのです)、その奥さんからも「斎藤君には彼女は紹介できないな」と言われ、その理由を尋ねると「忙しすぎて、彼女が居てもかわいそうになるだけ」とも言われたりしていました。確かに当時、私は仕事と学会活動だけの生活で、その他の事が、生活の中に割り込む余裕すら無かったのです。

 今から考えてみると二十歳から三十代前半までの、この時代が、私にとっての青春時代であったのかもしれません。でもそれは仕事と創価学会という二色だけの生活でしたが、何かとても充実していた事と、今でも思います。

(続く)

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笑える人生でありたい

2020年07月18日 10時10分51秒 | 経験談
 今日の関東地方は、朝から結構な雨脚となっています。朝早くから屋根に打ち付ける雨音で目が覚めてしまうくらいの勢いがありました。天気予報によれば、あと一週間ほどで梅雨は明けると言っていました。もう洗濯物も乾かずに、部屋干しが溜まってますので、早く明けてほしいものです。



 私も五十代に突入してそこそこになります。個人的な感覚では、ついこの間、嫁と結婚し、子供が産まれ、日々バタバタと生きて来たのですが、そんなに年月が経った感じがしないのです。しかし気が付けば、子供達が中学生と高校生になっていました。これは以前のブログ記事にも書きましたが、この時間はあっという間の感覚なのですが、思い返すとそこには様々な事があるという感じなのです。

 ちょっと不思議な感覚ですね。

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

 これは豊臣秀吉の辞世の句ですが、本当に人生というのは、あっという間に過ぎ去ってしまうものなんでしょう。

 私の勝手な予測では、恐らく私の人生の残りも四半世紀あれば上等と思っているのですが、この人生を生きてくる中で、若い時から考えていた事があります。それは。

 「もし自分に子供ができたら、笑って話せる人生でありたい」

 こんな事でした。

 私には十歳近く離れた兄が居ます。この兄はとても真面目で、中学校でもそこそこ成績も良く、高校も地元の進学校に入学し、生徒会役員をやってました。そこ後、電子工学関係に進学し、そこでも成績が良かったことから、就職もとある大企業にエンジニアとして就職しました。
 一方の私は中学では並み程度の成績で、高校は「Beパップ・ハイスクール(ご存知ですかね)」の様な工業高校に入学し、バンド組んでいたり、打ち上げと称しては繁華街の居酒屋に繰り出したり。また夜中に溜まり場の知人の家に遊びに行ったりしていまして、そのせいでしょうか、学校は遅刻の常習犯。そんで就職するわけではなく、何故か「イラストレーターになる」と決意して、イラスト関係の学校へ進学。しかし直ぐに中退して勝手にデザイン会社に就職。でもそこの会社も長続きせずに、直ぐに辞めて一時期はプータローをしていました。

 だから今は亡き親父からよく言われました。

「いいか単己!陶芸家だったら失敗作は、窯から出して直ぐに割って捨てれば良いが、人間はそうはいかんのだ!」

 要は兄に比べたら、私は失敗作だと言いたかったのか、若い時の私は、この親父の言葉にそんな事を感じ、反発もしていました。

 プータローも半年ほど続け、この時は知り合いのアパートに転がり込んで居たのですが、やはり社会の中に居場所が無いと言うのも、これまた中々辛いものでした。そのため就職を決意、当時あった「週刊就職情報」という雑誌の中から、たまたま選んだのが当時のITベンチャー企業で、そこにプログラマーとして就職しました。

 まあこんな感じで就職したのですが、そんなに社会は容易く生きていける場所ではありませんでした。そこで経験した事は、また別の機会に書いていく事にします。

 こんな感じで放蕩息子をしていると、やはり様々な不安感に常に付き纏われますし、いろんな失敗を繰り返してきました。でも失敗して辛い事がある度に、私は自分自身に言い聞かせて居たのが、先の言葉だったのです。

