JH1LKJ

Amature radio のたのしみ。古い無線機のレストアを中心にアマチュア無線やそのほかの話題も。

★ アマチュア無線技士免許取得記

2010-09-16 20:01:45 | インポート

電話級アマチュア無線技士
さかのぼること40年以上昔の話です。
私が中学1年生の時、当時の誠文堂新光社の雑誌「初歩のラジオ」の実体配線図を見ながら (まだこのときは回路図が理解できませんでした。) 短波の受信機を作ることに成功し、3.5MHzや7MHzのAMのアマチュア無線を聞いていました。
このころはまだSSBを使っての交信は少なく、ごくわずかお金持ちのハムが八重洲無線のFL-100、FR-100やFTDX-400、トリオのTS-500を使って交信している程度でした。私は7MHz帯の7100KHzに近いバンドエッジで受信機から聞こえるモガモガいう音がSSBであることすら、このときはよく理解していませんでした。受信機にBFOを付ければ受信できることも知りませんでした。

多くのハムは自作機やトリオのTX-88A、TX-88D、アイデアルのケースキットを使って作ったAM送信機で交信を楽しんでいました。標準的な送信機のファイナルは807、2E26、6146のシングル、変調器は6BQ5ppまたは7189ppのプレート・スクリーングリッド同時変調、直流入力25Wです。受信機は9R59、9R59D、自作の高1中2 (高周波増幅1段、中間周波増幅2段) のシングルスーパーがお決まりでした。

ハムの交信を聞いていると当然自分もその仲間に入りたくなります。それには免許を取らなければなりません。このころアマチュア無線技士の国家試験は4月と10月の年2回です。思い立ったらすぐにでもやりたい私の性格はそれが待ちきれませんでした。
また、電話級とは言っても中学1年生の子供が教えてもらえる人もなく、独学で合格できるだけの知識を身につけるのは難しいです。そこでこの前年(昭和41年)から始まっていた養成課程講習会の電話級標準コースに親の援助で申し込みました。
2学期後半の毎週日曜日に巣鴨のJARLの4階だったと記憶していますが、JARLハム教室に通いました。周りは大学生や高校生がいっぱいで気後れしながらの受講でした。休み時間に無線機を並べてあるショールームの展示を見るのがとても楽しみでした。また、講師のOMさんが話してくださるアマチュア無線に関する余談がとても楽しく、早く仲間に入りたいと思っていました。

講習時間は無線工学20時間以上、法規20時間以上で8日間(毎週日曜日なので約2カ月)くらい通ったと記憶しています。
現在のように修了試験に追試制度もなくチャンスは1度だけで、補講制度もないので欠席はもちろん遅刻も許されない厳しいものでした。修了試験は記述式で、例えば法規の問題は「電波法に規定する無線局の定義を述べよ。」、無線工学の問題は「終段電力増幅部のパイ型タンク回路の調整方法を説明せよ。」といったものでした。学校の勉強は後回しにして一生懸命勉強して翌年1月(昭和43年1月)に電話級アマチュア無線技士の免許を手にしました。

従事者免許証を受け取ってすぐに無線局の免許を申請しました。このとき既に当時の関東電波監理局(現関東総合通信局)では「JA1〇〇〇」のコールサインが終了して「JH1〇〇〇」を発給していました。私はJH1LKJのコールサインを発給されました。昭和43年3月開局。中学1年生と2年生の間の春休みでした。

電信級アマチュア無線技士

電話級を取った翌年、CWでの交信に憧れを持っていた私は電信級アマチュア無線技士の免許を取ろうとモールス符号を覚えました。今から考えればこのころの頭の軟かさは素晴らしいものがあります。数日で覚えてしまい、あとは送信の練習と受信の練習です。
英語の授業中に教科書の文章を机の上で手を動かして送信練習していました。英語の先生に注意されたことを覚えています。
今度は電話級の講習会で得た知識がまだまだ鮮明に記憶の中にありましたから、費用が断然安い国家試験を受験しました。
蒲田にある日本電子工学院(現在の日本工学院専門学校)の試験会場に出向き、無線工学、国内法規、電気通信術の試験を受験しました。学科は問題なく合格できる自信はありましたが、通信術は自信のないまま試験の日を迎えました。

受信はテープレコーダーから流れるモールス信号を解答用紙に書き取る試験で、教室に響き渡る音が大変聞きにくかったのを覚えています。
送信は試験官とマンツーマンでむかえ合わせに座り、一人一人受験していきます。ですから待ち時間が大変長く、かなり長い間待たされました。また、そのように感じたのかもしれません。
試験官を目の前にして緊張で手が思うように動かず、実力を出し切れないまま終了でした。

