古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「釈奠」について

2020年04月12日 | 古代史
 「釈奠」は「唐代」にはその祭祀を行う対象として「先聖先師」がありましたが、初代皇帝「李淵」(高祖)の時代には「周公」と「孔子」が選ばれていました。しかし、「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔回」(孔子の弟子)となりました。これは「隋代」以前の「北斉(後斉)」と同じであったので「旧に復した」こととなります。これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものです。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。それが『永徽律令』になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなりました。いわば「唐」の「高祖」の時代への揺り戻しといえます。さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔子、先師を顔回」とすることが奏上されたものです。ここでもう一度「太宗」の時代の古制に復したこととなります。そして、これがそれ以降定着したものです。

 ところで、日本で「釈奠」が最初に文献にあらわれるのは『続日本紀』の大宝元年(七〇一)二月です。

「(大宝元年)二月丁巳条」「釋奠。注釋奠之礼。於是始見矣。」

 ここでは「先聖先師」が誰であるかは明らかではありませんが、『養老令』の「学令」では以下のようにあります。

「(学令)釈奠条 凡大学国学。毎年春秋二仲之月上丁。釈奠於先聖孔宣父其饌酒明衣所須。並用官物」

 上にみるように明らかに「先聖」が「孔宣父」つまり「孔子」とされますから「先師」が「顔回」であると思われ、これは先に見た「顕慶二年」及びそれ以前の「貞観二年」の制度と同じであり、また「隋代」以前とも同じです。
 『令集解』においてもこの「釈奠於先聖孔宣父」について「大宝令」の注釈書とされる「古記」が「孔宣父。哀公作誄。」として同様に「先聖」を「孔子」と見ているようですから『大宝令』の中にあったと思われる「学令」の基本形は、(一般にいわれるような)唐の「永徽律令」ではなくそれ以外の「令」に準拠していると考えられることなるでしょう。
 考えられるのは「顕慶礼」あるいはそれ以前に行われていた「貞観律令」です。「顕慶礼」はすでに失われており内容は全く不明です。また「貞観律令」は「武徳律令」をわずかに改変したものであり、またその「武徳律令」は「隋」の「大業律令」ではなくその前の「開皇律令」を「準」としたとされています。
 「唐」の「高祖」はその国制を執行する根本としての「(武徳)律令」を定めますが、以下の記事から「開皇律令」を損益してそれに充てようとしていたことが窺えます。

「…及受禪,詔納言劉文靜與當朝通識之士,因開皇律令而損益之,盡削大業所用煩峻之法。
又制五十三條格,務在寬簡,取便於時。尋又敕尚書左僕射裴寂、尚書右僕射蕭?及大理卿崔善為、給事中王敬業、中書舍人劉林甫顏師古王孝遠、涇州別駕靖延、太常丞丁孝烏、隋大理丞房軸、上將府參軍李桐客、太常博士徐上機等,撰定律令,『大略以開皇為準。』于時諸事始定,邊方尚梗,救時之弊,有所未暇,惟正五十三條格,入於新律,餘無所改。」(『舊唐書/刑法志』より)

 この記述によれば「武徳律令」は「開皇律令」が原型であり、「大業律令」は「過酷」である(特に律で)として採用されていません。つまり「唐」の「高祖」は「開皇の治」と称された「文帝」の治世を「模範」としようとしていたものと考えられる訳です。
 このことから、「大宝令」は「貞観令」を模範としたという可能性が高く、その場合それ以前の「持統王権」が発した「飛鳥浄御原律令」は「貞観律令」以前の「律令」を「基準」としていたことにならざるを得ず、その意味でスタンダードとなったのは「開皇律令」ではなかったかと推測されることとなるでしょう。
 またそれは『続日本紀』の『大宝律令』制定記事において「浄御原朝廷」を準正としているという記事からも窺えます。

