自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

宿業について

2021年01月21日 11時24分14秒 | 日蓮仏法再考
 今日、朝に近所を歩いていたら、近所の小川の川面が凍ってました。やはり寒いんですね。一月も半ばを過ぎましたが、まだまだ冷え込む日が続きそうです。体調管理には十分に気を付けて、日々過ごして行きたいものですね。

 さて、今回は「宿業」という事について、書いてみたいと思います。この宿業とは「宿る業」と書き、人の中に宿る過去の行いの記憶という事と言えるでしょう。ここで言う過去とは、何も今生きてきた時間だけを指すわけではなく、過去世という、いわゆる「前世」からの行いも入ると言われています。
 また仏教では「業因業果」という事で、過去の自分の行いの結果が、今の自分に降りかかるとも考えていて、その行いの因を「業」と呼んでいます。先に記憶という言葉を使いましたが、業というのは行った行為の事で、その事から宿る業という事から「宿業」という単語もあるのでしょう。



 日蓮はこの事について、以下の様に述べています。

「何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い」
(佐渡御書)

 ここでは烏の色が黒いのも、鷺の色が白いのも、先業(宿業)によると述べています。
 この宿業という考え方は仏教独自の考え方かと言うと、そうではなく、これはそもそもバラモン教(ヒンドゥー教)の考え方から来ているのです。よく創価学会では「因果の法則」とか「生命の法則」なんて呼んでいて、如何にも日蓮大聖人仏法の教えという様な事を言いますが、実態としては日本に伝来した仏教にあるこの様な業因業果論の大本は、そもそもインドにあったバラモン教から来ている事を、まずは理解すべきです。

 インドで現在も残っている「カースト制度」の根っこにも、この宿業論があって、そこから派生した制度です。宿業あるものは、生まれ変わるごとに修行を重ねひとつひとつ、その宿業を消していかないといけない、その様に考えられており、現在貧しい人、卑しい人は過去にその様な行いをしてきた報いであると考えているのです。

 では果たして仏教を説いた釈迦は、そんな事を認めていたのでしょうか。

 大乗仏教でも「暦劫修行」という事で、長きに渡り様々な仏のもとで修行に励み、そこで徳を積み業を消し去る事で成仏するという様な思想があります。また人は過去世に盗みをすれば、今世では貧困の家に生まれ、過去世で謗法を行えば、今世では邪見の家に生まれる。これはまさにバラモン教でいう「輪廻転生」の概念そのままではないでしょうか。

 しかし法華経の如来寿量品では、人は元来から仏の心を持ち、その仏からある意味で派生した存在である事を明かしました。そこから考えると、すでに宿業なんていう概念は壊されてしまったと言っても良いでしょう。

 久遠実成の釈尊は、仏の姿として現れもしますが、その仏のもとで修行をする衆生も、仏同様に久遠実成の釈尊だという思想なのですから、そこに「過去世の宿業」とか、業因業果的な思想は既にありません。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
(開目抄上)

 以前にも紹介しましたが、始成正覚(この世界で釈迦は悟りを開いて仏になった)という概念を否定した事で、四教(法華経以外の教え)の成仏という概念は壊され、この従来の成仏という概念を壊すという事は、四教で説く成仏の為の修行や考え方も壊したと、この開目抄で日蓮は述べています。

 つまり法華経の観点から見れば、宿業論なんて言うのは「仮(方便)の教え」程度のものであり、釈迦の本心ではないという事にもなるのではないでしょうか。

 そして日蓮も法華経の根本義である「久遠実成」を理解していた事から、実のところ「宿業論」というのは、本心では既に認めていなかったとみる事が、当然かと思います。しかしそんな事を当時、仏教を篤く信じていた人達に語っても、なかなか理解できない事や、人々を導くために、あえて語っていたという風に理解するのが妥当だと思うのです。

