自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

記憶について考えた事

2020年11月16日 15時13分48秒 | 心のかたち
 11月も半ばを過ぎました。早いですね。
 間もなく師走になりますが、何かと年末はバタバタとしてしまいます。今年は新型コロナウィルスのパンデミックという、例年に無かった状況となっています。
 兎にも角にも、新型コロナウィルスの感染には気を付けて、この年末を過ごしていきたいと思っています。

 何かとバタバタしていると、感染してしまうリスクも高まると思いますので。

 今回は私が最近考えている事を書いてみます。

 仏教の中には、九識論というのがあるのは、このブログの中でも幾度か触れています。この中で「阿頼耶識」という事が説かれていますが、これは別名「蔵識」とも呼ばれていて、ここには過去遠々刧という遥かな昔からの記憶が蓄えられていると言います。この九識論とは、心のかたちを示した理論だと思いますが、要は人の心とは重層的に深みのある構造だと言う事を示しています。

 よく言われている「深層心理」というのは、日常生活の中には、私達が普段意識していることとは別に、意識していない心の姿がある事を教えています。皆さんの中にも「心理テスト」をやって、そこで自分も知らなかった自分の本音がある事を気付いた人は、多いのではないでしょうか。

 近年の心理学の大家と言えば、フロイトとユングですが、フロイトはリピトーという、かんたんに言えば人の心の中にある無意識には性欲が関係していると語り、ユングは集合的無意識という事を語りました。(かなり端折ってます、ごめんなさい)かの人たちの功績は、人の心には無意識領域がある事を示した事です。

 しかし仏教(大乗仏教)では、この無意識にも「エゴ(七識)」があり、そのエゴの奥底には過去からの記憶(業)があって影響を与えている事を述べています。天台宗や日蓮宗関連では、更にその奥底には「仏」が存在し、その仏が根底にあって様々な行いをした事が業となっている言うのです。

 仏教的な内容を語る事は、今回の記事の本意ではないので、ここまでにしますが、人の心を成り立たせているものに「記憶(業)」を置いているのは、とても興味深い事だと私は思いました。

 自分が自分足り得る根拠に、記憶を置いたというのはとても的確な視点です。近年、真面目に議論されている事に「記憶の全てをクラウドサーバーに蓄積することで、人は死から逃れられる」という様な議論が、真面目に為されているのも、この考え方でしょう。

 思うに私が自分だと実感するのは、やはり自分の過去の記憶に依存している処もあ、過去の様々な記憶を思い出し、その当時の感情も思い出し、時にはそのことを他者と共感する中で、自分自身の存在を実感する事、みなさんもあるのでは無いでしょうか。

 ただ最近、私は不可思議な感覚に襲われる事があります。それは十年、二十年まえの「自分」と、いま生きている「自分」は、共に同じ「自我」であるのか。確かに記憶もあり、その時々の感情も覚えています。しかし当時の苦楽を感じていた自分とは、果たして今の自分は「同じ自我」なんだろうか、という様な感覚なのです。

 過去の自分が今の何か「違う」と、感じることってありませんか?

 確かに記憶は全て持ち合わせ、時々の感情の起伏もしっかりと思い出せたりするのですが、それを感じている私自身も同じであるという保証は何処にもありませんよね。

 こんな事を考えると、記憶というのは「一貫性のある自我」のためには、とても重要である事が解ったりもします。

 さて少し視点をかえて。この記憶には自分自身の言動により、瞬間瞬間刻まれる記憶もありますが、それとは別に、私達には「民族的な記憶」や「人類として種としての記憶」、またもっと深く広く見ると「生物としての記憶」というのがあります。それらは遺伝子レベルで刻まれている記憶と言っても良いでしょう。

 私達が寝ている際、恐竜に追いかけられる夢を見るという話がありますが、これは生物(哺乳類)としての過去の記憶の影響だと言います。また欧米人がとてもネズミを嫌うのは、過去のベスト(黒死病)の経験があるからだと言われていますが、これは民族的な記憶と言っても良いでしょう。

