自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

法華経の思想性について(12)

2020年03月31日 12時39分55秒 | 仏教関連
 ここまで法華経の思想性について、つらつらと私の私見について書き連ねてきました。ここで書いた私見は、けして「正しい」とか「正義」なんてものではありません。そもそも正しいとか正義なんてもので、自分自身の思想を判断するのは、おかしな話なのです。「正しい」も「正義」も、自分の思想性の後についてくるものであって、その思想性の前に来るものでは無いと思います。

 創価学会にしろ、日蓮正宗にしろ、自らの正しさを雄弁に語りますが、考えてみればそこで語られる内容とは宗教という組織から与えられた思想を「正義」「正しい」と教えられ、そのまま飲み込んでいるだけなのです。そしてそこには思想性の深化もければ、当然、心の理解を深めるという事は無いのです。

 自分自身の人生を理解するには、自分自身で自分の中にある「心」を観察しなければなりません。仏教とはそういう「自分の心」を理解する事を目的とした思想であったはずであり、けして一宗一派に人々を縛り、思考を縛るものではないはずです。でもそこを理解しない限り、いくら「門前の小僧、習わぬ経を詠む」となり、仏教の教学を語り、経典を読誦しても、そこに隠されている真意を理解する事は出来ないと私は考えているのです。

◆人の心について
 法華経は釈迦の直説ではありません。この事について、このブログでは幾度も書いてきました。この法華経とは紀元前1世紀頃に成立した経典であり、「如是我聞(如の是く我聞きき」という言葉で語られ始め、そこには釈尊が登場し、様々な言葉を弟子たちに語っています。しかし実際に語ったのは「実在した釈迦」ではなく、人々が「瞑想の中で出会った釈迦」であり、教えを聞いた人も釈迦の十大弟子等では無かったという事です。

 こういった成立の過程を知った時、例えば近年、ニューエイジ分野で語られる「神」との対話と、この法華経はいかほどの違いがあるというのでしょうか。そういう事を考えた時、日蓮が語ったという「五重の相対」といった「教判」に、私は意味を見出せなくなりました。

 さて、先にも書きましたが法華経の二箇の大事と言いますが、一念三千と久遠実成で明かされた仏と衆生との関係とは、一般的な仏教で語られているものとは異なっています。
 ここで言う久遠実成の釈迦とは、無始無終の存在であり、その久遠実成の釈迦がこの娑婆世界に仏として出現する一方で、その仏から教えを受ける衆生として存在する事を明かしたのです。そしてこの関係性を別の言葉では「九界即仏界」「仏界即九界」という言葉で示したりしています。

 この事と近似的な内容が、実はニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」の中にも書かれていますので、そこについて紹介します。

◆ニール氏の語る「神」
 この「神との対話」は、チャネリングで神と対話をした言われていて、そこだけ考えると、とても「眉唾もの」と感じそうですが、実はニール氏、一日の終わりに自身が過ごしたその日の事を、神に対して手紙を書くという習慣を持っていました。そして人生で行き詰ったある時、その思いのたけを書き連ねようとした時、よく言う「自動書記」の様に、文字を媒介としての対話が始まったと言うのです。

 先の法華経の成立が、「釈迦に合いたい」と瞑想するグループから発生したと言う説、また天台大師の開いた天台宗は、当時の中国では「禅宗」と呼ばれ、「内観(心の中を観察する修行)」に重点を置いてきたと言いますが、ニール氏の「神との対話」についても「日々の自分を思い返す(内観)」に近い事から始まっています。
(因みに日本で言う「禅宗」とは、天台大師の時代の中国では「達磨宗」と呼ばれ、区別をされていたそうです)

 そしてそこで対話する「神」は以下の様に語ったのです。

「それでは先を進めよう。さて、あらゆるものを包み込む無、それをある人々は神と呼ぶ。だが、これも正確とは言えない。そうすると、無ではないあらゆるもの、それは神ではないことになってしまう。わたしはー見えるもの見えないものを含めてー「存在のすべて」だ。したがって、東洋の神話で定義される神、つまり偉大なる「見えざるもの」とか、無、空といった説明もまた、神とは見えるすべてであるという西洋の現実的な説明と同じく、不正確なことになる。神とは「存在のすべて」であって、同時に「すべてでない」ものでもある、そう信じる者は正確に理解している。」