 でも御書を「御金言」なんて呼んで、それこそ背景や大意を理解せず、それぞれが「真実の言葉」なんて鵜呑みに解釈する人達には、この事は理解できないし、否定される内容なのかもしれませんね。

 ちなみに欧米で研究が進んでいる「臨死体験学」の中では、仏教のカルマ(業)というのは、この世界に生まれ、様々な事を経験するために、あえて自分で選択してきたものであると言われています。これは仏教の中にある「願兼於業」という考え方に近しいものです。仏教の「願兼於業」とは、本来、悩みや苦しみの無い菩薩が、この娑婆世界で人々を導き、法を説くために、あえて業を作って生まれてくると言う概念です。

 私は業という概念を認めるにしても、こちらの方がしっくりくるんですけどね。

 思うに「宿業」という言葉は否定されるべき概念だと思います。人はこの宿業とか業という言葉により、ありもしない過去世に縛られ、この人生をも自縄自縛にしてしまいます。そうではなく、自分の人生で巡りあう様々な困難とは、過去世の悪い行いが原因ではなく、自分自身で選択してくた苦しみであると理解した方が、人生、より価値的に生きて行けるのではないでしょうか。

 そんな苦難でも、生きてさえいれば解決できる。そして解決した経験は、自分の人生を飾る宝物になる。

 皆さんはどの様に思いますか?


コメント

法華経にある広宣流布の意義

2021年01月19日 09時17分55秒 | 日蓮仏法再考
 今日も冷え込む朝でした。普段は家籠もりで仕事をしていますが、今日は客先での作業があり、通勤電車に乗ってます。再度の緊急事態宣言の最中ですが、仕事は止められないので、必要最低限の行動で取り組んでいます。

 しかし飲食業を始め、多く人達は経済活動が制限され、苦悩に喘いでいます。ほんとに今の人類社会は新型コロナに過剰反応していますよね。確かに新型コロナウイルス疾患は重篤化する可能性もありますが、しっかりと体調管理して、接触関係に気を配れば、まだ感染をコントロール出来ると思うのです。しかし今の世の中、過剰反応しては居ますが正確な情報を得られていない人が多いのかもしれません。そういう意味で私は「社会のサイトカインストーム」だと感じているのです。

 まあサバイバルな時代になってしまったと言うべきかもしれません。

 さて、今回の記事は法華経にある「広宣流布」の意義について少し思う事を書いてみます。

 日蓮正宗が考えていた広宣流布観とは、三大秘法禀承事という御書にある国になる事でした。

「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」

 ここでは戒壇(大本尊を安置して修行する場所)を建立する条件について述べているのです。
 まず始めに「王法仏法に冥じ」とある様に、信じる教えの中に国の法律の考え方が交じり合い、「仏法王法に合して」と仏法と法律が一体となった状況になる事だと原文では読み取れてしまいます。しかしこれでは仏法自体が国の法律になる様に思えてしまい、結果として「王仏顕合」となってしまいます。それこそイラン等の様にイスラム国家がイスラム教を国の法律として位置づけしていると同じ様な事になってしまいます。それではあからさまでイカンと思ったのかも知れませんね、宗門の歴史のどこかにいた人達は。その事もあってか日蓮正宗ではこの部分を「仏法王法に冥じ」と国の法律の基本的な考え方に仏法があり、「王法仏法に合して」と法律の精神と仏法の精神が同じ様な状態になる、いわゆる「王仏冥合」という言葉を造り出しました。

 そしてそんな社会となった時、「有徳王と覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と、仏法説話の有徳王と覚徳比丘にある状況になると言うのです。

 ちなみに有徳王と覚徳比丘の説話では、国中が誹謗の人達で充満する中、正しい仏法を修行していた覚徳比丘が迫害をされる訳です。するとその国の有徳王という王様が、兵士を連れて覚徳比丘を守るために大戦をして、最後には王様は全身に深手を負って亡くなってしまうという説話です。変ですね、社会に仏法が根を張る時代なのに、国中に謗法の輩が充満して、正しい教えを修行している僧侶が殺されそうになる状況となり、それを王様が武力を持って守る状況になるというのですから、今一つ辻褄が合わなくなってしまいます。