 これらの事を考えると、記憶というのは心に蓄積されているだけではなく、肉体的な記憶というのも存在する事が理解出来ますし、私達の日々の言動というのは、心の奥底にあるものと、肉体的に刻み込まれた記憶の二種類があると言う事なのかもしれません。そしてそんな記憶に裏打ちされた自分という存在が、体や口、また心というそれぞれの活動で記憶(業)を作り出し、それが今の自分や未来の自分を作り上げていく。そういう事なんでしょうね。

 今日の記事は特に何かあるという事ではありませんが、自分自身の心に対する不可思議さを、記憶という側面から感じてしまい、それを記事にしました。


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映画「エミリーローズ」を観て④

2020年11月15日 09時25分10秒 | 心のかたち
 エミリーローズの映画を観て考えた事、一旦は今回の記事で終わろうと思います。

 他にも興味深い記事を最近ネットで見つけたのですが、これが英文なんですよ。悲しいかな私は英語を諳んじるだけの英語力もなく、そこはGoogle翻訳を使わないと読めません。しかもGoogle翻訳って、ホントに単語などを直訳だけするんで、文書として読むのには手間がかかるんですよ。

 そちらにも少し注力したいので、この話題はこここで一旦終わります。

 私はこの「悪魔(サタン、デビル)」は、ある意味で実在し、それを作り出しているのはやはり人間の心なのでは無いかと思っています。

 少し時間がある人は、以下の動画を見てください。


 この動画は西浦和也という怪談師のものですが、この動画の後半に「死なないブレスレット」という話があります。これは西浦和也氏が収集した怪談ですが、ここにも悪魔が登場します。しかし興味深いのは、この悪魔と契約したブレスレットは日本国内の寺院ではお祓いできないという事です。要は仏教では仏と魔を相手にはするけども、西洋の悪魔は別物だと言うのです。

 また別の話ですが、これも以前にこのブログで少し紹介した事ですが、とある大学で心霊スポットを実験的に作ったという事例が過去にありました。その内容ですが、まったく事故の記録のない山道に、大学生が実験的に花束を置いたそうです。すると数カ月の間に、その場所には誰かが花束を置いたりして、そのうちにそこは白い服を着た女性の幽霊が出るという心霊スポットになり、地元の人達の間でも幽霊の目撃談が出て、実際にその体験談が聞かれる様にまでなったと言うのです。

 一般的には何かしら交通事故があり、そこで人がなくなったという事例があって、心霊スポットというのは出来ると思われますが、この大学生の行った実験では、それとは関係なく心霊スポットが出来上がった事になります。

 これらの事を考えてみると、仏教の華厳経に書かれている「心如工画師(心は工なる画師の如し)」とある様に、やはり人の心には、そういったモノを作り出すという働きがあるのでは無いか。その様に思えます。

 人の心が作り出すモノが、「悪魔(サタン・デビル)」であったり、心霊現象なのであれば、そこには宗教的・民族的な傾向が出てくるのは当然であり、これらの様々な事象についても納得出来ると思うのです。

 しかしとは言え問題は、これらの事象が単なる思い込みによる妄想というレベルではなく、物理的な事象をも引き起こす事があり、エミリーローズの映画においても、主人公の少女に様々な問題が発生して、この映画のケースの場合には結果的にその少女は死に至るという事にもなっています。

 また紹介した怪談師の話の「呪いのブレスレット」の話でも、実際に様々な不幸に襲われ、周辺で大問題になっている事を考えた時、これらすべてを「心の働き」と、軽く受け流す事も難しいのではないでしょうか。そしてその現代の科学では未だ解明されていない、こういった「人の心の働きによる問題」という間隙をついて、そこに怪しげな宗教屋や、エセ・スピリチュアリスト、またはエセ霊能者等が入り込み、結果として人の人生を蹂躙するという事態も起きています。

 心理学者のカール・グスタフ・ユング氏は、人の心が起こす物理的な現象を、けして否定せず、まずはある事と受け入れた上で様々な研究を行ったと言われています。そこにはポルターガイスト現象等もあり、傾向としては思春期の少女に発現する傾向が強いと言う事を突き止めました。