半分「ダメかな。」と思っていた結果がラッキーにも「合格」でした。大変うれしかったです。このとき高校受験前の中学3年生の2学期でした。

第2級アマチュア無線技士
電信級を取得後、アマチュア無線から遠ざかっていた時期もあり20年近く経過した頃、同じ職場に勤務していた電話級ハムのMZ氏と「そろそろ2級を取らないか・・・。」という話が出て二人で受験する決意を固めました。問題は通信術です。憧れて取ったはずの電信級でしたが、あまり活用されることもなく経過した20年は長すぎました。
さすがに中学生のころに覚えたモールス符号を忘れることはありませんでしたが、1分間45文字の早さはなかなかついていけません。文字を紙に書く間にどんどん信号は先に進んで行ってしまいます。

このころ既に30歳を過ぎていた私は通信術でかなり苦戦をしました。
学科試験は、一応は大学の電子通信工学科を卒業して某通信機メーカーで仕事をしていましたので、工学は1週間程問題集を見て、法規も問題集を一通り勉強して何とか合格レベルには達することが出来ました。
第2級アマチュア無線技士免許の取得は34歳の春でした。

第1級アマチュア無線技士
2級を取得後、無線局免許の空中線電力も100Wに変更し特に不満を感じることもないまま、ハムライフを楽しんでいました。さらに空中線電力を上げて500Wの変更検査を受けることは住宅環境がそれを許さず、第1級アマチュア無線技士の免許を取得する意義を見いだせないまま月日が過ぎて行きました。
と言うのは言い訳で受験の一番の障害は和文モールスでした。覚えようと何度かトライしましたが、そのたびに挫折しました。そんなある時、1級の試験から和文モールスが無くなるという情報を得、少し色気を出したのですがその時既に年齢が・・・・。モールス通信から離れていた古くなった頭には和文どころか1分間60字の欧文モールスすら聞き取れないのです。

その後ついに通信術の試験が1分間25字の速度に緩和され、2級所持者は試験免除になってしまいました。こうなると1級を受験するのに障害はないはずです。
学科試験だけなら受かるだろうと安易に考え、2級受験の時と同様に適当に問題集を斜め読みして受験しましたが、法規はギリギリ何とかなったものの工学が合格点にわずかに届かず見事に不合格でした。
そのはずです。2級受験から20年近い時間が経過していたのです。工学の問題の内容は新しくなっているし、法規は忘れていることばかりでした。

再度一からやり直おそうと思い、「とにかくマル暗記」で有名な某上級ハム受験本を買ってみました。しかし、内容も納得しないままただ暗記するのはかえって苦痛でした。すぐに記憶のどこかへ消えてしまいます。
やはり正攻法で丁寧にCQ出版の問題集を端からやっていくことにしました。インターネットの力も借りて過去の問題の解説を徹底的に確認し、こまめに計算を紙に書いてやってみました。
ところが計算問題は簡単な計算でも計算間違えをするのです。例えばキルヒホッフの法則を解くときに3元1次方程式の解が計算間違えで合いません。公式もすぐに忘れてしまいます。まったくトホホな頭になってしまいました。割り算や掛け算も普段は電卓に頼っていますが、小学生に戻ったつもりで紙に書いて丁寧に計算することが大切です。

こんな状態で再度挑戦しましたが、自己採点の結果工学139/150点、法規124/125点と前回から飛躍的に実力アップが出来、今度は見事に合格できました。55歳の春でした。

和文モールスのできない1アマです。「なんちゃって1アマ」とも言いますが・・・・。

「和文電信できないの?」「なんだか怪しげな技術だなあ?」と総務大臣からは免許証をもらいましたが、超OMさんからは未だに1アマとは認められていません。「君の技術は今でも2アマ」だそうです。早く1アマにならなければ・・・・。


FT-620B レストア その1

2010-09-16 09:04:30 | FT-620B

TS-600に続いて私の手元に来たのは同時期の八重洲無線の6m固定機FT-620Bです。

TS-600に比べるとFMのモードがありませんし、回路的にも比較的単純です。やはり30年以上も経過しているので見た目も含めてかなり古くなっている感じはします。オーナーさんからは「受信感度が非常に悪い」とのコメントをもらっています。

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まずはフロントパネルをバラし、清掃と洗浄を実施。中を掃除機を使って清掃しました。

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当時の八重洲無線の機械はフロントパネルにビニールカバーが取り付けてありました。そのおかげでパネルには傷は全く無く、とてもきれいです。ビニールも新しいものを貼りなおしましたが、きれいにピンと張ったつもりでも四隅のネジを締めるとよれてしまいます。

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