 私はこの表現に「久遠実成の釈迦」と同質なものを感じています。また続いて以下の様に語っています。

「「父なる神」に多くの霊の子供が生まれると語っている神話がある。生命が自らを増殖させるという人間の経験になぞらえることが、この壮大な出来事を理解する唯一の方法だったのだろう。「天の王国」に数えきれない霊が突然に生まれたのだから。
このたとえで言えば、神話は究極の現実にそう遠くない。なぜなら、わたしという全体をかたちづくっている無数の霊は、宇宙的な意味でわたしの子供だからである。
自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
あなたがたの宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは、一部で言われているように物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ。同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。」

 これは久遠実成の釈迦と衆生、また衆生と仏という関係性にも近い内容が書かれていると思いました。

◆心の普遍性から考える事
 私は人の持つ心というのは、人類共通であり、それは宇宙全体にも普遍的に広がっていると考えています。確かに人類を見た時、そこには人種があり、文化を背景にした民族があり、見た目ばかりではなく性質も異なっている様に見えます。しかし奥底に共通な心があれば、そこから紡ぎ出される思考やその言葉の奥底には、普遍的なものがあるはずです。
 そうであれば「内観」と言って、心の奥底を覗き込む事で、理解されるものとは普遍的なものがあるはずで、ただその理解したものを「言葉」や「文字」で表現する際に、文化を背景にした表現になってしまう事から、別のモノに見えてしまう事はあると思うのです。
 そこから考えて行けば、法華経を突き詰めて読み込む事と、西欧文化の中で育ったニール氏等が理解した事は、共通な事があっても何ら不思議ではないと思います。

 私は以前に「創価学会の正義こそ真実である」と信じていた時期もありましたが、その組織から距離を置き、世の中の様々な思想に触れる中で、¥創価学会のみが正義」という事ではなく、実は普遍的な事に触れた人というのは、この世界に多くいるのでは無いかと考える様になったのです。

(続く)


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法華経の思想性について(11)

2020年03月26日 11時07分52秒 | 仏教関連
 昨日、東京都の小池都知事の会見が行われました。内容は武漢肺炎が東京都内で急速に拡大する兆候があった事から、週末の不要不急の外出自粛、また企業についてもテレワークの実姉を要請するというものでした。



 最近この武漢肺炎により、今まで見た事もない情景を見せられています。ヨーロッパを中心とした大都市のロックダウン(都市封鎖)、また教会内に並べられる棺桶や、その棺桶を搬送する軍用車両。(これらは主にイタリアですが)
 終末思想(ハルマゲドン)は、過去からヤソ教(キリスト教やイスラム教、ユダヤ教)では言われていましたが、少なくとも私の親の活躍した時代では、この様な世界の情景を見た事は無いでしょう。恐らくこういった感覚を持った人は今の世界に多くいると思います。
 以前に心理学者のカール・グスタフ・ユング氏は、第一次世界大戦の予兆を、自らの夢判断で予知していたという話を聞いた事があります。それは集団深層心理にあふれている不安の情景が、自らの夢にも反映されたものと分析をしていたと思いますが、世界中の人々の心の中に、今回の武漢肺炎による恐怖がどの様に影響を与えていくのか。それによって、今後の世界の動きも変わってくるのではないでしょうか。

 この時代だからこそ、私は大乗仏教の「最高峰」と言われる法華経の経典を、自分自身で読み進め、その内容を公開する事にも意味があると思っています。まあ、極めて個人的な思いでしかありませんが。

 という事で、今回も法華経の内容について読み進めていきたいと思います。

◆滅後の弘教について
 日蓮正宗や創価学会では「広宣流布」という事を語らってきました。戦後の日本の中で「折伏(しゃくふく)」なんていう言葉が認知されたのは、主に創価学会が行ってきた強引な組織拡大の活動によるものですが、この「折伏」も「広宣流布」の活動の一環で行われてきたものです。そしてこの「広宣流布」という言葉が書かれているのが法華経なのです。

