「釈奠」は「唐代」にはその祭祀を行う対象として「先聖先師」がありましたが、初代皇帝「李淵」(高祖)の時代には「周公」と「孔子」が選ばれていました。しかし、「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔回」(孔子の弟子)となりました。これは「隋代」以前の「北斉(後斉)」と同じであったので「旧に復した」こととなります。これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものです。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。それが『永徽律令』になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなりました。いわば「唐」の「高祖」の時代への揺り戻しといえます。さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔子、先師を顔回」とすることが奏上されたものです。ここでもう一度「太宗」の時代の古制に復したこととなります。そして、これがそれ以降定着したものです。
ところで、日本で「釈奠」が最初に文献にあらわれるのは『続日本紀』の大宝元年(七〇一)二月です。
「(大宝元年)二月丁巳条」「釋奠。注釋奠之礼。於是始見矣。」
ここでは「先聖先師」が誰であるかは明らかではありませんが、『養老令』の「学令」では以下のようにあります。
「(学令)釈奠条 凡大学国学。毎年春秋二仲之月上丁。釈奠於先聖孔宣父其饌酒明衣所須。並用官物」
上にみるように明らかに「先聖」が「孔宣父」つまり「孔子」とされますから「先師」が「顔回」であると思われ、これは先に見た「顕慶二年」及びそれ以前の「貞観二年」の制度と同じであり、また「隋代」以前とも同じです。
ところで、日本で「釈奠」が最初に文献にあらわれるのは『続日本紀』の大宝元年(七〇一)二月です。
「(大宝元年)二月丁巳条」「釋奠。注釋奠之礼。於是始見矣。」
ここでは「先聖先師」が誰であるかは明らかではありませんが、『養老令』の「学令」では以下のようにあります。
「(学令)釈奠条 凡大学国学。毎年春秋二仲之月上丁。釈奠於先聖孔宣父其饌酒明衣所須。並用官物」
上にみるように明らかに「先聖」が「孔宣父」つまり「孔子」とされますから「先師」が「顔回」であると思われ、これは先に見た「顕慶二年」及びそれ以前の「貞観二年」の制度と同じであり、また「隋代」以前とも同じです。
『令集解』においてもこの「釈奠於先聖孔宣父」について「大宝令」の注釈書とされる「古記」が「孔宣父。哀公作誄。」として同様に「先聖」を「孔子」と見ているようですから『大宝令』の中にあったと思われる「学令」の基本形は、(一般にいわれるような)唐の「永徽律令」ではなくそれ以外の「令」に準拠していると考えられることなるでしょう。
考えられるのは「顕慶礼」あるいはそれ以前に行われていた「貞観律令」です。「顕慶礼」はすでに失われており内容は全く不明です。また「貞観律令」は「武徳律令」をわずかに改変したものであり、またその「武徳律令」は「隋」の「大業律令」ではなくその前の「開皇律令」を「準」としたとされています。
「唐」の「高祖」はその国制を執行する根本としての「(武徳)律令」を定めますが、以下の記事から「開皇律令」を損益してそれに充てようとしていたことが窺えます。
「…及受禪,詔納言劉文靜與當朝通識之士,因開皇律令而損益之,盡削大業所用煩峻之法。
又制五十三條格,務在寬簡,取便於時。尋又敕尚書左僕射裴寂、尚書右僕射蕭?及大理卿崔善為、給事中王敬業、中書舍人劉林甫顏師古王孝遠、涇州別駕靖延、太常丞丁孝烏、隋大理丞房軸、上將府參軍李桐客、太常博士徐上機等,撰定律令,『大略以開皇為準。』于時諸事始定,邊方尚梗,救時之弊,有所未暇,惟正五十三條格,入於新律,餘無所改。」(『舊唐書/刑法志』より)
この記述によれば「武徳律令」は「開皇律令」が原型であり、「大業律令」は「過酷」である(特に律で)として採用されていません。つまり「唐」の「高祖」は「開皇の治」と称された「文帝」の治世を「模範」としようとしていたものと考えられる訳です。
このことから、「大宝令」は「貞観令」を模範としたという可能性が高く、その場合それ以前の「持統王権」が発した「飛鳥浄御原律令」は「貞観律令」以前の「律令」を「基準」としていたことにならざるを得ず、その意味でスタンダードとなったのは「開皇律令」ではなかったかと推測されることとなるでしょう。
またそれは『続日本紀』の『大宝律令』制定記事において「浄御原朝廷」を準正としているという記事からも窺えます。
「八月…癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。」
この両者を見ると「武徳律令」の制定記事を換骨奪胎しているのが看取され、それは「開皇」とあるところが「淨御原朝庭」とあって、「淨御原朝庭」の「律令」と「開皇」律令とが対応しているように配置されていることから推測できるものです。(このことは一見『続日本紀』の編纂において『旧唐書』が参照されていることを示しそうですが、年代がかなり異なる(『旧唐書』編纂は「北宋」年間の出来事です)事を考えると、同じ原資料(「起居注」か)によったものかもしれません)
その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われると同時に、なぜ『大宝令』と「武徳律令」、「飛鳥浄御原律令」と「開皇律令」というようなモデルケースの組み合わせなのかが問題となることと思われます。
