ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

京都、パリ この美しくもイケズな街(第4・5章)

2021-10-10 06:49:05 | パリの思い出
第4章 京都とパリの魅力、都市史
パリの不動産は外国人には理解できないくらい複雑。土地と上物である建物と、その建物のフォン・ド・コメルス(商業利用権)が別p152

東京では飯田橋と神楽坂が「東京のパリ」と言われている。
その理由の一説として、真ん中に、川ではないが旧お堀があり、右岸・左岸というイメージがあるから。p175-176
(そういえば、東京で通っていたフランス語学校は飯田橋にありました)

日本の建築は、幕府の統制から離れ「表現の自由」を獲得した。ヨーロッパの都市部では、いまだにあり得ない「自由」を。
ヨーロッパの建築家を大阪の道頓堀に連れて行くと、みんな感動する。
東京の隅田川沿いの金色の変な形のオブジェはフランス人のフィリップ・スタルク。p179
(表現の自由や多様性というものは大切なものだけれども、絶対的なものではない、とつくづく思う。不自由で多様性に欠けるヨーロッパの街並みの方が美しいと思います)

学生運動全盛の時、京都の京大そばの百万遍をパリのカルチェ・ラタンになぞらえていた。
あんなパチンコ屋や何やらあるところの、どこがカルチェ・ラタンなんやと、恥ずかしいなあ、と思う井上さん。p181

東京のメディアで働いている元京大生に、立て看板の支持者は多そう。一種のノスタルジーだろうか。
この頃の立て看板は、60年代から70年代のそれより、質が落ちている。ずいぶん、デザインが下手になっている。p182

ハイデルベルグ大学の学園紛争の内ゲバで、ずいぶん校舎が傷んで、近所の住民からクレームが来た。これにどう対処するかという全学集会が開かれて、どこのセクトがどこを修繕するか話し合われた。日本の大学では考えられない。
やはり彼らには、それこそ文化的なDNAとして「街を守ろう。街を大事にしよう」という考えがあったらしい。前衛的であるはずの、学生運動の闘士たちにも。p185

ミラボー橋(Sous le pont Mirabeau)
アポリネールが自分を振って逃げてしまったマリー・ローランサンのことを追想して書いたもの。
しかしアポリネールの書簡集を読んでみると、アポリネールがいかにひどい男だったかよくわかる。SMが大好きで、ローランサンはそれが嫌で、逃げてしまったのかもしれない。p192

京都観光のガイドブックが充実してくるのは、江戸時代の中頃なら。そのころから、京都の経済力は落ちていて、京都の商人は本店機能を大阪に移しはじめる。
パリや日本も、街の力、国の力が衰えたころから、観光に目覚める。 

今パリにある有名ホテル、ほとんど全部イギリス系の名前
「ジョルジュ・サンク」はジョージ5世という意味p196

ヴェルサイユを造ったルイ14世と、パリを大改造したナポレオン3世は、インバウンドの恩人。彼らが造ったもののおかげで、今も世界中から観光客を呼べる。p201

第5章 京都とパリの食事情
パリがコンプレックスを抱いたことのある都市はローマだけ
ナポレオン時代までは、パリをローマのように作り替えるのが夢だった。p231

パリに今も繁栄をもたらしているナポレオン3世に、フランス人はもっと感謝すべき。
それなのに、パリにお墓を持ってくることさえ拒否している。
現在のフランス共和政は、第二帝政を倒して作られたという経緯があるにしても、あまりに薄情。p232

ローマ帝国崩壊から千年は、リヨンがパリよりも文化レベルははるかに高かった。
フランク王国が三つに分裂して、東フランク、西フランク、中部フランクになった。
そのうち中部フランクというのは、地中海からアルプスを越えて、リヨンに行ってディジョンを通ってフランドルへと抜ける。地中海と英仏海峡を結ぶ、中世ヨーロッパの大動脈。
この中部フランクの中心がリヨンで、そこで開かれる大市が中世の文化を支えていたから、食い物もリヨンが中心。p238
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京都、パリ この美しくもイケズな街(第1~3章)

