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後鳥羽院 第二版 Ⅰ

2024-05-16 20:58:40 | ヨーロッパあれこれ

後鳥羽院 第二版

丸谷才一 著

ちくま学芸文庫

2013年3月10日 第一刷発行

 

丸谷才一さんによる歌人としての後鳥羽院讃歌です。

 

歌人としての後鳥羽院

 

我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ

 

藤原定家の「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」

見渡せば桜も紅葉もない、海のほとりの苫葺きの小屋からの秋の夕景にしくものはない、桜も紅葉もこれにはかなわぬ、という二重に入り組んだこころをこの三十一文字に託したのではないか。

 

後鳥羽院の「見渡せば」

・広やかな眺望を好むという個人的な嗜好

・風景美に対する詩人としての態度

・帝王として見渡した局面

 

橋姫

柳田国男によれば「大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀っていた美しい女神」

 

二十世紀ヨーロッパに見られる現象

文学者たちは写実主義から脱出する手掛かりを神話に求め、神話のパロディや再解釈という形をとった。

詩 エリオットの『荒地』

戯曲 サルトルの『蝿』

小説 ジョイス『ユリシーズ』

 

へにける年

『後鳥羽院御口伝』のなかにおける定家への攻撃

同時代のほかの歌人たちにはみな一言二言、褒めるだけにして、定家に対しては長広舌をふるうあたり、桁違いに重視したとしか思えない。あれはやはり一種特異な形での敬意の表明なのである。

 

定家の歌が称讃されたことを記しているのは、この百首歌が初めてであり、しかもその推賞者は後鳥羽院だったのである。

すなわち定家は後鳥羽院に発見された文学者だったわけで、上皇はこの発見一つだけでも日本文学にこの上なく重要な寄与を行った。

 

すでに卓越した技法を身に着けている初老の男は若いパトロンの嗜好によってそれをいよいよ磨き、

ようやく和歌のおもしろさを解し始めた青年は自分の趣味にかなった芸術家に触発されてみるみるうちに腕をあげていく。

 

定家に関する限り、彼の歌道への執心、彼の力量における上皇の信頼、それに彼の不器用な性格がこもごも作用して、定家は後鳥羽院と何度も衝突しては屈辱を味わった。

そしてあるいは病と称して和歌所に現れず、あるいは事実、病気(おそらく重いノイローゼ)になりながら、しかし結局のところ上皇の最良の助手、ないし相談役だったようである。

 

普通『新古今』編纂の内情について語る場合、『明月記』の記載が主な資料となるため、我々はどうしても定家側から事態を眺めがちで、もっぱら定家に同情し、話をそこで打ち切ることになるけれども、これはあまり想像力の豊かな態度ではない。後鳥羽院にしても多少は気兼ねしたはずなのである。

第一にその相手は遠慮ということを知らなくて、何かにつけて自説を頑強に言い張る。しかも定家は、頑固でひがみっぽい反面、有能で学識があり誠実だったし、それは後鳥羽院もよくわかっていた。

 

柿本人麻呂と山部赤人以降、斎藤茂吉と北原白秋に至るまで、並び称される歌の上手は多い中に、その運命的な対照によって隠岐院と京極黄門の一対に優るものはついになかった。

 

帝王が隠岐配流となってから、定家は保身のために近づかないよいという配慮があった。

彼が関東をはばかったのは動かぬところと言わねばならぬ。もともと定家の生活の基盤は鎌倉方と親しい人々によって固められてた。

 

文学者と文学者との真の関係は、互いにどれほど影響を受けたかということにしか存しないだろう。そして彼らは反目し対立する晩年において実は最も深く互い影響を与え合った。

 

高齢の身になってから、あるいは更にさかのぼって承久以後、定家は批評家であり古典学者であった。

批評家としての彼は後鳥羽院の影響を容易に探ることができる。

 

後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって近代を超え、そして定家は最初の近代詩人になることによって実は中世を探していた。

前者の小唄と後者の純粋詩という、われわれの詩の歴史における最も華麗で最も深刻な対立はこうして生まれ、そのゆえにこそ二人は別れるしかなかったのである。

 

宮廷文化と政治と文学

ナポレオンと対応するものとして後鳥羽院

保田與重郎は英雄にして詩人という彼の主題を託するための格好な対象として、埋もれていた一人の大歌人を発掘した。

 

承久の乱という反乱の最も重要な部分は後鳥羽院という一人の妄想に属しているからである。

彼はそれを長い歳月にわたって心に育て、その結果、久しい以前から隠岐に流されることを夢み、更にはその事態に憧れていたようにさえ思われる。

あはれなり世をうみ渡る浦人のほのかにともすおきのかがり火

これは遠島以前の作?

 

和歌という文学形式が呪言によって生まれ、儀式となり挨拶となったという折口信夫の説は正しいようである。

 


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