 顕正会では、この事を「護法の精神が漲った状況」と、また少し変な解釈をしていましたが、恐らく宗門としてもその様に考えていたのでしょう。
 そしてそんな社会情勢になってから、勅宣(天皇の詔)と御教書(時の幕府からの命令書)を持って、一番良い場所に戒壇は建立されるのだと解釈していたのです。

 だから初代牧口会長や、二代目戸田会長も「国立戒壇」を目指して、まずは人を増やす事に専念したんでしょう。そして自分達の組織の人数が増えれば、日本の社会はこの三大秘法抄にある通りに平和で安穏な国になると信じていたのです。

 この事は「創価教育学会本部関係者の治安維持法違反事件検挙」という表題の尋問調書の中で、滔々と牧口会長は主張をしていた事が記録されています。ちなみにこの尋問調書は「特高月報」という公文書に記載されているので、偽書ではありません。れっきとした公式文書です。

 しかし現実は全く違いましたね。一昔前には創価学会は公称800万世帯で、得票数は900万票近くの勢力まで行きましたが、その結果として出来上がったのが今の日本社会です。創価学会の幹部連中は戦時中の大本営発表よろしく、世界に称賛され拡大した創価学会、そして陸続と人材が排出される創価学会をアピールしてますが、現在では青年部も絶滅危惧種の様な希少な存在となり、組織の末端は老人会の寄り合いよろしくの状態。幹部は役職を複数兼任して、皆が組織活動で疲弊している状況です。

 何が間違えたのか。少し心ある人達は考えるでしょう。
 私の先輩で学会活動から抜けた人達は一様に言います。「人間味がなくなった」「官僚主義が横行した」「池田先生という原点を見失った」。様々な意見がありますが、私が思うに、有り体に言えばそもそもの思想が間違えていたのです。そしてその間違えた思想を背景にして醸成された組織文化が狂っているから、こんな組織になってしまったのです。

 そしてそんな狂った組織が熱烈に応援して国会議員を送り出し、その議員達も日本の権力層の補完勢力となった結果が、今の日本社会なのです。

 こんな事、少し考えたら判るではありませんか。
 では何を一体間違えたのか。

 それを理解するには、そもそも法華経の「広宣流布」とはどういった考えなのか、そこを確認する必要があります。ここからは私自身が解釈した内容について少し書いてみます。

 まず法華経は何を説いたのか、それは「久遠実成」という事を明かした事につきると私は考えています。これについては前回の記事にも書きましたが、それは成仏という従来の考え方、また仏の存在の考え方の大転換です。そして人は差別分断という事から、相互理解と多様性理解が本筋である事を明かしました。

 悩み法を求め修行する人も、教化する仏も共に「久遠実成の釈迦」の姿という事は、その事を指し示した事でしょう。

 だから法華経を弘めるというのは、この「久遠実成」で明かされた仏と私達の関係性を弘めるという事だと私は理解しました。(まあ我見と言われても反論はしません。確かに私見という「我見」の論理です)

 そして法華経の薬王菩薩本事品第二十三で宿王華菩薩という、無名の菩薩に対して釈迦は語り掛けているのです。

「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。
 我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、
 断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を
 得せしむることなかれ。
 宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。」

 ここがとても重要な事だと思うのです。広宣流布という言葉を釈迦は「久遠の弟子」である地涌の菩薩には語っていません。あくまでも会座に居た無名の菩薩に対して語り掛けたのです。

 そしてここで「広宣流布して断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。」とある様に、人々の間でこの法華経の思想が途切れ、その結果、人々を分断し食い荒らす魔民や悪鬼などに、動き回る様な隙を与えてはならないと述べています。

 つまり常に人々の中に啓蒙し、この法華経の思想が絶えない様にしなければならないと宿王華菩薩に語り掛けているのです。

 釈迦は地涌の菩薩には、滅後の弘教を託しました。これはある意味で仏教の本筋を連綿と受け継ぐ事を意味しているのかもしれませんが、広宣流布とはそんな地涌の菩薩が行うのではなく、その傍流とも言える人達が行う事だとも考えられませんか?