2021-10-09 09:14:08 | パリの思い出


京都、パリ この美しくもイケズな街
鹿島茂 井上章一 著
プレジデント社 発行
2018年9月28日 第1刷発行

鹿島さんと井上さんによる、京都とパリについての対談集です。

第1章 京都人パリジャンの気質
フランス人の名前の「ドゥ(de)」
「帯剣貴族のフィエフ(封地)」を示すための前置詞
貴族の印だが、19世紀になると、貴族でもないのに文学者たちのなかには、オノレ・ド・バルザックのように勝手にドゥを付ける人も現れる。法服貴族の方は、ドゥがなくても貴族。p23

パリは昔から金融ブルジョワの街だった。徴税請負人などの大金持ちが、外国債とか債券に投資しながら代々生きてきた。p27
(渋沢栄一も、パリで債券を学び儲けていましたね)

パリジャンの自尊心の根拠は代々どこに住んでいるかよりも、田舎に巨大な城があるかどうかということ。
日本には封建遺制が残ったけれども、イギリス、フランスは封建遺制を打破したみたいに我々は習ったが、お城になんとか伯爵がのうのうと暮らしていたりするのを見ると、これこそ封建遺制ではないかと思う。

京都市役所の職員が東京へ出張することを今でも「東下り」と言うように、フィレンツェ人もローマを田舎だと見下している。p31

80年代、古舘伊知郎アナがプロレス中継で前田日明を「黒髪のロベスピエール」と呼ぶ。
それから、当時の日本人の教養のすごさに感心する井上さんp50-51

第2章 京都の花街、パリのキャバレーや娼館 
フランスの「規制主義」の起源
別名は「サン・トギュスタニスム」訳せば「聖アウグスティヌス主義」
彼は「人間は基本的に弱い存在である。誘惑、特に女性の魅力には打ち勝ちがたい。特に美人や肉感的な女性に、男が欲望を感じてしまうのは当然だ」と言っていた。p62

なぜドイツ軍はパリを目指すか?
パリには、ええ女がおるから
ナポレオン戦争の時、普仏戦争の時、ナチスの時‥p74

第3章 京女、パリジェンヌの美人力
SMは、フランスでは「イギリス趣味」と言い、イギリスでは「フランス趣味」と言う。
英仏敵対の歴史の影響で、コンドームや性病などは敵から来たとお互いに言う。
フランスではコンドームをイギリス(人)のマント(capote anglaise)と言い、イギリスでは「フランス(人)の手紙(French letter)」と言う。p119-120
(ちなみに梅毒は「イタリア病」と言っていたような‥)
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流人道中記(上) 浅田次郎 著

2021-10-02 21:38:13 | 小説
 

流人道中記(上)
浅田次郎 著
中央公論新社 発行 
2020年3月10日 初版発行

この小説は2018年7月から2019年10月まで読売新聞で連載されていたものです。
前半部分当時、平日は読売新聞を読める環境にあり、ほぼ毎日楽しみに読んでいました。
浅田さんの小説はこれが初めてです。また、新聞小説を熱心に読むことも殆どなかったように思います。それだけ内容そのものにひかれていたのだと思います。
今回(上)を読むにあたり、ちょうどいい案配で忘れている箇所もありましたので、初めてのようにワクワクしながら読み進めることが出来ました。
幕末、旗本という高い身分にありながら蝦夷に流罪となった青山玄蕃が、押送人である19歳の見習与力・石川乙次郎と共に、奥州街道を北へと進んでいきます。
詳しいストーリーについてはネタバレになる恐れがありますので書きませんが、全く異なった境遇の二人が、衝突しながら旅先で出会った人たちと、多様で数奇なドラマを展開していきます。
ひとつ残念だったのは、新聞では挿し絵があったのですが、本ではありませんでした。まあでもこれはしょうがないですね。
あと、もしこの小説が映像化されたら、玄蕃は小林薫さんあたりが似合うかなぁなんて、ドラマや映画には疎い自分ですが、思ってしまいました。
一方乙次郎の方はジャニーズの若い方が演じるのかな、なんて勝手な想像をしてしまいました。
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