自燈明・法燈明の考察

安楽死について

 大変ご部沙汰しています。長らくこちらのブログを更新していませんでした。

 最近では「壮年部大会」とかいう会合に、地元の創価学会の人達が誘いに来ましたが、私は既に「そちら」の事には関心も無くなっているので、自分の趣味や仕事に没頭しています。

 さて、今回ですが、久しぶりに日曜日の午後に、自宅でまったり家族と過ごしていましたが、フジテレビで14時から放映している「ザ・ノンフィクション」という番組で「私のママが決めたこと ~命と向き合った家族の記録」というのを見ました。内容としては末期がんとなった母親が、スイスでの安楽死を決めた事について、家族のドキュメンタリー番組でした。

 

ザ・ノンフィクション - フジテレビ

ザ・ノンフィクション - 番組情報。今、日本の「近代」が溶け始めています。ザ・ノンフィクションは、ディープにそしてアクチュアルに測鉛を降ろします。

フジテレビ

 

 ここで紹介されていた母親はまだ四十代と思われますが、子宮頸がんから膵臓、肺、そして脳へ転移してしまい、もう治療の施しようが無くなった事から、安楽死を選択しました。

 私も初期ガンでしたが、一昨年に発見され、入院、そして手術を受けました。ものがガンでしたので、現在も半年に一回は再発検査を必要としていますが、幸いな事に過去3回の検査では陰性で来ています。
 しかし一昨年の健康診断で発見され、その後の検査から治療までの三か月は、本当に地獄の様な日々(地獄という表現は適切では無いかもしれません)でした。何故なら転移していた場合には、根治治療がそれだけ難しくなるので、どうなるのか。日常生活の中では、否応なく「自己の死」を意識させられました。

 では今はどうか、というと、やはり半年に一回は近所の病院でCT検査を行いますので、完全に気が晴れているという訳ではなく、やはり検査が近づくと「自己の死」については、否応なく意識させられます。

 番組内では、安楽死を決めた母親と家族の姿が淡々と映っていましたが、その陰には相当の懊悩があり、ある意味で「肚を決める」だけの事が幾つもあった事を感じました。

 さて、こういった番組が出る度に、ネットの中でも「安楽死の是非」についての議論が持ち上がります。X(旧Twitter)に於いても、ハッシュタグ「#ザ・ノンフィクション」で検索すると、様々な意見や感想が出ていました。

 その中で良くあるのが「安楽死」と「自殺」の違いがどこにあるのか。そういった議論です。

 キリスト教では「自殺」を禁じています。また仏教でも「法器を自ら破壊する行為」として自殺を禁じています。恐らく宗教に限らず人類社会の一般常識として自殺とは、良くない行為であると言われています。でも一方で「この人生、疲れたならばリタイアすれば良い」という考え方も最近では多く、そんな意見とともに安楽死を容認する意見も見たりします。

 安楽死とは言っても、患者の求めに応じて薬剤などでほう助する「積極的安楽死」と、延命治療などを止める「消極的安楽死」がありますが、容認している国はオランダ、ルクセンブルク、ベルギー、カナダ、オーストラリアの一部州、ニュージーランド、スペイン、コロンビアと言われています。これら国の中には、ほう助を行った医師が犯罪に問われないというだけの国もあります。ただ先述のスイスは「医師ほう助自殺」を容認している国なのです。

 その事もあり、外国からスイスに来て安楽死の処置を受ける人が多いと言われており、今回の番組の母親もその一人であったわけです。

 しかしこのスイスに於いても、安楽死の為には厳格なルールが定められていて、何でもかんでも本人が希望すれば受けられるという訳ではありません。

 ・現時点での医学では治療法がなく死期が近いことが確実
 ・患者が耐えがたい身体的苦痛をなくせず、死を強く望む
 ・患者自身が安楽死を強く望み、明確かつ繰り返し意思を確認できる
 ・処置を行うのは医師に限られる