「日本側」の律令と「隋・唐」の律令はその成立が(『続日本紀』等の日本側資料によれば)80年ほど離れているわけであり、そのような過去のものと対応させていることに不審を感じます。
「遣隋使」や「遣唐使」の存在の意義から考えると、「隋」や「唐」から最新の制度・文化を吸収するつもりでいたはずであり、そうであれば「律令」という最重要なものについて「遣隋使」や「遣唐使」が帰国後「王権」がこれをすぐに応用しなかったとすると不審極まるものです。まして70年も80年も後になって応用したと云うことは考えにくく、このことから実際にはもっと早期に取り入れられていたのではないかと考えられることとなるでしょう。
「釈奠」そのものも「大學」における教養としての「四書五経」などの学習の一環としての祭祀であったと見られますが、その「大學」や「學生」などは「隋代」から存在していたと推定されることとなったわけであり、それは「釈奠」という中国流の祭祀の導入時期も同様と思われる事につながります。
これに関してはすでに何度か触れていますが『続日本紀』などの「日本側」の史料には大幅な「潤色」、と言うより年次移動の可能性があり、実際には「七世紀半ば」付近を示す記事群ではなかったかと考えています。そうであればこの両者の年次の差はほぼ30年程度には短縮されますから、派遣された「学生」などの帰国に伴って導入したとするときわめて合理的な理解が可能です。
考えられるのは「顕慶礼」あるいはそれ以前に行われていた「貞観律令」です。「顕慶礼」はすでに失われており内容は全く不明です。また「貞観律令」は「武徳律令」をわずかに改変したものであり、またその「武徳律令」は「隋」の「大業律令」ではなくその前の「開皇律令」を「準」としたとされています。
「唐」の「高祖」はその国制を執行する根本としての「(武徳)律令」を定めますが、以下の記事から「開皇律令」を損益してそれに充てようとしていたことが窺えます。
「…及受禪,詔納言劉文靜與當朝通識之士,因開皇律令而損益之,盡削大業所用煩峻之法。
又制五十三條格,務在寬簡,取便於時。尋又敕尚書左僕射裴寂、尚書右僕射蕭?及大理卿崔善為、給事中王敬業、中書舍人劉林甫顏師古王孝遠、涇州別駕靖延、太常丞丁孝烏、隋大理丞房軸、上將府參軍李桐客、太常博士徐上機等,撰定律令,『大略以開皇為準。』于時諸事始定,邊方尚梗,救時之弊,有所未暇,惟正五十三條格,入於新律,餘無所改。」(『舊唐書/刑法志』より)
この記述によれば「武徳律令」は「開皇律令」が原型であり、「大業律令」は「過酷」である(特に律で)として採用されていません。つまり「唐」の「高祖」は「開皇の治」と称された「文帝」の治世を「模範」としようとしていたものと考えられる訳です。
このことから、「大宝令」は「貞観令」を模範としたという可能性が高く、その場合それ以前の「持統王権」が発した「飛鳥浄御原律令」は「貞観律令」以前の「律令」を「基準」としていたことにならざるを得ず、その意味でスタンダードとなったのは「開皇律令」ではなかったかと推測されることとなるでしょう。
またそれは『続日本紀』の『大宝律令』制定記事において「浄御原朝廷」を準正としているという記事からも窺えます。
「八月…癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。」
この両者を見ると「武徳律令」の制定記事を換骨奪胎しているのが看取され、それは「開皇」とあるところが「淨御原朝庭」とあって、「淨御原朝庭」の「律令」と「開皇」律令とが対応しているように配置されていることから推測できるものです。(このことは一見『続日本紀』の編纂において『旧唐書』が参照されていることを示しそうですが、年代がかなり異なる(『旧唐書』編纂は「北宋」年間の出来事です)事を考えると、同じ原資料(「起居注」か)によったものかもしれません)
その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われると同時に、なぜ『大宝令』と「武徳律令」、「飛鳥浄御原律令」と「開皇律令」というようなモデルケースの組み合わせなのかが問題となることと思われます。
「日本側」の律令と「隋・唐」の律令はその成立が(『続日本紀』等の日本側資料によれば)80年ほど離れているわけであり、そのような過去のものと対応させていることに不審を感じます。
「遣隋使」や「遣唐使」の存在の意義から考えると、「隋」や「唐」から最新の制度・文化を吸収するつもりでいたはずであり、そうであれば「律令」という最重要なものについて「遣隋使」や「遣唐使」が帰国後「王権」がこれをすぐに応用しなかったとすると不審極まるものです。まして70年も80年も後になって応用したと云うことは考えにくく、このことから実際にはもっと早期に取り入れられていたのではないかと考えられることとなるでしょう。
「釈奠」そのものも「大學」における教養としての「四書五経」などの学習の一環としての祭祀であったと見られますが、その「大學」や「學生」などは「隋代」から存在していたと推定されることとなったわけであり、それは「釈奠」という中国流の祭祀の導入時期も同様と思われる事につながります。
これに関してはすでに何度か触れていますが『続日本紀』などの「日本側」の史料には大幅な「潤色」、と言うより年次移動の可能性があり、実際には「七世紀半ば」付近を示す記事群ではなかったかと考えています。そうであればこの両者の年次の差はほぼ30年程度には短縮されますから、派遣された「学生」などの帰国に伴って導入したとするときわめて合理的な理解が可能です。