「八月…癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。」

 この両者を見ると「武徳律令」の制定記事を換骨奪胎しているのが看取され、それは「開皇」とあるところが「淨御原朝庭」とあって、「淨御原朝庭」の「律令」と「開皇」律令とが対応しているように配置されていることから推測できるものです。(このことは一見『続日本紀』の編纂において『旧唐書』が参照されていることを示しそうですが、年代がかなり異なる(『旧唐書』編纂は「北宋」年間の出来事です)事を考えると、同じ原資料(「起居注」か)によったものかもしれません)
 その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われると同時に、なぜ『大宝令』と「武徳律令」、「飛鳥浄御原律令」と「開皇律令」というようなモデルケースの組み合わせなのかが問題となることと思われます。
 「日本側」の律令と「隋・唐」の律令はその成立が(『続日本紀』等の日本側資料によれば)80年ほど離れているわけであり、そのような過去のものと対応させていることに不審を感じます。
 「遣隋使」や「遣唐使」の存在の意義から考えると、「隋」や「唐」から最新の制度・文化を吸収するつもりでいたはずであり、そうであれば「律令」という最重要なものについて「遣隋使」や「遣唐使」が帰国後「王権」がこれをすぐに応用しなかったとすると不審極まるものです。まして70年も80年も後になって応用したと云うことは考えにくく、このことから実際にはもっと早期に取り入れられていたのではないかと考えられることとなるでしょう。
 「釈奠」そのものも「大學」における教養としての「四書五経」などの学習の一環としての祭祀であったと見られますが、その「大學」や「學生」などは「隋代」から存在していたと推定されることとなったわけであり、それは「釈奠」という中国流の祭祀の導入時期も同様と思われる事につながります。
 これに関してはすでに何度か触れていますが『続日本紀』などの「日本側」の史料には大幅な「潤色」、と言うより年次移動の可能性があり、実際には「七世紀半ば」付近を示す記事群ではなかったかと考えています。そうであればこの両者の年次の差はほぼ30年程度には短縮されますから、派遣された「学生」などの帰国に伴って導入したとするときわめて合理的な理解が可能です。

「解部」の増減と「新日本王権」

2020年04月12日 | 古代史
『書紀』の「持統三年」記事に「解部」に関するものがあります。

「(持統)四年春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」

 ここに見える「解部」とは言ってみれば、現在の警察と検察とを兼ねたような存在であり、取り調べや訴訟の裁定などを行なう職掌でした。このような職掌の人員を増加させているということは、実態として「犯罪」が多い、という背景があることを推定させます。それはその数年前に起きた「南海大地震」とそれに伴う大津波により被災した人々の生活が破綻したまま回復していないことを示します。
 『二中歴』に書かれた「倭国年号」の「朱雀」の項には「兵乱」があり、また「海賊」が起きたということが書かれています。

「朱雀二 甲申 兵乱海賊/始起又安居始行」

 『二中歴』の記事は(たぶん各地で)「戦乱」が起き、また「海上」では「津波」により「海」に関係した人々(本来漁業に従事する人々)に特に多くの犠牲者があり、またその後生活がままならなくなった人々が発生したことの結果であると推定されます。犯罪が増加すれば必然的にそれを取り締まり、処罰を行う実行担当者も増加せざるを得なくなります。
 「持統王権」はこの「東南海大地震」の直後「徳政令」を発行し、貧窮に苦しむ人たちの負担を減らそうとしていたようですが、「犯罪」に苦しむのもまたその貧窮に苦しむ人たちであり、彼らを救済する施策の一環として「警察力」の強化を行おうとしたものではなかったでしょうか。
 貧窮に苦しむ人々が多いという世の中を背景として、「持統王権」としては「人身売買」を全面的に禁止することができず「父母による子の人身売買」を有効とする「詔」を出さざるを得なかったものと推察できるものです。「解部」の増員も同じ時代背景の中の出来事と見られます。
 しかし「父母による人身売買」がその後「大宝令」の施行に当たって遡って「無効」とされたのと同様、「刑部省」の「解部」は「養老令」では「六十人」に減員されており、その意味で「持統王権」の方針がこの部分でも否定ないしは修正されているわけですが、それは「地震と津波」から二十年近く経過し、生活の回復が多少進んだことが反映していると考えることもできるでしょう。