 そしてスイスえは、最後に薬剤の点滴の開始は本人に委ねられています。

 スイスはキリスト教圏の国ですが、ここまで制度化するために、国として多くの議論を費やしてきた事と思います。

 では「自殺」と「安楽死」の違いは何か。これは私が思うに「人生の先行きの見通し」の違い、あとは本人の「人生観」に関する事もあるかもしれません。

 「人生の先行きの見通し」という事で言えば、先の条件で「現時点での医学では治療法がなく死期が近いことが確実」と「患者が耐えがたい身体的苦痛をなくせず、死を強く望む」という事でしょう。
 今回の番組では末期ガンによる安楽死でしたが、その他にも現代の難病により治療法がなく、先行き如何様にしても「尊厳ある生命の維持」が出来ない場合には、選択肢として成り得るのでしょう。しかし単に「人生に疲れた」とか「心が辛い」というだけでは、安楽死を選択肢として入れる事は許されていません。

 要は本当に今の病状で先行き生命の維持が困難になり、尚且つ自分自身の尊厳も保てなくなった時、その時期を自らが決めるというために、そこに医師の介助が認められるという事なんでしょうね。

 「人生観」という事で言えば、人生とは多くの苦痛や労苦は付きまとうものです。仏教的な観点で言えばこれを「四苦」として分類しています。「生苦(生きて行く苦痛)」「老苦(老いていく事の苦痛)」「病苦(病による苦痛)」「死苦(死の苦痛)」。これら苦痛について、一般的には解脱をすれば、それら苦悩に悩まされる事が無くなると言われていますが、生きていれば苦痛は常に付き物です。
 悟りを開いた釈迦であっても、弟子の舎利弗や目建蓮が先に亡くなった事を聞いた時に大いに悲しみましたし、釈迦族の滅亡にあっても、その嘆きはいかほどであったでしょう。また釈迦自身、亡くなる際には遊行先の村で供養された「キノコ料理」の食あたりで亡くなったと言われていますが、そこでも腹痛などに見舞われ苦しんだと言われています。
 また日蓮に於いても、鎌倉で布教の中、多くの門下が迫害され、弟子達で殺害されたと言われています。よく「熱原の三烈士」という逸話で三人の信徒が、時の幕府によってなぶり殺しにされた事を聞いて、日蓮は「出世の本懐(生まれてきた目的)」を感じたなんて言いますが、実際には大いに嘆き悲しんだ思われますし、師匠である道善房の死についても、また両親の死についても嘆き悲しんだ事でしょう。そうでなければ、あれだけの人を引き付けられる訳がありません。

 重要な事は、自分自身としてこういった目の前に現れた「苦痛」「懊悩」という事から、逃避して目をそらす様な「死」の選択はやはり「自殺」にあたり、これは自身の尊厳を傷つける行為にもあたるので、認められる行為では無いのではないか。私はその様に思います。

 一方で自分の人生の幕引きとして「ここまでやった」という心に感じる事があり、且つ今時点での医療行為で手の施しようが無いのであれば、そこは「安楽死」として容認すべき事だと思うのです。そして恐らくこういった場合の「安楽死」を受け入れる為には、その本人にはよほどの胆力が必要になる事は明らかですから、名前こそ「安楽死」であったとしても、そこに至るまでの心の葛藤は、並大抵な事では無いはずです。

 とまあ、今回の「ザ・ノンフィクション」を見て、ちょっと考えた事を書かせて貰いました。

 現在の社会では、「死」というのは常に病院など「医療施設」の先にあるもので、社会ではリアルに見る事は殆どありません。これはつまり「死」とは縁遠い社会であるという事なんでしょう。しかし全ての人に「死」は平等に訪れるものであり、それが現実なんですから、こういった機会に少しでも考える機会を作る事は、実はとても大事な事なのではないでしょうか。


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