 私が創価学会で活動家となり、幹部になって行ったのも、恐らくこんな生き方の軌跡によるのかもしれません。

 こんな生き方を三十年以上して来ましたが、お陰様で話の種に尽きることない人生になってまして、幸いな事に今の段階では、子供達に笑って話せる事柄が沢山出来ています。思うに「笑って話せる出来事」とは、中途半端に生きていたらは出来ないですね。また笑い話というのも、それぞれが、当時の私にとって苦しい出来事ばかりで、むしろ自分で楽しかったと感じるような出来事は、笑い話の種にはならないものなのです。

 思うに人生というのは、苦悩するために生まれてきたのかもしれません。苦悩というのは、その事実を正面から受け止める事で、様々な学びを与えてくれるものですし、それなりに人生に対する洞察を与えてくれるものと感じています。

 残りのあと四半世紀の人生で、あと幾つ笑い話の種を作ることが出来るのか、わかりませんが、後々、笑い話の種となる様に、そしてこの世界から去る際には、この人生が愛おしくなるように、これからも生きて行きたいと思います。


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創価学会と家族について

2020年01月02日 15時41分23秒 | 経験談
 私は創価学会で二世てあったという事は、以前にも少し触れました。家族は両親と兄の四人で、その内、私を除く三人が創価学会では一世という事、つまり何らかの事で創価学会に入会していますが、私は生まれた時から創価学会として入会した様な形です。

 元々、私の家族の入会は、兄の事故に依るもので、詳細は省きますが、当時は兄が一生不具者を余儀なくされると誰もが考えていたのですが、担当の医者も驚くほどの回復力で、今ではしっかりと健常者として生活しています。

 これが我が家の「初心の功徳」と言う信仰体験で、これにより我が家は全員入会だけではなく、父親の兄弟も入会をしました。だから正本堂建立の記念座談会なんていう、当時の写真には家族揃って参加をしていました。

 しかしいつの頃からか、父親は会合には一切参加しなくなったばかりではなく、幹部の家庭訪問にも顔すら出さなくなっていました。この理由については、後に私が男子部の幹部になった時に、その経緯を知る事ができました。それは、私の父が仕事上で事故を起こしたのですが、その事がどういう事なのか他県に住んでいる父の兄弟の住む組織に伝わっていて、父の兄弟が活動にあまり積極的で無かった事に、その地元の幹部が「そんな事では貴方もお兄さんと同じく罰を受けるぞ!」と話をして、それが父の耳に入った事たったと言うのです。

「お前ら創価学会は人の噂話しかしないのか!!」

 それ以来、父は創価学会との関わりを断ったと言うのです。仕事上の事故が何故か「仏罰」という話になり、しかも他県にすむ組織の人間がそんな話をした事に、父は嫌気が差したのでしょう。

 翻り私はどうなのかと言えば、少し形は異なりますが、組織活動から離れて以降、地元組織から様々な陰口を言われています。まあ元男子部の幹部であったものが、組織の矛盾を感じて組織から離れたのでそんな事もあるのでしょうが、結果、わが父親と同様にそんな組織に辟易しているわけで、そういう事に私も「やはり親子なんだろうなぁ」と感じています。

 今年の新年勤行会には、我が家から嫁が一人だけで参加しています。私はそんな組織には関わりたくないので、もう会合も一切参加していませんし、子供達にも無理強いはしません。それもあってか子供達も新年勤行会には参加をしなくなりました。

 こういう人は結構居るのではありませんかね、今の創価学会には。

 考えてみれば婦人部幹部なんかにも「ここだけの話だけどね、、、」なんて言いながら、耳にした婦人部員の悩み事などを組織に振り撒く人も居たりします。ネットで見るとそんな幹部の話はゴロゴロあります。

 こんな事は何故起きるのか。そこには創価学会の組織文化が深く関係しているわけで、それについてはまた別の機会に書いてみたいとおもいます。




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