 傍流の人達が語らう為には、仏教の教えというのは常に時代に即した教えでなくてはいけません。そして即した教えを説くのは地涌の菩薩の役割であり、その事と連動して、その地涌の菩薩の周囲に、法華経の精神を常に啓蒙しつづける人達が出現する事が広宣流布なのではないかと、私は考えているのです。

 そういった動きとなれば、社会の中では分断とか差別という、人々を苦しめる動きは起こらなくなるのかもしれません。

 いかがでしょうか。
 これは私の個人的な私見ですが、少なくとも日蓮正宗の考えていた事、そしてそれを受けて活動を展開してきた創価学会の動きというのは、そもそも法華経の本義から外れているのではないでしょうか。

 単なる「人集め」とか「権力層への布教」、ましてや日蓮の文字曼荼羅のばら撒きが広宣流布では無いのではありませんか?

 日蓮とか仏法とか語る前に、そもそも論を見直すときに来ていると、私は常に考えているのですが、未だにそこまで辿り着いていない事が残念でなりません。

コメント

私は罰論が大嫌いです

2021年01月17日 10時52分20秒 | 日蓮仏法再考
 世の中は様々に動いている様ですが、今の時代ほど真実が解り易く、また騙しやすい時代というのは無いのかもしれません。これ、何気に背反する事を言っている言葉ですが、今の人類社会はこの状況ではないかと思うのです。

 よく「人を隠すには人込みに」という言葉がありますが、物事の真実というのも実は結構身近にあると思うのです。ただこの「物事の真実」を隠したい人達は、その周辺に似たような「偽情報」を多量にばらまき、それを隠蔽しようと考えるでしょう。今のネット社会、情報を下手に消せば消したで騒がれますので、削除して隠すよりも似た情報を多量にばらまく事で、逆に隠蔽出来るという事なのでしょう。

 これはUFO関連の情報かく乱に、CIAが採用した手法という話でもありましたが、日本語で言えば「玉石混在」させる事で見えなくさせてしまうという事ですね。

 ですから身近にある「真実」を知るのは、自分自身の「情報リテラシー」を磨く以外に無い時代に入ったとも言えるのではないでしょうか。私はその様に思っているのです。

 さて話題はガラリと変えて今日の本題。
 昨年から始まった新型コロナウィルス禍を「総罰(全体が受ける罰)」とする言葉が、今の時代でも多く見受けられますね。これは十年前の東日本大震災でも同じ言葉が乱れ飛びました。

 この言葉を好んで利用するのは、創価学会や日蓮正宗関係の門信徒や元・門信徒の人達が殆どです。


 この罰ですが、創価学会では「仏法」という法に乗っ取らない言動をする事で、その人自身に様々な不利益が起きる事を罰と呼んでいますが、これは「法罰」に属するものでしょう。しかし日蓮の御書を検索すると「法罰」というのは一か所にしか見つかりません。またこの一つの御書というのが「産湯相承書」という、これまた後世の偽作の可能性が濃厚なものです。「仏罰」に至っても同じく御書の中には一か所しかありません。

 では日蓮は「罰論」を振りかざさなかったかと言えば、そうではなく「罰」という言葉を検索すると山ほど出てきます。だから日蓮も罰論を徹底して使っていた事もあり、結果として創価学会や日蓮正宗では「罰」という言葉を多用したりもするのでしょう。