 「養老令」では「解部」は「刑部省」と「治部省」に別に配置されていますが、これはいわば「刑事」と「民事」の差であり、「治部省」の解部の職掌が「譜第」に関するトラブルの解決とされているところを見ても「氏姓」の根本に関する争いが増加したことを示しています。
王権の交代がスムースに行われなかったことは「僧尼」への「公験」も根本史料がなく渋滞していたことや「筑紫諸国」の「戸籍」の入手が大幅に遅れたことなどからも容易に推察できますが、当然混乱に乗じて氏姓を偽る人なども現れたものと思われます。そのようなトラブルの解消のために「治部省」において「解部」の役割が増加したものと思わせると同時に「朱鳥」年間の「大地震」などの大災害からの復興もそこそこ行われるようになったことから「刑部省」の「解部」は役割が減少し定員減となったものと思われるわけです。
 しかしそもそも「解部」の増員という事案は「難波」へ副都を設置した段階でこそ必要となったものではなかったでしょうか。この段階で「官僚組織」が整備されたと見られるのは『続日本紀』や『公卿補任』などで「難波朝」の官職名が書かれていることからも判明します。「判官」の初出も「孝徳紀」の「東国国司詔」に出現するものですが、そもそも「判官」は「官僚制」の存在と表裏であり、その「官僚制」は「律令制」ともまた「表裏」と言えますから、「遷都」自体が国家統治の全体が変革されたことを示すものと言えます。(まさに「改新」と言えるでしょう。)
 「難波副都」への遷都に伴い、「難波」とその周辺(特に東方地域諸国)についても「倭国王」直轄となったと考えられ、「司法権」「警察権」などの行使も「倭国王」の直接支配の中で行われるようになったとすれば、その時点で「律令」が新たに造られ、それに基づく「官僚」が配置され、また既存の組織においても「増員」は必ず必要となるものであり、「刑部省」の組織拡大がここで行なわれたものと考えて不自然ではありません。
 「解部」そのものは『筑紫国風土記』にも出てくるように「磐井」の墳墓とされる「岩戸山古墳」の「石人」にもあったとされ、淵源は古いものと考えられますが、それを拡大したものが「難波副都」のために検討され、実施されたものでしょう。

 ところで上に見る「治部省」の「解部」の職掌とされる「氏姓」に関しては『孝徳紀』に「国造」の地位について詐称するものがあるので審査には慎重を期するようにという「詔」が出ており、関連を感じさせます。

「(六四五年)大化元年…
八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。…『若有求名之人。元非國造。伴造。縣稻置而輙詐訴言。自我祖時。領此官家。治是郡縣。汝等國司。不得隨詐便牒於朝。審得實状而後可申。又於閑曠之所。』起造兵庫。收聚國郡刀甲弓矢。邊國近與蝦夷接境處者。可盡數集其兵而猶假授本主。…」

 この「詔」は「東国国司」へのものですが、いずれにしても「始將修萬國」という表現でもわかるように「新王権」の発足に関わるものと思われ、その意味で「氏姓」に混乱が生じやすい条件があった(あるいはそれに乗じる人たちがいた)と見るべきでしょう。それは「新日本王権」への王権移動の際の状況とよく似たものであったと思われます。
 すでに「大赦」の際に「壬寅年」という「干支」表記の理由について「年次移動」の可能性を考察しましたが、上の「遷都」と「律令制」施行という事案においても同様に状況が著しく近似しており、このことは「大赦記事」の年次移動の可能性が高まったことを示すと共に、ほかにも「移動」されている記事があることを示唆するものです。

「町段歩制」施行と「畿内」について

2020年04月12日 | 古代史
 「改新の詔」では「町段歩」制を施行を宣言しています。

「…凡田長卅歩。廣十二歩爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。…」

 しかし「岸俊男」氏によれば、「藤原宮」などから出土した木簡のうち「浄御原令施行期間」に属すると見られるものは、地積の表示に「代」を用いて「町段歩」ではないこと、特にその一つには「五百代」と記されていて「一町」とは記されていないことなどから、「町段歩制」が成立したのは「大宝令」においてである、と論証しています。(※)
 ところで『書紀』には「班田」に関する以下の記事があります。

「持統六年九月癸巳朔辛丑。遣班田大夫等於四畿内。」(持統紀)

 このように「四畿内」に「班田」に関する「官人」が派遣され、実務を行っているようです。それに関連すると思われるのが『二中歴』「年代歴」の「朱鳥」年号の「細注」です。

