アルブレヒト・デューラー ネーデルラント旅日記 1520-1521
アルブレヒト・デューラー 著
前川 誠郎 訳
朝日新聞社 発行
1996年7月10日 第一刷発行
本書はデューラーが1520年7月から翌年の7月までアントウェルペン市を中心に、今のベルギー・オランダ諸都市を訪ねた旅日記です。
内容は旅中の収支の明細を記録した出納簿が主になっています。また旅先で描いた作品も載っています。
文中では、ラファエッロ、ルッター(ルター)、エラスムスなどの有名人が同時代人として出てきます。
はじめに
デューラーを直ちに〈新教徒〉であったと速断すべきではなく、当時は今日的な意味での〈新教〉はまだ成立していなかったことに注意しなければならない。p4
ネーデルラント旅日記
エラスムスの肖像画作成のためデューラーによる写生が行われていた。
ウルビノのラファエル(ラファエッロ)が1520年4月6日亡くなった。その素描類は死後すべて散逸した。しかし彼の弟子のトーマス・ダ・ボローニャがデューラーに会いたいと言った。
賭博の記事が多く出てくるが、デューラーは大抵負けた話ばかりである。
遊戯はおそらく将棋(Brettspiel)であり、Schach、Muhle、Trick-Trackの三種があり、盤もこの三つを折りたたんで組み合わせてあった。
アントウェルペンでシュトラースブルグ(ストラスブール)のものよりも高いといわれる大聖堂にのぼった。
(実際はストラスブールのそれより11メートル低い)
ブリュッゲ(ブルージュ)でミケランジェロの聖母子像(1506年購入)を見るデューラー。
ルッター哀悼文
解説
デューラーがこの日記で使った言語は、1350年頃から当時まで行われていた初期新高ドイツ語だった。
当時と現代の値段の比較には、ローストチキンがまだわかりやすい。
当時、このような長い旅は例外中の例外であるとともに、限りない贅沢でもあった。
前半は年金給付請願のためだったが、後半は観光の旅だった。
1521年5月4日のルター逮捕のニュースを聞き、デューラーは悲痛極まりない哀悼文を書いた。
この逮捕は実はザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公の書いた芝居だというのは今日誰しも知るところである。
ルターは事件の六日前に友人クラナッハへ宛ててしばらく身を隠すことを予告している。
デューラー時代、即ち十六世紀第一・四半期ごろのドイツ美術史を眺望して極めて特異に感じることは、デューラー、クラナッハ、グリューネヴァルト、ホルバイン、あるいはラートゲープ、リーメンシュナイダーたちの巨匠たちと政治とのあまりにも直接的な関係である。
ルッター哀悼文の四つの段落
・悲報の到来とその依って起こった理由についての考察
・救世主ルッター亡き今、彼に代わるべき真のキリスト者の派遣を神に求める祈り
・エラスムスに向かって万事を放擲して蹶起することを懇願
・黙示録を引用した結尾の祈り
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