 いやな思想ですね。

 私は十年前の東日本大震災についても、また現在の新型コロナウィルス禍についても「罰論」で論ずる事はしていません。「罰」というのは「間違いを起こした」という事に対いする「罰(不利益)」という意味となります。これには対語として「正しい行い」をすると「功徳(利益)」という事も指す事になるのですが、世の中で起きる事は、正しいとか間違えているという単純な事では無いでしょう。これには「正義」と「悪」の二元論に通じる思考が内在していますが、「正義」と「悪」が相対的にある事と同様に「罰」と「功徳」も所詮は相対的な事でしかありません。

 人生の中で「悪い出来事」というのは沢山あります。しかし長い人生を振り返ってみると、その悪い出来事という経験があればこそ、後に人生の大事な事に気付く事も沢山あります。また逆に「良い出来事」という事の裏で、足元をすくわれてしまい、人生どん底に陥る事も沢山あります。

 「罰論」とは、そういう人生の複雑な事を見えなくして、考えない様にしてしまう論理にもなるので、安易に使うべき言葉では無い。私はその様に考えているのです。

 牧口会長や戸田会長が、日蓮の文字曼荼羅の讃文に「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破作七分」とあるのは、功徳と罰を明確に示していると語っていましたが、日蓮直筆の文字曼荼羅で、この讃文が記載されているのは極わずかな文字曼荼羅だけであり、例えば日蓮正宗の言う大本尊には、この讃文は書かれていないのです。

 またこの罰論の考え方ですが、「六道輪廻」という思想にも使われています。曰く、過去に泥棒をしたら現世は貧乏人になる。過去世に仏法誹謗を行えば邪見の家に生まれてくる。要は「宿業論」に基づいた「輪廻転生観」です。

 仏教でも、原始仏教と言われる初期仏教には、この輪廻転生という事は否定されていますが、大乗仏教に於いて輪廻転生という事は肯定されています。そしてその肯定する輪廻転生に宿業論という、いわば罰論が混じり込み、「六道輪廻」という思想が出来上がっています。

 この業因業果による輪廻転生観によって、人は様々な思考的な縛りを受けてしまいますが、それは結果としてその人の人生を雁字搦めにしてはいないでしょうか?

 そんな窮屈な思想に、人々は何故求めて縛られるんでしょうか。もう少し考えれば良いんですが、なかなかそんな鉄鎖を断ち切る事は出来ませんね。結果、宗教貴族の様な宗教屋たちに人生を奪われ、それが幸福だと信じてしまうんですから。

 罰とか功徳というのは、人間という種族を軸にした、身勝手な論理に過ぎません。人間も地球に住む他の種族の動植物の一部という観点に立つのであれば、そんな考え方は無いと理解できるはずなのです。

 少しは考えてみたらいかがでしょうか?

コメント

勤行唱題に対する一考察

2021年01月13日 22時41分14秒 | 日蓮仏法再考
 今日の昼過ぎに「化義の広宣流布」について私見を書きました。今日はもう一つ、「勤行・唱題」について思う処を書いてみます。

 私が活動家から離れた頃、幾人かの先輩からは「勤行唱題はしているよね?」という事を良く聞かれました。そして当時の私も信仰の根幹は勤行と唱題と思っていた事から「やってますよ」と答えていました。しかしその後、様々な事を調べ考えていく中で、この「勤行・唱題」という事も、単に形だけやってどれだけ意味があるのか、と思いまして、今では朝晩の勤行とか、長時間にわたる御題目を唱える事はやめたのです。



◆元々の読経の意味について
 創価学会では法華経(鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経)の方便品第二と如来寿量品第十六を読み、御題目を唱えます。だからお経を読むのは僧侶なみに上手な人も居たりしますが、人によって読み方も微妙に異なっていたりもします。

 ちなにみ方便品第二は「十如是」以降もあるのですが、そこは読誦しません。また如来寿量品第十六にも長行というのがありますが、近年になりこの長行を読む人は居なくなりました。まあ私が青年部最後の方では「SGI勤行」なんて呼んでいましたが、かなり簡略化されてしまいました。