 思うに私達は、今ある科学レベルのみの範疇で考え、それ以外を「胡散臭い事柄」だと排除し、無視する傾向がありますが、人の心の実像については、今の科学では未解明の部分も多く、全てに答えを出すことが出来ていません。またそういう事から、様々な偏見や誤解も生じてきている事もあるので、やはりもう私達の認識する範囲を広げる事も考えるべきでは無いでしょうか。

 「生命の時代、心の世紀」という事は、実はそういう事も関係するのではないか、私はその様に、思えてならないのです。


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映画「エミリーローズ」を観て③

2020年11月12日 14時19分04秒 | 心のかたち
 さて、引き続きこの話題について続けます。ここからは私の現在の私見を中心に語る内容となります。まあ話半分で読んで頂けたら幸いです。

 今の人類科学というのは、基本的に全ての事象について、物理学の法則のみで語られています。逆によくスピリチュアル系の話では、この現代の科学について否定的な話もありますが、私達の日常生活、例えば今このブログに私は様々な事を書いていますが、このブログを支える仕組みも、今の科学を基本としてできています。だからすべてを否定的に語る事はしません。ただもう少し現在の科学も、見る範囲を広げる事は大事なのかとも思っています。

 今の科学では、この宇宙が誕生したのは135億年ほど前に、ビッグバンという大爆発から始まったと言います。この学説は様々な天体観測の上に構築された理論とは思いますが、これが真実とは限りません。もしかしたらこの宇宙というのは、もっと長遠で莫大な年齢なのかもしれません。

 私はこの宇宙の構造とは、「宇宙人ユミットからの手紙」で、ウンモ星人を自称するユミットが語る「双子の宇宙論」が、とても事実に近いのではないかと思っています。これは物質的なこの宇宙とは別に、形而上的な宇宙が存在するという理論です。詰まるところ私達の心の本質とは、このもう一つの宇宙にあり、私達の心とはそこからこの物質的な宇宙に出現しているという理論です。そしてこの私達が生きる宇宙はもう一つの宇宙からの影響によって、様々なモノが作り出されていると、そこでは語られています。
 この話をすると「それは霊界の様なものですか?」とも言われますが、いま一般的にスピリチュアルで語られら霊界とは少し異なる世界観かもしれません。

 この形而上の宇宙では思念が全てで、私達の心の本質的な部分もその宇宙に存在し、私達がこの世界に誕生するのも、このもう一つの宇宙からの働きによる事で、この世界から去る(亡くなる事)は、そのもう一つの宇宙からの触手の様なものが、この宇宙から去ることなのかもしれません。

 物質的な宇宙と、この形而上の宇宙がベアとなり、私達の宇宙とは成立している。端的に言えばこれがユミットの語らった宇宙観でした。

 ただこの話をしたとして「ではその双子の宇宙のもう一つはどこにあるのか、私達に観察可能なものなのか」と聞かれても、それに対する答えはありません。良く「別次元」という話をしたとして、ではそれはどんな処なのか、どの様な形をしているのか、そういう事はユミットの文献にも何も書かれていないのです。もしかしたら人間には不可知な領域にあるのかもしれません。

 この様な話ですが、俄には信じられない話です。しかし私達が習っている進化論についても、適者生存により生物が進化すると言われています。しかしこれは生物の進化の過程は偶然の産物の様な事だと言う様な話ですが、それではギリシャのパルテノン神殿を作るのに岩山に銃を乱射しているうちに、あの様な立派で精緻な建造物が出来上がるような事で、非常に現実的ではない話でもあるのです。ユミットの語る宇宙論によれば、この私達の宇宙における進化には、もう一つの宇宙による意志が介在していて、けして偶然の産物では無いと言うのです。

 この事から考えると、私達の生死というのも、何らかこの形而上の宇宙の働きが元になっての事で、それは単に地球の一宗教の世界観に収まるものではないと思います。

 その様に考えた時、エミリーローズで語られた、「天国」「悪魔」という存在も、この物質世界以外にも世界があるという視点は良いのですが、それが普遍的な死後の世界観と言うものでは無いと、私は考えています。