 それでは法華経の中で、広宣流布という事をどの様に語っているか、今回はその部分の内容となります。

 釈迦の滅後の弘教の規範である不軽菩薩の姿を説いた常不軽菩薩品第二十の後、如来神力品第二十一で、地涌の菩薩達は釈迦滅後の弘教を釈迦に誓います。すると釈迦は嘱累品第二十二でそれら地涌の菩薩の頭をなでながら滅後の弘教を託します。

 また虚空会はこの嘱累品第二十二で散会となり、説法の場所は霊鷲山に戻ります。

 虚空会が終わり、その後いきなり宿王華菩薩というのが登場し、釈迦に対して薬王菩薩が娑婆世界で遊行している因縁について質問をします。釈迦はこの宿王華菩薩の質問に答えて、薬王菩薩は過去に日月浄明徳如来の下で、一切衆生熹見菩薩として自らの体に油を塗って火をつけて供養した事を述べ、その功徳により日月浄明徳如来から付嘱(後世を託される)された事を明かします。

 そして釈迦はここで宿王華菩薩に対して広宣流布について語ります。

「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。」

 創価学会では、末法という時代(釈迦が滅してから二千年以降)に広宣流布を託されたのは地涌の菩薩であるという事を言いますが、法華経において広宣流布を託されたのは宿王華菩薩でした。

 確かに従地涌出品より以前、様々な菩薩が釈迦滅後の弘教を求めましたが、その場で釈迦はそれらを退けていました。そして嘱累品ではそれら地涌の菩薩に対して、滅後の弘教を託しましたが、この薬王菩薩本事品では、名もない宿王華菩薩に対して「後後の五百歳」と末法を指向し、そこでの広宣流布を託しています。

 この事を考えてみると、日蓮正宗で語っていた「本未有善(下種を受けていない人達)」だから、末法には地涌の菩薩だけが、日蓮大聖人の持つ下種仏法を広げるという広宣流布観とは違う事が解ります。

 確かに釈迦は法華経の展開で、地涌の菩薩に対して付嘱をしましたが、そこで他の菩薩達を退けてはいないのです。

 ここから考えてみても、実は日蓮正宗や創価学会が唱えていた弘教観というのは、法華経とは異なる事が理解できるのではないでしょうか。

(続く)

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法華経の思想性について(10)

2020年03月25日 10時02分41秒 | 仏教関連
 武漢肺炎は世界100か国以上に感染拡大しました。これはまごう事なきパンデミック状態です。ヨーロッパ各国では人の往来を制限し、経済活動に制限がかかっていて、人々は日々の生活にかなりの支障をきたしている様です。そんな中、各国政府は国民を守るために経済的な緊急支援を行っている状況です。
 しかし日本では、「経済対策」という事で、何故か商品券や旅行の助成などに政府は財政出動を考えているようで、失業等については一時貸付制度で食いつなげと言っています。



 こういった日本政府の行動に私は疑問を禁じ得ないのですが、あまり疑問に感じている人はいない様ですね。報道もどちらかというと、この動きに肯定的な内容が多い様に思いました。何故なら麻生大臣の言葉に反論するマスコミが居なかったですよね。

 この日本の動きですが、私は若い頃には創価学会の広宣流布という言葉を信じ、選挙活動もしましたが、その他にも様々な活動に時間を割いてきました。そしてその根底にあった思いとは「仏国土」と呼んでいましたが、日本人や世界の人々が安穏で平和に生きていける社会の構築という事でした。
 そんな活動の結果、創価学会の政治部門の公明党は政権与党に入り、大臣も輩出する様になりましたが、それが今の日本の実態です。私が創価学会の活動に疑問をもつ一つの切っ掛けが、この事からでした。

 公明党が政権与党に入っても、国民の生活は困窮の一途ではないか。
 何故、創価学会の活動家幹部は、こういった基本的で且つわかりやすい事に対して、何ら意見をいわずに、信濃町や公明党に反論もせず容認し、しかも放置していながら集票活動に必死となり役立たずの議員を国政に送り続けているのか。