 私が青年部時代に草創期の頃の人達に聞いたのは、当時は朝五座・夜三座で、それぞれ方便品・如来寿量品(長行、自我偈)・お題目百篇をやっていたそうで、それはそれはとても時間がかかったと聞きました。そしてそれでは生活に支障が出るという事もあり、ある程度簡略化された勤行になったと言います。そして私が教えられた時には、方便品・如来寿量品自我偈を初座・三座・四座・五座で読み、二座に関しては如来寿量品の長行も読む事とされ、それぞれの座で読経が終わった時に、それぞれ引き題目で三唱し、五座の後には唱題をするという形式になっていました。

 それでも朝の五座では二十五分~三十分、夜の三座では十五分~二十分程度の時間がかかりました。

 男子部なんてのは、夜中まで活動するので、朝の勤行は中々難しかったですね。夜に至っては、活動から帰り自宅に戻ると疲れ切り、眠ってしまい勤行を飛ばすなんて事もあったりして。そんな幹部は結構いたと思いますよ。

 もともと勤行の「座」とは、僧侶が修行として場所を変えながら読経をするという修行を模したもので、在家信徒には五座三座なんて形式ばったものは無かった様です。その僧侶の修行形式を取り入れたのは牧口会長の頃であったとも聞いています。

 ではまずこの「読経」について、本来はどの様な意味があるのか、そこは日蓮の御書の「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)」から見てみましょう。

「仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず」

 まず仏は三十二相という姿を持っていると言います。これのうち三十一相は見た目や姿の事なので、絵にかいたり仏像に表現したりする事が出来ると言います。しかし梵音声という仏の声については、見たりする事が出来ないので、絵にかいたり仏像で表現する事は出来ないと言います。

「仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」

 釈迦が亡くなった後に、絵像や木像などで仏を模して様々なものが造られましたが、全て梵音声という仏の発する声が欠けているので、結果として生身の釈迦には劣る事が明白であると言うのです。

「何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり、木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり」

 では何故、釈迦滅後の仏像と絵像や木像などで造られた仏像の功徳が、生身の釈尊と等しいと言うのか。これは当たり前の事ですが、それについては、絵像や木像の仏の前に経典を置く事で、経典が梵音声を表現する事が出来るので、三十二相が備わる事になり、結果として生身の仏と同じになるというのです。つまり経典が仏の声の代わりという事なのです。

 こういう論理なので、もし絵像や木像の仏像の前に、どの様な経典を置くのかで、実はその仏像の意味が変わるという事も、この御書には書かれています。理屈としては当たり前の事ですね。

「されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり、故に天台の釈に云く「請を受けて説く時は只是れ教の意を説く教の意は是れ仏意仏意即是れ仏智なり仏智至て深し是故に三止四請す、此の如き艱難あり余経に比するに余経は則易し」文此の釈の中に仏意と申すは色法ををさへて心法といふ釈なり、法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」

 その様な意義があるのだから、仏像の前で法華経を読む人は、その経典の文字を単なる字だと思ってはいけない。それは仏の言葉であり、それを自分自身の声で発していると捉えるべきだと、ここでは述べているのです。そうして仏像に向かう処に、仏像は生身の仏として現れるというのです。これを草木成仏と言うのだそうです。

 つまり経典を読むというのは、仏の代わりであり、経典を読む声は仏の梵音声だと思う事が大事という事ですね。だから勤行とは仏の説法の場にいると同じ事だと言う事なのでしょう。

◆経典の意味を理解する
 この様な意義があるのであれば、当然、読経する経典の意義を理解して読む必要が本来はあるはずです。私達が読んでいるのは漢文ですね。そして漢文を勤行で呼んでいますが、果たして学会員の中で、経典に書かれている意義を理解して読んでいる人は、一体、どれだけいるのでしょうか?