 また悪魔ではありませんが、以前にこのブログで書いたように、日本には「狐憑き」「蛇憑き」というものもありますし、その他にも様々な憑依現象という事もあります。またイスラム圏では「ジン」という悪魔が取り憑くという話もあるのです。そこから考えるのなら、エミリーローズの「エクソシスト(悪魔払い)」というというのも、どちらかと言えばそんな類の話なのかもしれません。

 この話はもう少し続けます。

(続く)

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映画「エミリーローズ」を観て②

2020年11月10日 22時35分36秒 | 心のかたち
 さて、「エミリーローズ」を見て考えた事について、今回も書かせてもらいます。エミリーローズでは、主役のエミリーが「天国」という事と「悪魔が実在する」という事を証明したい言つていました。これは私達が生活する物質世界以外にも、別の世界が存在するという事を言っているのかと思います。

 この映画では「エクソシスト(悪魔祓い)」の事が語られている事から、キリスト教のカトリック教会の世界観に基づく話となっています。キリスト教の死生観では、人は死後に行くところは天国と地獄、そしてその中間には煉獄という事を述べています。そして「悪魔(サタン・デビル)」とは地獄にいる存在と考えられている様です。

 つまり「悪魔が実在する」という事を自身の姿を通して証明するという事は、キリスト教の死生観について証明するという事にもなるでしょう。

 しかしここで考えてしまう事は、この話で語られる死生観とはキリスト教カトリック教会の死生観であり、けして人類全般に普遍的な事ではないという事です。例えば地獄・煉獄・天国という死生観は、仏教国にはありません。また仏教でいう地獄とキリスト教の説く地獄は異なります。そもそも「黙示録」「最後の審判」という思想も仏教にはありません。だから単純に「悪魔(サタン・デビル)」と言われてみても、その様な概念は仏教国には通じないのです。

 このエミリーローズの映画内容から、ネット上にあった意見として、死後の世界は人の宗教観別にあるという様な意見がありましたが、私はこれは違うのではないかと思いました。もし死後の世界が宗教観別に存在するとした場合、それほど窮屈なものは無いのではないかと私は思うのです。

 確かにエミリーローズで描かれている様に、アンネリーゼ・ミシェルは、この世界に悪魔は存在すると言う事を証明しようと考えたのかもしれません。これはこの世界には目に見えるもの、物理的に証明出来る事以外のものが存在するという、とても大事な視点を提示していると思います。しかしその目に見えるもの以外の存在とは、単に一つの宗教による観点の枠に収まるものでは無いと、私は思うのです。

 私は仏教を信じている立ち位置になるかもしれませんが、だからと言って、仏教全般で語られている死生観が正しいとも考えていません。それらの死生観は、大事な観点を与えてくれるものだと思いますが、やはりそれらを鵜呑みにする事は出来ないのです。

 この死生観ですが、特的の宗教観を鵜呑みにすることは、その人の生き方を特定の宗教に縛らせる事にもなります。創価学会の活動家達が、どんなに政治が不透明になろうが、その支援政党が自分達の過去の主張と異なる行動をとろうが、盲目的に支援する行動を見ても、その事は容易に理解出来る事でしょう。

 本当であれば一人ひとりがしっかりとした考え方を自分の中に構築する必要があるのですが、今の時代、それはとても難しい事なのかもしれません。何故なら人間の生死は、今の時代、病院という施設の中に閉じられてしまっているので、中々、思索するきっかけを得るのは難しい事だと思うのです。そういう事から言えば、このエミリーローズの映画は大事な観点を与えてくれるモノだと思いました。

 このブログの過去の記事で、心のかたちとして様々な事を書いてきましたが、次回からその観点を元に、この事を更に書いてみたいと思います。

(続く)