 「仟陌町収始又方始」

 この細注に書かれた「仟陌」とは「畔道」を指し、「仟」が南北、「陌」が「東西」を示すものとされていますし、また「方始」とは「田」の形を「方形」(正方形ないし長方形)にする事をここで始めた、という意味と考えられます。(「方格地割」を意味するものか)「収始」は「段始」の誤記とするのが通常であり、これは「町段歩制」の施行を意味すると見られています。
 「持統紀」の「班田」記事は「改新の詔」との時間的隔たりを考えると不審ですし、「岸氏」の指摘とも矛盾します。
 
 この「班田記事」を見ると「(四)畿内」についてのみ「班田大夫」派遣とされており、「持統治世期間」(「浄御原律令」が施行されている対象期間内)については「畿内」にのみ「班田」支給が実施されたように考えられます。そのことは、その支給する「班田」の面積計算に使用される基準の地割りについても、「町段歩」がその制定とその適用が当初「畿内」のみであった事を示していると理解できます。
 出土する木簡等を見ても「藤原宮」木簡のほとんど全てが「畿外」諸国からの「荷札木簡」か「過所木簡」ですから、ここで記されている面積単位としての「代」は「畿外諸国」に特有のもの、という考えも可能です。「石碑」や「木簡」などを見ても「庚寅年」以降において「近畿」で「代制」が使用されている例はなく、それを裏付けているようです。
 一般的に「制度」はまず「都」あるいはその周辺地域(直轄領域)に施行し、その後諸国へと敷衍するという手順が通常と思われますから、この「朱鳥」年間で「四畿内」に「班田」が行われ、また同時に「町段(歩)」が始められたという記事からは、「改新の詔」が示す実態が実際にはこの「朱鳥」という期間に始められたものであることを示しています。(この「班田記事」に対する理解としては「改新の詔」で「制度」として「宣言」はされたもののすぐには実行されなかったとするものがありますが、当然そのようなことがあるはずがなく、宣言後速やかに施行されたと考えて当然です。)
 つまり「段町歩制」については「畿内」についてのみ限定施行されたと考えられ、それが拡大され「一般化」するのは八世紀に入ってからのことと思料されます。それを示すのが「慶雲三年格」と言われるものです。

『続日本紀』「慶雲三年九月(中略)丙辰(十日)。遣使七道。始定田租法。町十五束。及點役丁。」

 この記事に対応するのが以下の『令集解』の解釈です。

(『令集解』田令第一条集解)「古記云。慶雲三年九月十日格云、准令、田租、一段租稲二束二把。〈以方五尺為歩、歩之内得米一升〉。一町租稲廿二束。令前租法、熟田百代租稲三束。〈以方六尺為歩、歩之内得米一升〉一町租稲一十五束。右件二種租法、束数雖多少、輸実不異。而令前方六尺升漸差地實。遂其差升亦差束實 是以取令前束 擬令内把 令條段租 其實猶益今斗升既平 望請 輸租之式 折衷聴勅者 朕念 百姓有食萬條即成民之豊饒猶同充倉 宜収段租一束五把 町租十五束主者施行 今依笇法 廿二束 准計十五束者 所得一束者 一十四束三分之二」

 ここに「令前租法」という表現がありますが、「古記」は「大宝令」の注釈書とされますからここでいう「令」とは「大宝令」を指し「前租法」というのが「持統」が「庚寅年」に出したものでありいわゆる「飛鳥浄御原令」となります。そこでは「熟田百代租稲三束。〈以方六尺為歩、歩之内得米一升〉一町租稲一十五束。」と決められたというわけです。
 上の『続日本紀』には「七道」という表現があり、そのことから「畿外諸国」に向けたものであったことが判明します。またここには「始定」とありますが、『書紀』『続日本紀』記事中の「始めて」は常識的な解釈と何も変わらず、「それまではなかった」という意味しかありません。つまり「畿外諸国」には「田租法」というものは「それまでなかった」事を示しています。(ただし地割制が決まっていなかったわけではないと思われます)
 このことは『続日本紀』の記事と『令集解』の記事は、同一日時同内容でありながら、一方は「租法」が始めて定められたものであり、もう一方は既にあった令を修正したものという、全く異なる記事であったことを示すものです。
 「畿内」にはすでに「庚寅年」に「前租法」が出されていたものですが、それを「大宝令」により「改定」したというわけです。ところが推定によれば施行後「トラブル」が多発したものでしょう。そこでは「租稲」としては(当然のこととして)「令」の規定通り「一町二十二束」が示されたわけですが、「尺」と「歩」の関係を変更するのと同時に田租法を定めたため混乱が生じ、「一歩」から得られる「米」の量の違い(輸実)が問題になったものと考えられ、それを解決するために「令」を「前租法」に戻した形で修正し「一町十五束」という「租稲」としたものと思われます。(ただし「五尺一歩」という関係は変えない)
 そしてその「令」を部分改定した「慶雲三年格」を全国に「敷衍」するということとなったものと推察されるものです。
 つまりここでは「令前租法」等法令の骨格である「尺」に関する規定を変更しており、そのことは「令前」(つまり「持統王権」の治世)の王権とその政治姿勢に対する拒否の姿勢がここにも如実に表れているというべきでしょう。
 「度量衡」というのは「王権」に決定権のある専権事項であり、これを変更するという点ですでに「王権」の「革命的体質」が窺えるものです。ただしこの場合は「法令」の変更とそれに必要な「地割り制」の変更及び「度量衡」の変更などを一気に行うというドラスティックな政治が民衆との間に壁を造ってしまったこととなり、やむを得ず妥協的に従来の「制度」へ戻さざるを得なかった状況が窺われます。