 まずは居ませんよね。そもそも「にーじーせーそん、じゅーさんまい、あんじょーにーきーご」なんて読みますが、そこにはどんな意義が込められているのか、知らない人が殆どでしょう。

 意義を知らずに漢字を音読や訓読で読み、祈る。これは「呪い(まじない)」の呪文と同じではありませんか?

 以前にも紹介しましたが、一時期、創価学会で持ち上げたティナ・ターナ―の勤行の姿を以下に再掲します。

Tina Turner Chant "Nam-Myoho-Renge-Kyo"

 これってどう思いますか?
 私には「南無妙法蓮華経」も法華経を読んでいるのも、呪文を唱えている様にしか見えません。

 先の日蓮の御書にもありましたが、仏像の前にどの様な経典を置くのか、そこで仏像の意義は変わるとありました。では呪文として唱えた場合、どの様な考え、どの様な思い、また経典をどの様に理解しているのかによって、勤行の際に相対している仏像(文字曼荼羅もそうでしょう)の意義が変わってしまうのです。では果たしてティナ・ターナの祈りは法華経の説法会座に居ると同じ意義になっているのでしょうか。

 私にはそうは思えないんですけどね。

◆音律について
 池田氏は以前にユーディー・メニューインという世界的に著名なバイオリニストと対談しました。そしてそこで御題目のリズムについて語らっていました。つまりお題目のリズムとは「励まし」のリズムである。みたいな対談内容をしていました。

 でもその池田氏の唱えるお題目を、本部幹部会の同時中継で聞いた事がある人は多いと思いますが、しっかりと「ナムミョウホウレンゲキョウ」と発音が出来ていましたか?

 少なくとも私には「ナンニョ―・ホーネンネキョー」としか聞こえませんでした。

 そもそも「南無妙歩応蓮華経」という音律が大事なのであれば、日蓮はどの様な発音でお題目を唱えていたのでしょうかね?

 実際に鎌倉時代の発音は、現代とは異なりますし、いま私達が唱える「ナムミョウホウレンゲキョウ」とは異なっていたと思います。しかし先の御書を読むのであれば、音律だとかリズムは関係なく、その意義はどの様なものであるのか、そこを理解する事が大事な様に思えますよ。

 以上、簡単ではありますが、私の考えている勤行・唱題について、簡単に述べさせてもらいました。結論から言えば、形式を真似する以前に、その意義を理解してから取り組むべきものであり、時間や数多く唱えたからどうだというものでは無いと、私は理解しているのです。

 いくら「御呪い(おまじない)」を唱えた処で、そこに私は意義を見出せませんからね。もちろん、時と場所に関係なく、自分を奮い立たせる為に御題目を誦する(口ずさむ)事はありますよ。でもそれはけして呪文では無いと私自身は思っていますし、もちろん、法華経の意義については、これからも学び思索を続けていきますけどね。


コメント

化義の広宣流布なんていらない

2021年01月13日 11時51分21秒 | 日蓮仏法再考
 日本中に「緊急事態宣言」が出始めていますね。さてこの新型コロナウィルス禍ですが、私個人が思う処、まだ序の口なのかもしれません。相手はウィルスですが、このウィルスというのは「ばい菌」では無いんですね。ばい菌とは単細胞生物ですが、ウィルスとは生物と物質、仏教の言葉で言えば「非情」と「有情」の真ん中にいる存在です。だから自分単独では繁殖できず、細胞の中に遺伝子を送り込む事で増殖しようとします。

 だから抗菌剤でも効かない場合があると言います。この辺りも誤解している人がいますよね。

 だから変異というのが、比較的しやすいと言われています。だからこのウィルスが変異をする中で、今後、どの様になっていくのか。そこについて私は個人的に心配していたりします。

