『書紀』の「持統三年」記事に「解部」に関するものがあります。
「(持統)四年春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」
ここに見える「解部」とは言ってみれば、現在の警察と検察とを兼ねたような存在であり、取り調べや訴訟の裁定などを行なう職掌でした。このような職掌の人員を増加させているということは、実態として「犯罪」が多い、という背景があることを推定させます。それはその数年前に起きた「南海大地震」とそれに伴う大津波により被災した人々の生活が破綻したまま回復していないことを示します。
『二中歴』に書かれた「倭国年号」の「朱雀」の項には「兵乱」があり、また「海賊」が起きたということが書かれています。
「朱雀二 甲申 兵乱海賊/始起又安居始行」
『二中歴』の記事は(たぶん各地で)「戦乱」が起き、また「海上」では「津波」により「海」に関係した人々(本来漁業に従事する人々)に特に多くの犠牲者があり、またその後生活がままならなくなった人々が発生したことの結果であると推定されます。犯罪が増加すれば必然的にそれを取り締まり、処罰を行う実行担当者も増加せざるを得なくなります。
「持統王権」はこの「東南海大地震」の直後「徳政令」を発行し、貧窮に苦しむ人たちの負担を減らそうとしていたようですが、「犯罪」に苦しむのもまたその貧窮に苦しむ人たちであり、彼らを救済する施策の一環として「警察力」の強化を行おうとしたものではなかったでしょうか。
貧窮に苦しむ人々が多いという世の中を背景として、「持統王権」としては「人身売買」を全面的に禁止することができず「父母による子の人身売買」を有効とする「詔」を出さざるを得なかったものと推察できるものです。「解部」の増員も同じ時代背景の中の出来事と見られます。
しかし「父母による人身売買」がその後「大宝令」の施行に当たって遡って「無効」とされたのと同様、「刑部省」の「解部」は「養老令」では「六十人」に減員されており、その意味で「持統王権」の方針がこの部分でも否定ないしは修正されているわけですが、それは「地震と津波」から二十年近く経過し、生活の回復が多少進んだことが反映していると考えることもできるでしょう。
「養老令」では「解部」は「刑部省」と「治部省」に別に配置されていますが、これはいわば「刑事」と「民事」の差であり、「治部省」の解部の職掌が「譜第」に関するトラブルの解決とされているところを見ても「氏姓」の根本に関する争いが増加したことを示しています。
王権の交代がスムースに行われなかったことは「僧尼」への「公験」も根本史料がなく渋滞していたことや「筑紫諸国」の「戸籍」の入手が大幅に遅れたことなどからも容易に推察できますが、当然混乱に乗じて氏姓を偽る人なども現れたものと思われます。そのようなトラブルの解消のために「治部省」において「解部」の役割が増加したものと思わせると同時に「朱鳥」年間の「大地震」などの大災害からの復興もそこそこ行われるようになったことから「刑部省」の「解部」は役割が減少し定員減となったものと思われるわけです。
しかしそもそも「解部」の増員という事案は「難波」へ副都を設置した段階でこそ必要となったものではなかったでしょうか。この段階で「官僚組織」が整備されたと見られるのは『続日本紀』や『公卿補任』などで「難波朝」の官職名が書かれていることからも判明します。「判官」の初出も「孝徳紀」の「東国国司詔」に出現するものですが、そもそも「判官」は「官僚制」の存在と表裏であり、その「官僚制」は「律令制」ともまた「表裏」と言えますから、「遷都」自体が国家統治の全体が変革されたことを示すものと言えます。(まさに「改新」と言えるでしょう。)
「難波副都」への遷都に伴い、「難波」とその周辺(特に東方地域諸国)についても「倭国王」直轄となったと考えられ、「司法権」「警察権」などの行使も「倭国王」の直接支配の中で行われるようになったとすれば、その時点で「律令」が新たに造られ、それに基づく「官僚」が配置され、また既存の組織においても「増員」は必ず必要となるものであり、「刑部省」の組織拡大がここで行なわれたものと考えて不自然ではありません。
「解部」そのものは『筑紫国風土記』にも出てくるように「磐井」の墳墓とされる「岩戸山古墳」の「石人」にもあったとされ、淵源は古いものと考えられますが、それを拡大したものが「難波副都」のために検討され、実施されたものでしょう。
ところで上に見る「治部省」の「解部」の職掌とされる「氏姓」に関しては『孝徳紀』に「国造」の地位について詐称するものがあるので審査には慎重を期するようにという「詔」が出ており、関連を感じさせます。
「(六四五年)大化元年…
八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。…『若有求名之人。元非國造。伴造。縣稻置而輙詐訴言。自我祖時。領此官家。治是郡縣。汝等國司。不得隨詐便牒於朝。審得實状而後可申。又於閑曠之所。』起造兵庫。收聚國郡刀甲弓矢。邊國近與蝦夷接境處者。可盡數集其兵而猶假授本主。…」
この「詔」は「東国国司」へのものですが、いずれにしても「始將修萬國」という表現でもわかるように「新王権」の発足に関わるものと思われ、その意味で「氏姓」に混乱が生じやすい条件があった(あるいはそれに乗じる人たちがいた)と見るべきでしょう。それは「新日本王権」への王権移動の際の状況とよく似たものであったと思われます。
すでに「大赦」の際に「壬寅年」という「干支」表記の理由について「年次移動」の可能性を考察しましたが、上の「遷都」と「律令制」施行という事案においても同様に状況が著しく近似しており、このことは「大赦記事」の年次移動の可能性が高まったことを示すと共に、ほかにも「移動」されている記事があることを示唆するものです。