(※)岸俊男「十二支と古代人名 -籍帳記載年令考-」(『日本古代籍帳の研究』塙書房一九七九年)

「干支」と命名法

2020年04月10日 | 古代史
 「大宝二年戸籍」には子供の名前に生まれた年の干支を取り入れている場合が見受けられます。たとえば、寅年生まれだと「刀良」や「刀良売」、卯年生まれだから「宇提」「宇提売」「宇麻呂」などと名づけるのがそうです。このような命名法は「庚寅年」以前には見られません。(つまり干支と人名に対応が見出せない)ここれについては一般には理由は不明とされていますが、「庚寅」年に「戸籍」(いわゆる「庚寅戸籍」)が造られたことと深く関係していることは明確であり、その時点で「班田制」が施行されたらしいことと関係しているように思われます。
 「班田」の支給は「戸籍」の作成と関連しており、戸籍が「六年に一度」造られるとすれば「班田」は「六歳以上」について支給されることとなります。生年を名前につけておけば「干支」(といっても「十二支」の方ですが)が使用されていることから「十二種類」しかなく、生まれてから六年経過したことがわかりやすいという特徴があり、班田支給年齢に達したかが戸籍を見なくても識別できるということから命名法として普及したものと推察します。
 ところがこの対応関係が「丙申年」以降一年「ずれる」現象が確認されています。(※1)つまり、実際の生年の干支の「翌年」の干支を人名に用いることが頻出するのです。
 確かに「丙申年」まではその年の干支を人名にしているのが多くなっています。たとえばその前年は「未年」ですが、「羊」や「羊売」などと命名されているのがそうです。しかしこの翌年の「丁酉」になると突然、「酉年」であるのに「翌年」の「干支」である「戌」にちなんだ「犬麻呂」と言う名称が現れ、「酉(鳥)」に関する名称は見えません。以降も同様に生年の「翌年」の干支が名称に使用されているのがわかります。その翌年は戌年ですが「猪手売」、更にその翌年である「己亥」は亥年であるのに「根麻呂」、翌年は子年にも関わらず「牛麻呂」や「牛売」、さらにその次は丑年で「刀良」、「刀良売」、その翌年は「壬寅」で「宇麻呂」、「宇提売」などとなっています。その年次の干支を使用した例は「一件」も確認されていないのです。この「ずれ」はこの「壬寅」年で終了しその翌年から正常に戻ります。このことは「大宝二年戸籍」時に修正されたとみられます。
 これについて岸俊男氏は「籍帳」を製作した実年時(大宝三年以降であろうと推測されています)と提出されたとされる年次(これが「大宝二年」)の相違に帰して考察していますが、そうとは思えないのは当然です。その場合その年次付近だけになぜ現れるかを説明しなければなりません。
 「持統王権」による「庚寅」の改革時点で「造籍」も行われたものであり、その時点で「唐」の武則天が行った「周正」つまり「十一月」を歳首とする「改暦」を「持統王権」が取り入れたという「仮説」が有力であり(「洞田一典氏」が提唱した説(※2))、「庚寅年」の「十一月」を「歳首」つまり「正月」とする暦の変更が行われたと見られます。それを示すのが「永昌元年」という「日付」が書かれた「那須国造碑」の存在です。
 この「永昌元年」という日付は「武則天」が「周正」を導入した年次であり、それは「永昌元年」と改元した直後のことでした。(ここに「唐」の年号が存在している理由についてはすでに検討しましたが「持統王権」が当時「唐」に対し追従する姿勢を持っていたことは確かと思われます)
 その場合この年は「十二月」がなかったと「誤解」された可能性があります。その年の「十一月」に「実施したはず」の「大嘗祭」も「十一月」が「なくなってしまった形」となり、その次年度のこととして記録されてしまうこととなったと思われるわけです。
 結局「年次」が一年ずれた「暦」が作成されてしまったものであり、それが役所や諸国に配布・備え付けられたこととなります。ただし「暦」は「十一月」になって作成され配布されますから、「造籍」の際にそれ以前に生まれた子供たちを一括で追記することとなりますが、その彼等の命名は生年にすでに終わっているわけであり、その時点の「暦」は「ずれ」のない「周正」以前の暦により命名されたと見られますから、「造籍」の際には「命名」と「干支」との間に「ずれ」はなかったものですが、次の「造籍」(が行われたと考えられている)である「六年後」の「丙申」の年までに生まれた人は「ずれた暦」で命名されていたと見られるわけです。(当然「暦」そのものは「庚寅」から「大宝二年」まで使われたと見られる)そしてその「生年」と「ずれた」名前が「戸籍」に記載されたということとなるわけです。

