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mixed media  ミクストメディア

2022-09-17 21:30:17 | 誰かへ

 

What is sensorial art that contains all "schools"?

If you want to know, translate it yourself.

 

ミクストメディア (英語: mixed media) とは、現代美術において、性質や種類の異なる複数の媒体または素材を用いる技法、またそれによりつくられた美術工芸品のことである。ウィキより

 

感覚を伝える為の表現手段として、水墨や水彩、油絵や立体ほかの後発画材による絵画がや彫刻ある。

 

質感の違いなどそれぞれの材料を「自分の感覚を表現する為に選ぶ」というだけで、画材が目的ではない。

 

勤労学生控除という税制での優遇措置がある。

アルバイトしながら学費を稼ぎ、学を問い、真理を追究するというとても崇高で奥深い楽しみではあるが、入り口はどこにでもあるし、誰もに門は開かれているのに、崇高ぶった学術書がそれらを妨げる。(公的に学生に借金させ利ザヤで儲ける国からの助成金で儲ける学校もある。)

それらというのを具体的にいえば、誰しもが持つ「知的好奇心」だ。

 

「学徒出陣」を男女別に見ると、未だに残るこの有り様だ。

 

まぁ奥田君は政治関係なんだから、SNSで「あららます」はないだろうけど、誤字脱字が得意な私としては自分を棚に上げて苦言を呈しておきたいが、お気持ちや意味は充分理解できます。という感じだ。

 

 

私の近所には高校野球甲子園で結構有名なワイのつく学校がある。

私が昼間にたまたまランニングするときに、たまたま彼ら(坊主頭なので多分野球部だろうと想像してるだけだが)のランニングと出遭うことがある。

調べると公立校だから多分共学だろうと思うのだが、奴らがもし白パン強制を体育会系故に受け入れ、そして脳味噌に刷り込まれるとすると、アノときに白パン女子じゃないとだめ、みたいな潜在意識に洗脳されて「人を愛し、感覚を広げていく」という、卒業後の人生にとりとてもマイナスのマイナンバー登録みたいになるようで、そろそろ爺さんと呼ばれ得るお年頃の私が、何故か老婆心を持たざるを得なくなる。

 

それが私の創作活動に影響するかと言えば、「お前らクソガキに付き合ってる暇はもうないんだよ」という他ない。だってあと何年・・・という自信の身体から感ずるカウントダウンがある。

 

好きな作家の作品は本屋さんで毎月毎週末にチェックして全部読んでいたが、いまの若者は文字より漫画というせせこましさだ(頭の中が)。

私の書いたものを全部読むなんてことは面倒臭くてできないだろうと思う。本に纏めていないし、いろんな多数の記事に埋め込んでいるから。

しかしそういう表現方法もあるのだと示し、既存メディアに載せなくてもどうにでもなることを示してしるが、だからといってミクストメディアが結果としてであり、手段であり、目的ではない。

 

美術界までもが、白パン強制に侵されるようでは人の想像力表現は終わる。そもそもそこに他のメディアなど何の関係もなく、有名無名なども関係ない。

 

こんな例は分かり易いだろうか。

 

ゴッホという天才画家がいた。

彼が死んだあと(自殺か他殺かいまだに議論が分れる人物)だ。

 

彼が描いた絵は、後世に注目され世界が知るところとなった。

もちろん、彼が生きていた時代にはTVやネットなど、画像を映し出すメディアは無かった。

 

そういう中で彼が何を描こうとしていたか。

優れた絵画というものは、詩もそうだが、鑑賞する者それぞれに、それぞれの脳内想像(ビジョン)を与え得る。

鑑賞する者は、自由に鑑賞しそれぞれの想像(胸の内)に何かを感ずる。そこは白パン強制など全くない自由世界なのである。カラフルであろうとモノクロであろうとどちらでもなかろうと自由なのだ。

 