 大いなる疑問でした。
 そして、その原因を創価学会の思想面に求めて調べてみたら、これが明確に理解出来ました。

 このブログに書いている事は、そういう事について、私見ですが書かせてもらっています。お時間のある方は読んでみてください。

 今回も法華経の思想性について書き進めていきます。

◆滅後の弘教の姿
 如来寿量品では「久遠の釈迦」としての言葉を語っていますが、それ以降の説法では「久遠の釈迦」を明かした後の在世の釈迦として言葉を語っていきます。そして滅後(入滅後)の法華経の弘教の事について語っていきます。その一つの例として語らうのは「不軽菩薩」としての過去世の姿です。

 この不軽菩薩の事が説かれているのは常不軽菩薩品第二十です。この話は、大昔に威音王仏という仏が居て、その像法時代に不軽菩薩というのが居たという事から始まります。この菩薩は人々に対して以下の言葉を述べて礼拝したと言います。

「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと。」

 これは別名で二十四文字の法華経とも呼ばれていますが、内容としてはこの様な事です。

「私は貴方たちを尊敬します。けして軽んじる事は致しません。何故ならばあなた達は菩薩の道を行じた後に仏となるからです。」

 この様な言葉を述べながら人々を礼拝して回りましたが、人々はそんな不軽菩薩に対して「この坊主は私達を軽んじないと言いながら、私達が成仏するなどと嘘の約束を言って回るのはとんでもない事だ!」と言い、不軽菩薩に対して罵詈雑言して、石礫や杖などで殴り掛かる人も居た様です。

 しかし不軽菩薩は、それらの攻撃をうまくかわしながら、ひたすら礼拝行を続けたと言います。そしてこの不軽菩薩の行動こそが、釈迦滅後の弘教の規範という事とされたのです。

 ここで考えなければいけないのは、不軽菩薩は何も小難しい言葉を語っていないという点と、迫害する側の人々は「自分達が仏になれるはずはない」という思い込みです。また迫害についても不軽菩薩は「莞爾として受けきる」という姿勢ではなく、それらの迫害を軽やかに避けながら、二十四文字の法華経を人々に対して「語り続けた」という事です。いいですか、二十四文字の法華経を「数多く唱えた」という事ではなく「語り続けた」という事なのです。

 釈迦は法華経の心を「十如是」「二乗作仏」「久遠実成」という事で、妙法蓮華経で説きました。そして不軽菩薩は、その心を二十四文字の法華経という形で人々に語り続けたのです。

 そうであれば、仏教でいう弘教とはどういう事をするべきなのか。そこは考え直さなければならないのではありませんか?

 単に「南無妙法蓮華経」という言葉を唱えるのか、それを数多く唱える事を重要視するのか、はたまた文字曼荼羅をばらまく事なのか。

 私は違うと思うのですけどね。

 いま創価学会の活動家や、元活動家で正しい創価学会の復帰を求める人、また宗門で信心をする人達は、なにやら宗教行為やそれに付随する聖堰を弘める事を「広宣流布」と呼んでいますが、実は広宣流布とは、久遠実成で語られている様な心のしくみを理解して、実社会の中で、一人ひとりが自分の言葉で語り・弘めていく事を求めているのではありませんか?

 私は常に「自分の言葉で語る」という事が大事だと考えているのは、こういった不軽菩薩の行動を読んで感じたからなのです。

 やれ「化義」だしきたりだ、組織の都合だ。
 そんなことは一切関係ないと思います。

(続く)

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法華経の思想性について(9)

2020年03月19日 18時09分41秒 | 仏教関連
 法華経の思想性について、如来寿量品を更に読み続けていきたいと思います。ここまで一念三千と久遠実成について話を進めてきました。そこで見えてきたのは、仏という存在の展開、成仏という考え方の転換、そして自分と他者の関係性について新たな観点を与えるものが、この如来寿量品にはあったと私は思っています。
 またそういう如来寿量品の思想性を、実は破壊しているのが、富士大石寺第二十六代貫首の堅樹院日寛師の教学である事、そして創価学会や宗門に現れている様々な問題性の根源には、この堅樹院日寛師の教学が影響を与えているのでは無いかと私は考えていて、その点についても書かせていもらいました。