 この当時一般民衆は家族などが生まれたり死去したりした際に「役所」に届け出を行う必要がありました。そしてその時点で「戸籍」(籍帳)に書き込まれることとなったわけですが、当然生まれた日や死去した日は重要であり、それは「役所」に備え付けられていた「具注暦」で知ることとなったわけです。この「暦」には年月日が書かれていると共に年や日について「干支」との対応が参照可能となっていたものです。そのためもしその「暦」が「ずれ」ていたとすると子供の名前も本来の干支とは異なる名前となってしまいます。
 このとき「筑紫」地域の戸籍において「生年干支」とは異なる名前がつけられていたのはこの「基準」となるべき「暦」に「ズレ」があったからと見るよりなく、「頒布」されていた「具注暦」に何らかのトラブルが生じていた可能性が高く、その中身として最も考えられるのが上に見た「周正」への変更であり、「一月」と「正月」が同年に発生した結果、「干支」の数え方を誤った可能性が高いと推量します。
 この「ずれ」は「周正」の影響と見ることができるのはその「ずれ」が「大宝二年」の造籍時点(というより直前)で修正されたらしいことからも言えます。なぜなら「周正」は「武周」において「七〇一年」まで継続したものであり、その翌年「夏正」に復帰しましたから(新羅も同様)、仮に「倭国」においてもこの時点で「復帰」つまり「一月」が「歳首」という「夏正」に変更したとすると「戸籍」の示す状況と一致しているからです。
 ただし「庚寅」から使用されていた「ズレ」た暦が「大宝二年」に新日本王権により「棄却」されたとすると、その流れには「干支がずれた」暦を造った「持統王権」に対する「否定」と「侮蔑」があったと見て不自然ではないでしょう。それはすでにみた「人身売買」の否定などの施策と一連のものと見られるものです。

 以上いくつかのポイントから考えた結果、「新日本王権」は「持統王権」を否定する施策を複数行っていたと見られることから、「持統王権」とは「別の王権」であると自らを規定していた可能性が高く、「持統王権」の都として造られた「藤原宮」(京)についても「新日本王権」としては、彼等とは別の王権の「宮都」で有ると認定していたと見るべきであり、巷間言われているような「新日本王権」の「旧都」としての「藤原宮」というものが誤解である可能性が高いと推量します。「鎮壇具」として埋められていた「富本銭」についても「新日本王権」の製造にかかるものではなく「倭国王権」の政策として鋳造されたと見るべきと思料します。
 以前も触れたように「倭国王権」から「日本国王権」へと王権交代があった後一度「倭国王権」に戻った後「日本王権」の復活という形で「新日本王権」が誕生したと見られるわけであり、それは「宮都」の変遷という意味でも「藤原宮」が「倭国王権」の「宮都」であって「新日本王権」とはいわば「関係がない」と見るべきことを示します。


