地中海世界の覚え書(1)
極度に偶像を忌み嫌ったキリスト教が偶像崇拝的になったのは、ヘレニズムのせいであったということ、そしてキリスト教のヘレニズム化になしには、キリスト教は世界宗教たりえなかった。
フィディアスがアテナ女神像のコンクールに応募した時、その作品が、そのまま地上に置かれたのではプロポーションの点でみるにたえなかったが、一旦高い台座に置かれると、見事なプロポーションを示したという逸話が示すように、ギリシャの芸術家は目の錯覚を利用することを心得ていた。
アクロポリスのアテナ神殿も目の錯覚を利用
地中海世界の覚え書(2)
ギリシャのポリス間の争いでは、相手を痛めつける第一の方法はオリーヴの樹を切り倒すことにあった。
オリーヴの樹は実をつけるまでに年数が要り、大きくなればなるほど収穫は良い
ブイヤベースのマルセイユ風とパリ風
マルセイユ風はオリーヴ油のみ
パリ風はバターを加える
イチジクは地中海世界では当たり前の果物であり、しかも濃厚で甘くて旨い。
チュニジアのチュニスの街角に立って、まず第一に地中海世界は北も南も、著しい人種混淆が一大特質だと感じる堀米さん
ローマ人が地中海を「吾等の海」とした結果
ベルベルとは古代ローマ人が北アフリカを征服した際に出会った人種で、野蛮人バルバロスと名付け、それがなまってベルベルとなる。
ベルベル人は金髪碧眼、白晢という意味ではケルト、ゲルマン、スラヴなどと同じ
ハンニバルはどこから象を連れてきたか?
アルジェリアとモロッコの国境に近いグイール渓谷こそ、ローマ時代、象、ライオンなどの野獣が棲息していた土地だった。
地中海世界の覚え書(3)
チュニジアのテストゥールのモスクの時計。文字盤がなぜか左に向かってアラビア数字が記されている。
フランス領有時代の美しい海岸の別荘地帯を眺めていると、サハラの石油資源の問題を除いても、フランスがアルジェリアにかけた執念がわかってくる。
アルジェリアのティパサからアルジェに戻る途中の女性キリスト教徒の墓の遺跡。クレオパトラの娘の墓という話がある。彼女はキリスト教徒を受け入れる可能性はなかったが、墓自体は彼女かその夫のユバ二世の可能性はある。
十字架状の浮彫があるから、キリスト教徒の墓と呼ばれただけで、その十字は単なる模様らしい。
地中海世界の覚え書(4)
スペインはラテン的で西欧的な文化の影響を強く身に帯びながら、しかもイスラムとそれを通して遠く東方にまでつながる文化的伝統を排除しえない。
フラメンコのメロディを聴いて、そのマグレブ的、あるいはイスラム的東方の色調を否定できるものはいないであろう。
建築の空間意識と文化
ローマのイエズス教会は最後のルネサンス式で、同時に最初のバロック式だというのも、あながち妥協的な説明とはいえないだろう。
北フランスのボーヴェの大聖堂
高階秀彌氏は、そのゴシックの堂内空間の印象を「底知れぬ深淵というものがあるとすれば、その縁に立たされた時に覚える感情がそれに似たものであろう。限りない喪失感に捉えられながら、人間は天に向かって落ちていくのである」
(ボーヴェの大聖堂は外から見ただけで、中には入らなかった。どのような感覚なのか感じてみたかった)
西スコットランドへの旅 アイルランド文化拾遺
西スコットランドのアイオナ島
アイルランド・キリスト教の偉大な伝道者、聖コルンバが、そのイギリス伝道の最初の根拠地として建てた修道院のあるところ
七世紀はアイルランド・キリスト教の全盛期であった。
またスコットランド王の墓所としても知られる。アイオナを800年から1180年のあいだ、スコットランド王のウェストミンスターであるともいわれる。
旅と歴史
歴史家はヘロドトス、司馬遷の昔から、よく旅をしている。
ヘロドトスは「歴史」(ペルシャ戦争の歴史)を書くにあたり、ギリシャ本土や小アジア沿岸はもとより、北は黒海、南はエジプト、西はシチリアから東は遠くペルシャ帝国の内部まで、くまなく旅をしている。
犯罪捜査において現場主義が第一の格率とされるように、犯罪捜査と基本的に性格の一致する歴史研究においては、事件の調査にも似た史料を尊重すると同時に、事件の起こったその場に臨むことなくしては、史料を正確に解釈することは難しい。
世界の観光名所であるパリが、いわゆる名所でなくなるときに初めて、本当の意味でその人の名所になる。
永くパリに住んでいると、最初は夢中で訪ね歩いた寺院や旧跡に満ちたパリも、やがては無記名の家並みや街角に分解してしまう。
しかしやがてある時、フランスのあちこちで見た美しい建築が、パリそのものの中に総合して再現されていること、名もない民家にみたさまざまな意匠の美しさが、ノートルダムをはじめとするパリの歴史的寺院建築の中に比類なき美しさをもって総合されているのを見出すのである。
明治維新は、日本史における比類なく大きい文化的伝統の断絶をもたらした。
この断絶が大きければ大きいほど、日本人にとっての精神の「ふるさと」はヨーロッパに求められたのである。
第二次世界大戦後の今、人々が争ってヨーロッパに出かけるのは、意識すると否かに関わらず「ふるさと」への旅を求めてそうするのである。
堀米庸三の追悼に 堀越孝一
堀米庸三は末期の眼を抱いてヨーロッパ世界を歩いた。
その眼に映ずるヨーロッパ世界は影の内に沈み、ヨーロッパの辺境が光を浴びて輝いている。
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