 この如来寿量品には、それだけではありません。
 実は死生観についても、ここでは述べられているのですが、今回はその事について書いてみたいと思います。

◆如来の寿命について
 人の一生とは、現在、日本では「人生八十年」と言われています。しかしある研究によれば人間は肉体的には百二十歳までは本来生きていけると言われています。ただどの道、人間は何時かは死ぬ存在である事には変わりありません。

 如来寿量品では釈迦は五百塵点劫から、常にこの娑婆世界(現実世界)で説法教化してきたと語られています。

「所作の仏事未だ曾て暫くも廃せず。是の如く我成仏してより已来甚だ大に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり。」

 つまりここで久遠実成の釈迦の寿命とは無量阿僧祇劫であり、いまだ滅する(入滅)する事が無いと語り、この様な菩薩行を行う事で得た寿命も、五百塵点劫を更に倍する寿命を得ていると述べるのです。これを端的に言えば、久遠実成の釈迦の寿命は「無始無終(始まりも無ければ終わりも無い)」と言う事なのでしょう。

 ここから私達自身も無始無終で永遠性を持つという事と、読み取る向きもありますが、それについては後述する事として、ここでは「久遠実成の釈迦」という存在はどういうものかという事を、まずは考えてみる必要があると思います。

 先の記事にも書きましたが、この久遠実成の釈迦とは、ある時には仏として姿を現わし、またある時にはその仏の下で仕え、修行に励む人として現れるというのです。そして修行した人の中には開悟して仏になる人もいる。つまりこれは、この娑婆世界(現実社会)に現れる「法を求める」という生命活動全般の姿であるという見方も出来ると思いますが、いかがでしょうか。そしてそういった活動は止む事なく続いていると言うのです。

「然るに今実の滅度に非れども、而も便ち唱えて当に滅度を取るべしと言う。如来是の方便を以て衆生を教化す。所以は何ん、若し仏久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず。貧窮下賎にして五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん。若し如来常に在って滅せずと見ば、便ち・恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わず。是の故に如来方便を以て説く、比丘当に知るべし、諸仏の出世には値遇すべきこと難し。」

 ここで久遠実成の釈迦は、滅度(入滅)では無いけれども、あえて方便で入滅するというのです。入滅とは「人の死」ですが、その死をもって人を教化するというのです。これはつまり「人の死」の意義について語っている部分だと私は思います。
 一義的には、釈迦という指導者は決して死ぬ事はないのですが、それを言うと人々はその指導者の下、修行に励まなくなってしまうので、あえて時期を切って、私は亡くなるという事で、そこに恋慕の心を起こしていくという事を語っています。
 しかしもう一つの観点でこの事を考えると、人の一生とは様々な時間的な長短の差はありますが、必ず人は死を迎える。つまり人生とはすべてを失う時限爆弾を抱えているというものですが、それもその人にとっては「方便」であるという事になるのかもしれません。人生とは「死」があるからこそ、そこから翻り、如何にこの限られた生の時間を、自分自身として有意義に意味ある生き方をしていくのか、真剣に考える切っ掛けともなるという事かもしれません。

 もし安易に「自分の人生には死後の世界もあり、自分という存在はこの先も続く事なのだ」という事を信じたり、また「老いて死ぬこと」を真面目に考えないのであれば、人生、貴重な時間を浪費するという事にもつながってしまうのかもしれません。

◆仏と衆生の関係
 久遠実成の釈迦は、無始無終の存在であり、その久遠実成の釈迦は仏としてあらわれ人々に法を説き、そしてもう一方で久遠実成の釈迦は、法を求める衆生としてあらわれ、仏から教えを受け仏となる。つまり衆生も仏も、ともに根源的には久遠実成の釈迦の活動という事、これが如来寿量品から読み取れます。そしてその活動はこの娑婆世界では一瞬たりとも止む事なく続いているというのです。

 ここで一念三千という天台智顗の唱えた論理を考えると、十界互俱という事で九界(地獄から菩薩界)にも仏界は具わるし、仏界にも九界が具わると述べていました。この事を如来寿量品ではより具体的に述べているやに思えます。そして仏が法を説くというのは、この心の形と言ってよいのでしょうか、そういった事を人々が理解する様に様々な方便を述べながら教導しているという事なのかと思います。