(※1)岸俊男「十二支と古代人名 -籍帳記載年令考-」(『日本古代籍帳の研究』塙書房一九七九年)
(※2)洞田一典「持統・文武の大嘗を疑う-「持統周正仮説」による検証」(『新・古代学第五集 古田武彦とともに』新泉社二〇〇一年)


「筑紫」と「内外文武官」

2020年04月01日 | 古代史
『令集解』を見ると「内外文武官」という条文についての解釈が書かれています。

「考課令 内外官条」
「凡内外文武官。…。古記云。問。内外文武官若為別。答。公式令云。在京諸司為京官。是此内官。其監司在外。及国郡軍団皆為外官。是此外官。又条。五衛府。軍団及諸帯仗者為武。唯内舎人及竺志不在武之例。自余並為文。…」

 ここでは「竺志」(大宰府)(武器を持っていたとしても)(及び内舎人)は「武官」の例には入れないとされています。しかし明らかにある時期までは「武官」が存在していたはずです。それは「天武紀」に「筑紫太宰」として「栗隈王」がいたことからも明らかです。
 かれは「壬申の乱」の時点では「筑紫大宰」として強い軍事力を行使できる立場にあったことは確実です。「近江朝廷」からの「出兵」の指示を断っており、その際に「筑紫」を防衛するために自分と配下の軍は存在しているという意味のことをいっています。

「…時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。…」(天武紀)

 また彼はその後さらに「兵制官長」に就任しています。この段階でもまだ「筑紫大宰」であったと思われますから、この時点で強力な軍事力が「筑紫」(大宰府)に存在していたこと明白と思われますが、そのような彼等が「文官」であるはずがありません。これに関連して「考課令」では「将軍」が「外武官」に当たらないとされていますが、それは「将軍」等が「臨時」の役職だからとされています。しかし「筑紫大宰」は「臨時」の官ではありませんし、「軍事に特化した役職」というわけでもありません。それと同列には論じられないと思われます。(「防人正」も「文官」であるとされていますが、同様に不審です)そうであればこのときの「栗隈王」は明らかに「武官」と言えるでしょう。
 しかしこの時点で存在していた「武官」(軍事力)はどこかの時点で消えてしまったと見られます。「大宝律令」制定時点ですでに筑紫には「軍事力」が必要なくなっていたものですから、「天武紀」から「持統紀」のどこかで「筑紫」から軍事力が消失したこととなります。
 本来「筑紫」が倭国王権にとって「要衝」であるとすれば、ここに軍事的能力を置かないことはあり得ませんが、「遷都」が栗隈王以降行われたとするなら、「遷都」に伴い軍事力が移動させられ「新都」防衛に供せられるようになったと仮定した場合、「筑紫」に残った(配置された)官人が(たとえ武器を持っていても)「文官」扱いであるのは納得できるものです。
 上の「公式令」によれば「内官」は「京」に所在する官人であり、その「内官」には「文官」「武官」双方ともいたこととなります。その意味で「筑紫」が首都(京)であったと見れば、「筑紫」の官人はいわゆる「内官」であり「文武」双方の官がいたと考えて当然です。その徴証が「栗隈王」ではなかったかと考えられるわけです。

 その後「王権」の所在地の移動に伴い「軍事力」も移動したと思われるわけですが、そのことは「藤原宮」の築造と深く関係していると思われます。
 「白鳳の大地震」とそれに先立つ「筑紫大地震」により「筑紫」の「京」(都城)及び「難波京」に大きな被害があったものと思われ、その時点以降第二副都としての「藤原宮」が「正都」となり、王権関係者が移動した際に「軍事力」も同じく倭国王と首都の防衛のために移動してきたことが推定できます。そのような防衛策を講じる必要があった理由として「近畿王権」の動向があったものでしょう。
 「難波」以東の諸国は「直轄領域」の外であり、いわゆる「附庸国」でした。彼等は「王権」が直接関わることのできる外交等を除き国内における勢力としては実質的にかなり強大であったと思われ、この点について「倭王権」は警戒していたものと思われます。そのため「軍事力」を「周辺」に配置する方策をとったことから、それ以降「筑紫」は「外官」でありまた「文官」扱いとなったものと思われるわけです。