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映画「エミリーローズ」を観て①

2020年11月10日 11時32分01秒 | 心のかたち
 昨日はVOD(NETFLIX)で、「エミリーローズ」という映画を観ました。これは2005年に製作された、アメリカのホラー映画です。この映画は1976年にドイツで発生したアンネリーゼ・ミシェルの保護責任者遺棄致死罪を題材に製作されたと言います。

 この事件は、アンネリーゼ・ミシェルという少女が病気と診断され、長年治療してきましたが、改善する気配はなく、その後の異常行動からカトリック教区により、正式に「悪魔憑き」と判断され、その悪魔祓い(エクソシスト)を実施中に栄養失調等により彼女が死亡した為、裁判になった事件でした。



 映画のストーリーとしては、一応、ホラー映画のなっていますが、内容的にあまりおどろおどろしい物ではなく、主人公のエミリーが亡くなり、そこからエクソシストを実施した司教が裁判にかけられ、法廷闘争の中で、様々な事が論じられていくという内容でした。

 果たして、悪魔憑きとは精神病の一つなのか、それとも超常現象に属するものなのか。

 検察側は、悪魔憑きとは精神的な病であり、エクソシストを実施した教区の司教は、エミリーにまともな医学的な治療も受けさせず、結果として彼女を栄養失調により殺してしまった事を論拠立てて立証を進め、一方の教会側の女性弁護士は、エミリーは精神病では片付けられず、エミリー本人や家族も最期の手段として、司教に救いを求め、エクソシスト(悪魔祓い)を依頼した。また司教もエミリーに食事を取らせようと努力もしたし、けして医療行為も否定しておらず、だから今回の事は罪には当たらないという抗弁をしました。

 攻める検察官はカトリック信徒であり、弁護する弁護士側は神を信じない不価値論者ですが、互いに真っ向からぶつかり合う内容は、かなりのものでした。これは恐らく演出だったのでしょう。また教会側は、司教に証言させず、穏便に済ませたいという姿勢。その為に女性弁護士には被告である司教に証言はさせないように求めていたのです。

 ただ実際にエクソシストを実施した司教は「エミリーの真実を知らしめねば」という使命感から、女性弁護士に証言台に立つことを求め、女性弁護士も裁判に関わる中で、不可知論者である自身を揺るがす様々な出来事に遭遇するなかで、司教を証言台に立たせました。

 そして証言台に立った司教は、エミリーから貰っていた手紙を紹介、そこにはエミリーの自筆で、自分が自分自身に取り憑いた悪魔を示すことで、悪魔が実際に存在する事、また霊界というのは実在する事を証明したいという事が書かれていたのです。
 確かにエミリー自身は精神病の症状を完全に示していた訳ではなく、所謂「憑依状態」以外では、しっかりとした自分を持つ少女でした。ただ感受性が非常に敏感であったから、その隙間に六人の悪魔が憑依したと言うのです。

 この映画で裁判の結果は、エクソシストを行った司教は有罪。ただし裁判の結審日をもって、懲役刑の刑期は終了するという判決になりました。その後、司教は隠遁生活に入ったと言います。

 この映画の元になったアンネリーゼ・ミシェルの墓は今もあり、訪れる人は今も絶えないと言われています。

 さて、私がこの映画を観て思ったのは、悪魔という存在と、ミシェルが遺言した霊界というものは存在するのか、という事でした。
 こと憑依ということで言えば、私が若い頃に「狐憑き」とか「蛇搗き」という話を聞いたこともあり、実際に宗門寺院で蛇憑きの姿を見たこともあります。また一般的にいう死後の世界について、私の独自な見解ですが考えたりもしています。そういった私の見解から考えた場合、果たしてこの映画で示された内容とはどの様に解釈したらよいのか。

 またこういう事について、私達の社会では「病理的」に解釈をしようとします。しかし果たして現代の医学的な領域だけで、全てが解釈可能なのか、そこについても気になる所です。人間の心のかたちについて、今の医学でも完全に掌握出来ている訳ではありません。しかしそうかと言って、臨床的な精神医学全般を否定するのもオカシナ話です。

 という事で、この映画をきっかけにして、少しこの辺りを思索してみたいと思いました。

(続く)

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