(続く)

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法華経の思想性について(8)

2020年03月16日 17時30分50秒 | 仏教関連
 さて、前の記事で如来寿量品について少し説明しました。この如来寿量品には様々な意義が込められていて、それは大乗仏教の中で最も重要な事であると言われています。その事について今回の記事で少し考察してみたいと思います。

◆成仏観の大転換
 五百塵点劫という、途方もない遠い昔に釈迦は既に成仏をしていたという事。これは仏教の中で言う成仏という観点に対して、大きな転換を与える考えだと思います。

 まず釈迦の観点で考えてみます。
 釈迦はコーサラ国の属国の釈迦族の王子として、約三千年近く前にこの世界に誕生しました。生まれた時に母親に先立たれた事も影響してか、青年に成長した釈迦は内省的な若者であったと思います。だから王子という立場で何不自由の無い生活に満足せず、「生老病死」という人生の根源的な問題の解決を決意して出家したのでしょう。伝説では29歳で出家してのち、苦行林の修行を経て、菩提樹の下で瞑想し、そこで「生老病死」の解決する「悟り」を得たと言います。その時、釈迦は35歳。この時から悟りを得た人として「仏陀」と呼ばれたのです。

 この29歳出家、35歳成道というのは、仏教では一般的な捉え方です。そして仏教を信奉した人達は、皆が「悟り(成仏)」という事を求め修行に励んできたともいえるでしょう。

 大乗仏教に於いてもそれは同様です。諸説ありますが、大乗仏教とは紀元前後(西暦0年前後)に興り、成立したのは紀元一世紀末と言われています(これには諸説ありますが、ここではこの年代として話を進めます)。
 大乗仏教とは、大きく言えばそれまでの部派仏教の出家者を中心とした原始仏教とは異なり、仏教の中で釈迦の過去世の姿として語り継がれていたジャータカ伝説をもとに、釈迦も過去世で修行をした結果、今世で成仏出来たのだから、全ての人は仏になる事が出来る。そしてこの宇宙には多くの仏が存在するという教えです。
 ただしやはり仏になる(成仏する)ためには、暦劫修行と言いますが、生まれる度に修行を重ね、長い時間を経て解脱をして仏になるというものでした。

 この大乗仏教の中で、法華経が成立しはじめたのは、大乗仏教が成立したあたりと言われていますが、この法華経についてどの様に成立したのか、そこは明確ではありません。一説には仏教徒の中で、釈迦から直接説法を受けたいというムーヴメントが興り、そこでは人々が釈迦に会う為に瞑想したと言います。そしてその中から「瞑想中にお釈迦様にあって、そこではこういう内容の話を聞いた」というものが多くあったと言います。これを今でいう「メモ書き」の様なもので記録し、それらが集まり体系化する中で、法華経は成立したというのです。

 ではこの法華経の如来寿量品で明かされた成仏とは、どういう事なんでしょうか。五百塵点劫という途方もない過去に、釈迦は既に成仏していたという事になると、ジャータカ伝説等で語られていた過去世の釈迦の求道の姿も、実は成仏した後の姿であり、釈迦は成仏した後でも生きる上での様々な苦悩を感じ、法を求め、場合によっては身を供養してきたという事になります。

 それまでは、長い時間。それこそ幾つも生まれ変わる中で修行した「結果」が「成仏」という姿であったはずが、既に「成仏」した姿が、その後の苦悩の中に法を求め、修行していく姿にであったという事になります。

 ここから言えるのは、単に人生の苦悩「生老病死」を克服して、超絶した存在が「仏」という事ではなく、生きる事に苦悩し、そこに意味を求め、法を求めながら人々の中で生きていく存在が「仏」となったのです。釈迦の過去世の姿は仏教の中で法を求める人の姿でもあり、そこから考えると、私達一人ひとりも「元来から仏である」という事を示す事にもなるのです。