 さて今日の本題。パンデミックの事ではありません。
 先日の事、うちの嫁がリモートで座談会に出てまして、その座談会の内容について、脇にいると駄々洩れで聞こえてくるわけです。すると正月の大学駅伝で創価大学が往路優勝、復路二位であった事を幹部が取り上げ、その大学駅伝選手の後に続けと言わんばかりに、衆議院選挙で公明党勝利を訴えているのを聞いてました。



 創価大学の駅伝チーム全員が、創価学会の活動家ではないだろうに。でも結果として彼ら創価大学の駅伝チームの奮戦勝利は、創価学会の活動家を勢いづけ、日本の自公政権の下支えのタネになっているわけですね。

 あほらしい限りではないでしょうか。私はそんな様に思いました。

 創価学会が何故、このように選挙に一生懸命になるのか。それは彼らの行う選挙活動が、以前にもこのブログで初回したように、法華経に説かれる「広宣流布」の行動だと信じているからです。そしてそれは信仰による活動なので、いわば集票活動自体にも、無量の功徳(御利益)というのが存在すると信じているからなんです。

 この広宣流布という言葉ですが、法華経には「後々の世に法華経を広く宣べ流布し、断絶させてはならない」という言葉だけでしたが、大石寺の第26代貫首だった日寛師が、「法体の広宣流布」と「化義の広宣流布」という考え方を打ち立てました。

 この考え方のそもそもは、日蓮が観心本尊抄で述べた以下の言葉。
「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。」

 ここでは地涌の菩薩の上首は、折伏を現ずるときには賢い王となって愚かな王を責めて折伏し、摂受を行ずる時には、僧侶となって法を弘めたもつと述べています。日蓮は「折伏」を前面に出していたので、この観心本尊抄の記述で言えば、賢き王であるはずが僧侶でした。しかし僧侶であれば摂受の修行を行う事となり、日蓮が言っていた折伏とは異なってしまうという、いわば簡単なパラドクスへと陥ってしまいます。

 そこで日寛師は「日蓮が行ったのは法体(教え)の確立であり、これは法体の折伏なのである。法が確立したので門下が行うのは化義(形式)を弘める事である。」と解釈をしたわけです。簡単に言えば。

 そして創価学会は当然、日蓮正宗の信徒団体であったわけですから、この日寛師の教えを守り、自分達は「化義の広宣流布」をする団体なんだとなり、具体的には文字曼荼羅を弘め、形式をひたすら弘めたわけです。

 簡単に言えば法体は確立されたのだから、形式を弘めれば良いなんて安直に理解してしまったという事もあり、その根本的な精神構造の先で、今の様な集票団体化してしまったと言っても良いでしょう。

 私が創価学会の抱える問題とは、思想面の問題であり、根深い問題だと思ったのも、こういった根本的な教義に根付く問題だと理解したからなんですね。

 もうね、日蓮の文字曼荼羅なんてバラまかなくても言い訳ですよ。それよりも日蓮が確立したと言うのなら、その法体について理解を深めなければならないし、そもそも法華経で説かれる広宣流布には「法体」「化義」なんて立て分けも無いのですから、法華経とは何を説いたのか。そこに対する探求を深めていく必要がある訳です。

 そしてそんなスタンスであれば、むやみな組織拡大(膨張と言っても良いでしょうし)や、互助会的な組織の維持なんてのも不要だと思いませんか?

 もし創価学会として組織であるならば、せめて日本社会や世界の人類社会に、様々な提言をする組織としてあれば十分だと思いますけどね。

 でもその場合、いま創価学会が行っている「SGI記念提言」なんていう、空理空論の綺麗ごとで何ら実効性の無い提言なんてのも不要です。

 「化義の広宣流布」

 これは日寛師が創り出した造語なんですから、捨て去ればよいと思いますよ。そしてもっと根問いして、本来あるべき姿を模索すべきであり、それは日本国というドメスティックな社会の中で、単なる政争の具に使われるものではないと思うのです。

 こういった事も、少しは考えてほしいものですね。

コメント