大学の起源
チャールズ・ホーマー・ハスキンズ 著
青木靖三 三浦常司 訳
八坂書房 発行
2009年11月25日 初版第1刷発行
Ⅰ 大学制度の発生
ギリシャ人やローマ人の法律や修辞学や哲学の教育の多くは凌駕しがたいほど高度なものであったが、それは永続的な学問機関という形に組織されていなかった。
十二、三世紀になって、われわれに最もなじみ深い組織された教育の諸特徴、すなわち学部や学寮や学科課程が代表している教育の全機構、試験や卒業式や学位が世の中に現れる。
初期の大学は創設者もなく、いつから始まったかもはっきりわからなくて、明白な記録なしに徐々に静かに発生して、「まさに自然発生した」と言えるものが多い。
1100年と1200年の間に、いくぶんかはイタリアとシチリアを通じてだが、主としてスペインのアラビア人学者たちを通じて、西ヨーロッパへ新しい知識が多量に流れ込んだ。
それらはアリストテレス(哲学者)、エウクレイデス(ユークリッド、数学者)、プトレマイオス(天文学者、地理学者)、およびギリシャの医学者たちの著作、新しい算術、ローマ法の本文などであった。
サレルノの医科大学
11世紀の中頃の医学校。医学の歴史においては重要だったが、大学制度の成長には何の影響も与えなかった。
ボローニャは、ローマ法の復活の中心地として最も注目すべきではあるけれども、多くの面を持った学校であった。
ローマ法は中世初期に西欧から姿を消したのではなくて、その影響力がゲルマン人の侵入してきた結果大いに減少していったのだった。
北ヨーロッパにおいては、大学の起源はパリのノートルダムの司教座聖堂学校に求めなければならない。12世紀初めまで、フランスや低地諸国においては、学問はもはや修道院専有のものではなく、司教座聖堂の付属学校が学問の最も活発な中心になっていた。
パリの強みは一つには地理的、一つには新しいフランス王国の首都としての政治的なものであったが、幾分かはアベラルドゥス(アベラール)という偉大な教師の影響力のせいにしなければならない。
いつパリが司教座聖堂学校ではなくなって大学になったかは誰にもわからないが、12世紀末以前だったことは確かである。
しかし大学というものは祝うべき正確な日付をもちたがるもので、パリ大学は最初の国王の勅許状を得た年である1200年を選んだ。
教師たちの組織された団体という意味での大学(ユニヴァーシティ)はすでに12世紀に存在していた。1232年まではそれは発展して自治団体になっていた。
それはパリは、ボローニャとは対照的に、教師たちの組合だったからである。
12世紀のパリに起源を持つもう一つの大学制度は学寮(カレッジ)である。
パリは中世には神学の学校として抜群であった。そして神学は「高等学問夫人」と呼ばれ、中世の学問の最高の科目であったので、とりもなおさずパリは大学としては抜群であった。
「イタリア人はローマ教皇制度をもっており、ドイツ人は神聖ローマ帝国をもっており、フランス人は学問をもっている」という古いことわざがあった。
結局、大学の伝統が最もまっすぐに伝わっているのは制度においてである。
Ⅱ 大学教育
もしも古代の古典と自国語文学の欠如が学芸のカリキュラムの顕著な特徴であるならば、同程度に顕著な事実は、論理学または弁証法が非常に重視されたことである。
最も初期の大学規則である1215年のパリ大学の学則は、アリストテレスの論理学の著作全体を履修することを要求しており、これは中世を通じて学芸課程の中心だった。
法律学においては、全ての教育の基礎は必然的にユスティニアヌスの『ローマ法大全』であった。というのも、中世ヨーロッパの慣習法は、一度として大学の研究科目になったことはなかったからである。
Ⅲ 学生の生活
中世の大学生活の遺物は、学生の手引書、学生の手紙、学生の詩の三つに大別される。
大学記録(資料)
一 勉学のために旅をする学生たちのための特権(1158年)
皇帝フリードリヒ赤髭王が1158年に発布
ある原因で逮捕されることからの免除や、市当局の代わりに教授か司教の前での裁判は貴重な特権だった。
二 フィリップ尊厳王がパリの学生たちに与えた特権(1200年)
三 パリ大学にたいするグレゴリウス九世の大勅書(1231年)
教授免許を与える際のパリの文書局長の力を制限し、パリ大学の立法権と講義停止権を認め、種々の点において学徒たちを保護するものである。
四 教員免許授与権(ローマ教皇ニコラウス四世の大勅書、1292年)
五 教師と学生の税金の免除(パリ大学に対する1340-41年のフィリップ四世の勅許書)
六 ハイデルベルグ大学の設立勅許書
パリが大いに手本になったということと、教師と学生に多くの特権を与えている
七 1764年のブラウン大学の設立許可書
アメリカの初期の大学が、特権や免除の点で、古いヨーロッパの大学の影響を受けていた。
八 トゥールーズ大学への勧誘書(トゥールーズの教師たちからの他の諸大学への手紙、1229年)
九 アベラルドゥスの『然りと否』
一〇 パリでのアリストテレスの受け入れられ方
教会当局は最初アリストテレス研究に対して躊躇する態度を示していたが、のちに彼を神学のとりでとして採用するようになった。
十一 1241年にパリで断罪された十か条の誤謬
十二 パリ大学で学芸の学位に要求された書物(1254年)
七自由学芸のうちのいくつかの欠如と、アリストテレスの書物の多さに注目
十三 パリ大学へ遺言によって贈られた書物の目録(1271年)
十四 ボローニャ大学の学芸と医学の教科書(1405年)
十五 ライプツィヒ大学で学芸の学位に要求された書物(1410年)
十六 トゥールーズ大学学芸学部の講義時間表(1309年)
十七 ライプツィヒ大学の学芸学部の講義時間表(1519年)
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