 この事を一言で言えば「目的から存在自体」へと、仏という事が転換した。そういう事なのかもしれません。

◆仏と衆生という事について
 法華経の如来寿量品というのは、読むほどに、とても不可思議な内容なのです。この如来寿量品を説法している釈迦とは、法華経の方便品第二から説法している釈迦であり、それは「始成正覚(この世界で悟りを開いた仏)」の釈迦でした。
 しかし一方で、如来寿量品の釈迦は久遠実成の釈迦であり、過去世に「燃燈仏」であった事もあるという仏で、五百塵点劫の昔に成仏してから様々な仏としてこの世界で説法してきた事を明かします。
 ここから考えると、例えば燃燈仏として説法していた釈迦も、実は久遠実成の釈迦なのですが、その燃燈仏から法を聞き、来世に釈迦仏として成仏する儒童梵士(じゅどうぼんし)も突き詰めていえば久遠実成の釈迦なのです。

 こうなると「久遠実成の釈迦」というのは、一体ぜんたい、どの様な存在なのでしょうか。

 ここで思う事ですが、日本の仏教では「本地垂迹説」というのがあります。これは仏教が日本国内で興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え方の事です。
 すこし内容は異なりますが、久遠実成の釈迦と、今から三千年近く前にインドに生誕した釈迦は、ある意味で「本地垂迹」という関係性に近いものがあるのではないでしょうか。

 自分と他者、そして仏という関係を考える上で、実は参考になる書籍として、アメリカのニール・ドナルド・ウォルッシュ氏が書いた「神との対話」というものがありますので、少しそちらを見てみます。

◆「神との対話」に見る神との関係性
 この「神との対話」というものは、題名だけみるとキリスト教的な内容では無いかと思うかもしれません。しかし実は著者のニール氏の内省的な経験に基づいた内容が書き記されているのです。ニール氏は自分自身の人生が行き詰まり、その問いを自分の心の内面に向ける中で、この神との対話が始まったと言います。

 この著書の中で神と人間との関係性について、以下の様な話が載っています。

「あなたがたの宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは、一部で言われているように物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ。同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。」」

 ここでは神の語った話として、神と人間は同質であると述べています。この「神との対話」で言う神とは以下の様なものだと言うのです。

「「まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。他には何もなかった。その、「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」ー、あるのはそれだけで、ほかには何もないから。他に何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだった。」」

 ここでいう「まずはじめに」と言う時は、この宇宙の根源的は始まりを指しており、そこでは「存在のすべて」という事で、神とは原初の「存在」であったというのです。それは自分自身しか存在しておらず、自分自身が何者なのかを知る事が出来ない。そこで他にも自分があれば、自分自身を知る事が出来るという事で、もう一つの自分という存在を作り出したというのです。他者が存在する事で、自分自身への理解を得る事が出来る。そしてより多くの経験を得る為に、より自分の存在を増やした先に、今の人の持つ意識(心・自分自身)があるというのです。

 だから人が感じる「自分」と、神という存在は同質であるというのです。またその先にあるのは、自分と他者も、共に神という存在と同じ存在であると言う事でした。

◆自分と他者の関係性
 仏と衆生という関係性の話から、少し脇道にそれて「神との対話」という書籍の話を紹介してきましたが、法華経の如来寿量品で説かれた重要な事は、「自分と他者との分断」という思想への転換ではないかと思うのです。

 久遠実成の釈迦は燃燈仏

 人類社会の悲劇の一つに、「自分と他者の分離感」があると思います。簡単に言えば「自分は自分、他人は他人」。そして他者の痛みへの感受性の弱体化、もしくは著しい欠如。こういう事が様々な問題の根源にあるという事は無いでしょうか。

 ここで「神との対話」を参考として引用しましたが、この神との対話と法華経には共通点があります。それは共に「内観(自分の心の中を見つめる)」とい事から、共に導き出している言葉だという事です。つまり人の心の奥底を追求していくと、自分と他者は共に同質であり、そこに分断というのは実は存在しない。そういう事に行き着いたのではないかと思うのです。

 法華経の真意というのは、そういう所にあるのではないか。私は如来寿量品の久遠実成を考えてみた時、そういう事を感じました。

(続く)

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