私の場合、ゴッホは「空気や気流」を感じ目視できる才能を持った人類最後の個人だろうという感想を持っている。

それを視覚化する為に彼は人生を費やしたが、彼の感覚は彼だけが突出したものだから、変人としか扱われない。

その感覚の多様性の中の特殊性は当時の絵画界にすら認められなかった。そう思う。

 

彼の数少ない友人画家はいわゆる印象派だけで、彼らだけが辛うじて彼の感覚、つまり空気や気流を目に見えるものとして描くという、当時としても現在も誰も感じ得ない感覚を理解しようとしているが、印象派の画家の目にもさすがに空気や気流までは見えなかった。

私はそう論評する。

真逆の見方をするならば、当時メジャーとなっていた印象派画家の嫉妬とインスピレーションの源泉がゴッホであったのかもしれないということだ。

 

そしてその後彼が自死にせよ他殺死にせよ、不幸な死に追いやられるのは何故なのか。

そこに「感覚における異端者差別」がなかったとはいいきれまい。

 

というちょっと格好をつけた言葉を使いながら、彼の描いた絵画ではなく、直接彼への尊敬を言葉で表現してみた。

 

そういった美術が生まれながらに家の壁に掛かる世界と、そうでない世界。

あるいはそれと併せ、両手両足を釘で打たれ貼り付けにされた人間が、そのグロテスクな表現が、未だに崇拝されている世界とそうでない世界。

その共通点を普遍性と呼ぶならば、しかし私は敢えてそう呼ぶ為に私の感覚を全部駆使しミクストメディアというものを日本語として表現できない、日本の絵画芸術家気取りの若者に対し、アンチヨコモジとしてここに記して置きたく思う今日この頃だ。

そして私個人的な思いをさらに追加しておく、まるでラーメン替え玉30円的にではあるのだが、

個人的には情熱を重んじながら、公共意識としては冷静を重んじる。そうでなければ民主主義が廃止されてしまう昨今の論調に、こういった意味で「進化過程にある民主主義を見捨ててはならない」と、モノ申しておきたいというわけだ。

猿が人間に進化して間もないと地球という星の、気の遠くなるような記憶歴史から思えば浅い歴史でしかない。

その猿・人間が民主主義を精神的・文化的に獲得する過程はまだ少し遠いだろう。

そこに芸術家の魂が必要とされるということがいまや明らかなのであるのも確認された。

 

それでも、彼らの発想は新しい。

上記の意味でも誉め言葉としても、嫌、そういうことではなく単なる時間軸として新しいと無機質に言っておくべきか。

 

学徒動員で当時の男子は兵隊として、女子は銃後として働かされた。

3年前の配布しきった私の詩集冊子は、50部限定で全て再生紙で作った。

制作費として普通紙よりも高価だったが、高価でいいのか?

工場の再生紙のラインを動かすにはどうするのか、そしてその再生紙に何を印刷するか?という問いから始まったのだ。

思考回路とか思考の順序などと思う。

 

当時の女性たちが学徒動員で拾って歩いた紙屑は、当時を想像することから始まる。

鼻をかんだ紙やら尻を拭いた紙やらを拾い集めて、再生紙を作っていた。

日本語ではそれを「ちり紙」と当時、呼んでいた。

 

「ちり紙」である。

 

オジサンからは、なにがミクストメディアだよバカヤロー日本語でやれ!

ではあるのだが、発想には驚かされる。必見だ。

彼らがアートと芸「術」の相違について思考錯誤する、残された時間の長さに嫉妬する。

 

ギャラリーセレクトによるグループ展覧会

  • 9.12 mon ~9.24 sat 11:00 ~18:00 会期中無休 最終日 pm4:00
 

宮里絋規 丸山健太 吉田卓史 山田和幸

http://frame-shimizu.jp/2022/07/21/gallery-shimizu-selection-2022/

 

2Fの作品までもがお薦めだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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