「(持統)四年春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」
ここに見える「解部」とは言ってみれば、現在の警察と検察とを兼ねたような存在であり、取り調べや訴訟の裁定などを行なう職掌でした。このような職掌の人員を増加させているということは、実態として「犯罪」が多い、という背景があることを推定させます。それはその数年前に起きた「南海大地震」とそれに伴う大津波により被災した人々の生活が破綻したまま回復していないことを示します。
『二中歴』に書かれた「倭国年号」の「朱雀」の項には「兵乱」があり、また「海賊」が起きたということが書かれています。
「朱雀二 甲申 兵乱海賊/始起又安居始行」
『二中歴』の記事は(たぶん各地で)「戦乱」が起き、また「海上」では「津波」により「海」に関係した人々(本来漁業に従事する人々)に特に多くの犠牲者があり、またその後生活がままならなくなった人々が発生したことの結果であると推定されます。犯罪が増加すれば必然的にそれを取り締まり、処罰を行う実行担当者も増加せざるを得なくなります。
「持統王権」はこの「東南海大地震」の直後「徳政令」を発行し、貧窮に苦しむ人たちの負担を減らそうとしていたようですが、「犯罪」に苦しむのもまたその貧窮に苦しむ人たちであり、彼らを救済する施策の一環として「警察力」の強化を行おうとしたものではなかったでしょうか。
貧窮に苦しむ人々が多いという世の中を背景として、「持統王権」としては「人身売買」を全面的に禁止することができず「父母による子の人身売買」を有効とする「詔」を出さざるを得なかったものと推察できるものです。「解部」の増員も同じ時代背景の中の出来事と見られます。
しかし「父母による人身売買」がその後「大宝令」の施行に当たって遡って「無効」とされたのと同様、「刑部省」の「解部」は「養老令」では「六十人」に減員されており、その意味で「持統王権」の方針がこの部分でも否定ないしは修正されているわけですが、それは「地震と津波」から二十年近く経過し、生活の回復が多少進んだことが反映していると考えることもできるでしょう。
「養老令」では「解部」は「刑部省」と「治部省」に別に配置されていますが、これはいわば「刑事」と「民事」の差であり、「治部省」の解部の職掌が「譜第」に関するトラブルの解決とされているところを見ても「氏姓」の根本に関する争いが増加したことを示しています。
王権の交代がスムースに行われなかったことは「僧尼」への「公験」も根本史料がなく渋滞していたことや「筑紫諸国」の「戸籍」の入手が大幅に遅れたことなどからも容易に推察できますが、当然混乱に乗じて氏姓を偽る人なども現れたものと思われます。そのようなトラブルの解消のために「治部省」において「解部」の役割が増加したものと思わせると同時に「朱鳥」年間の「大地震」などの大災害からの復興もそこそこ行われるようになったことから「刑部省」の「解部」は役割が減少し定員減となったものと思われるわけです。
しかしそもそも「解部」の増員という事案は「難波」へ副都を設置した段階でこそ必要となったものではなかったでしょうか。この段階で「官僚組織」が整備されたと見られるのは『続日本紀』や『公卿補任』などで「難波朝」の官職名が書かれていることからも判明します。「判官」の初出も「孝徳紀」の「東国国司詔」に出現するものですが、そもそも「判官」は「官僚制」の存在と表裏であり、その「官僚制」は「律令制」ともまた「表裏」と言えますから、「遷都」自体が国家統治の全体が変革されたことを示すものと言えます。(まさに「改新」と言えるでしょう。)
「難波副都」への遷都に伴い、「難波」とその周辺(特に東方地域諸国)についても「倭国王」直轄となったと考えられ、「司法権」「警察権」などの行使も「倭国王」の直接支配の中で行われるようになったとすれば、その時点で「律令」が新たに造られ、それに基づく「官僚」が配置され、また既存の組織においても「増員」は必ず必要となるものであり、「刑部省」の組織拡大がここで行なわれたものと考えて不自然ではありません。
「解部」そのものは『筑紫国風土記』にも出てくるように「磐井」の墳墓とされる「岩戸山古墳」の「石人」にもあったとされ、淵源は古いものと考えられますが、それを拡大したものが「難波副都」のために検討され、実施されたものでしょう。
ところで上に見る「治部省」の「解部」の職掌とされる「氏姓」に関しては『孝徳紀』に「国造」の地位について詐称するものがあるので審査には慎重を期するようにという「詔」が出ており、関連を感じさせます。
「(六四五年)大化元年…
八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。…『若有求名之人。元非國造。伴造。縣稻置而輙詐訴言。自我祖時。領此官家。治是郡縣。汝等國司。不得隨詐便牒於朝。審得實状而後可申。又於閑曠之所。』起造兵庫。收聚國郡刀甲弓矢。邊國近與蝦夷接境處者。可盡數集其兵而猶假授本主。…」
この「詔」は「東国国司」へのものですが、いずれにしても「始將修萬國」という表現でもわかるように「新王権」の発足に関わるものと思われ、その意味で「氏姓」に混乱が生じやすい条件があった(あるいはそれに乗じる人たちがいた)と見るべきでしょう。それは「新日本王権」への王権移動の際の状況とよく似たものであったと思われます。
すでに「大赦」の際に「壬寅年」という「干支」表記の理由について「年次移動」の可能性を考察しましたが、上の「遷都」と「律令制」施行という事案においても同様に状況が著しく近似しており、このことは「大赦記事」の年次移動の可能性が高まったことを示すと共に、ほかにも「移動」されている記事があることを示唆するものです。